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1-1

 

 世界は紗を隔てた向こうにあった。すべては水の中のように鈍く届く。

 視界はクリアで、よく聞こえ、匂いを嗅ぎ分け、複雑な味わいを知り、触れたものの形が明確に分かる。なのに、それらは深い感慨をもたらさない。

 その感覚は漠然としたものだ。名状しがたいというのは不安をかきたてずにはいられなかった。

 アリスティドが物心ついたときから抱える憂いを押し殺すのは、すでに習い性となっている。


 王都のタウンハウスの一室で執事に渡された書類に目を通す。

「収支報告は以上です」

「問題なさそうだね。ワインの売れ行きも上々だ」

 アリスティドがそう言うと、執事は表情を崩すことなく、目元にだけ安堵を漂わせる。

 カディオ伯爵の嫡男としての仕事を滞りなく進める。手ごたえは確かに感じるというのに、それに対する喜びは生まれない。


「領地より、公爵家の子女との縁談が内密に打診されたという連絡が入っております」

 執務がひと段落ついた合間を見計らって茶を差し出した執事が言う。

 領地のカントリーハウスの家宰と綿密にやり取りをしているのでなにかのついでに連絡を寄越したのだろう。


「我が伯爵家からしたら、雲の上のお方だね。非才なる身には恐れ多い」

 執事は心得ているとばかりに会釈する。アリスティドは大抵の見合い話は今のように断ってしまうからだ。

「いずれは伯爵家に望ましい結婚をするよ。ただ、それは学院を卒業してからでも遅くはないだろう?」

 そう言って穏やかに微笑んで退けてしまう。


 学院は難関である入試を突破しなければ入学することができない。授業内容も多岐に渡る専門分野が用意されている。卒業者は優秀な人材とみなされるので、学生時代から結婚相手は引く手あまたである。そのため、在学中に多くが婚約者を持つ。将来を有望視される者ほどその傾向が強い。

「アリスティドさまはそんな通説は必要ないほど有能でいらっしゃるので、心配はないでしょうけれど」

「おや、分からないよ? 売れ残りだといって卒業後は見合い話がぱたりとこなくなるかもしれないな」

 おかしそうに静かに笑う姿に、執事はいっそそうなれば良いと思っているのでは、と懸念を抱いた。


 アリスティドは金茶色の髪、濃い緑の瞳、眉がやや太めの見目麗しい容姿をしている。穏やかな物腰で一見そうとは思えないが、鍛えられた体躯の持ち主でもある。さらには明晰な頭脳を持ち、数年前から伯爵家の事業に携わっている。

 外見内面に実績が備わっている伯爵家嫡男は、おごることなく、常に物事に公正だ。しかし、それはなんのこだわりもないように見受けられた。その年代ならばもっともっとと欲を持つはずなのに、恬淡てんたんとしている。


「アリスティドは淡泊すぎて遠方の仙人という存在のようですわ」

 とは彼の母親である伯爵夫人の言だ。

「ソランジュ、センニンとは一体なんだい?」

 伯爵は最愛の妻に尋ねた。突拍子もないことを言い出す伯爵夫人の話に、いつもにこやかな表情で耳を傾ける。

「仙人は峻厳な岩山でお酒と霞を食べて暮らしていますの。女性に目を向けることなく、書物ばかり眺めているそうですわ」


「母上は単にわたしのことを浮世離れしているとおっしゃりたいだけなのでしょう」

 澄まして夫に答える母に、アリスティドは苦笑したものだ。

「あら、だって、そっくりじゃありませんの。今にも山に籠ってしまわれそうですわ」

「お兄さま、領地へ戻って来られますよね?!」

「兄上が山へいらっしゃるのでしたら、わたしもお供します」

 母の言葉に妹が素っ頓狂な声を上げ、弟はこぶしを握って前のめりになった。


 伯爵夫人の発言はあんまりな言い様ではあるものの、頷ける部分がある。それは執事だけではなく、タウンハウスや領地の使用人たちも抱く懸念でもあった。

 だから、断られると分かっていながら、見合い話を持ち込むのだ。少しでも興味を持つものを作ろうと腐心している。

 領地にいる伯爵一家だけでなく、使用人たちも穏やかで有能な嫡男を慕っている。けれど、伯爵夫人が言うとおり、いつかふらりといなくなってしまうのではないかという危惧がぬぐえないでいた。


 アリスティドはそんな周囲の考えを察していた。

 ありがたく嬉しく感じつつ、自分でもどうにもならないことに歯がゆく思っていた。


 カディオ伯爵領は昔から良質なぶどうの産地だ。それを活かし、祖父と父が力を合せて品質の良いワインを造り出した。安定した味、量を整えるには並大抵ではない苦労があった。

 アリスティドは多くの者の力を借り、それらをブランド化し、国内外に広く売り出すことに成功した。結果、カディオ家は財を成した。カディオ・ワイン、あるいはコンテ(伯爵)・ワインの名は一級品として広く認識されるに至った。

 余裕があるからか、なすべきことが明確で成果が上がっているからか、家族と使用人たちの関係は良好だ。


 温かい人々に囲まれているのに、アリスティドはここは自分の意場所ではないという孤独さを抱えていた。

 そんな風に思うのは、ある年齢層の子供にはよくあることなのかもしれない。

 けれど、彼は、上手くいかない現実から逃げたくてそう思い込んでいるのではない。なぜなら、学業において優秀な成績を収め、貴族の長子として領地経営に携わり成果を出している。家族との関係は良好で、友人にも恵まれ、使用人たちからも慕われている。


 順風満帆であるのにもかかわらず、心のどこかに隙間風が吹く。ときおり、強く吹いては調子はずれな音をたてたり、囁く。ここじゃない。ここではないのだと。


 ならば、どこなのか。分からない。分からないのに、どうしようもなく寂しい。

 自分は欲張りな人間なのだろうか。これほどまでに恵まれた環境にいて、もっと別なものが欲しいというのだ。

 こんなにやさしい人たちに囲まれ、温かい場所にいるというのに。違う場所、ものを切望する。


「そろそろお休みになられませ。明日から後期の授業が始まりますゆえ」

「そうだね。そうするよ」

 アリスティドは漠然とした不安を笑顔で押し隠す。





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