3 勇気
3 勇気
斉藤裕也
「はい。もういいですよ。暴飲暴食に気をつけて。毎日散歩したりとか体動かすのを忘れないでね。後少しだから」
「あー、体が重い」
京香ちゃんはそういうと診察台の上に起き上がった。
「ね、先生、赤ちゃん産むのって痛いのかな?」
「そういうのは母親学級で習ったでしょ?」
「でも、先生も身近で何度も見てるからわかるでしょ?どのぐらい痛いのかな?」
「もともと人間は、というか生物は子供を産める体なのだから平気です」
「男は産めないじゃん」
「男は産めないね」
「あー、なんで不公平かなぁ」
「くだらないこと言ってないで、次の人に順番を譲ってください」
「へいへい」
よっこらしょっとスリッパを履いている。その様子を見ながら思う。
いや……、それにしてもなぁ。あの京香ちゃんが……。
スリッパを履こうとして俯いてた顔をくいとあげてばっちり目があった。
「先生、今、あのちっちゃかった京香がデキ婚するなんてって思ったでしょ?」
「いや、そんなこと思ってません」
「別にいいよ。今、どこ歩いててもみんなにお腹と顔を交互に見られてため息つかれてんだからさ」
「めでたいことなんだから、そういう人たちはほっときなさい」
「ね、先生、若過ぎて危険というのはある?」
「18歳での出産は若すぎるから心配ということはそこまで、ただ、年齢に関係なくきちんと生まれるまでは安心してはなりません」
「へいへい」
急にパッと京香ちゃんは顔を輝かせた。
「あ、そうそう。いいもん見せたげる」
そして、スマホをパッと開く。
「なに?」
「この前のお正月に撮った写真。わたしはこんなお腹だから洋服だったんだけど、お姉ちゃん振袖着たんだよ」
画面をいくつかスライドした後に見せてくれた。
文月家の家族写真。振袖を着た玲香ちゃんが映っていた。
大きくなったな……。
次の患者さんが待ってるのを一時完全に忘れて、写真に見入った。
そして、ハッと気づく。横を見ると画面の写真ではなく僕の顔を眉間に皺寄せながらじっと見る京香ちゃんの顔があった。今、何秒自分は画面を覗き込んでた?
「欲しい?」
「え?」
「写真。先生のラインにでも送ろうか?」
「……」
一瞬迷った瞬間があった。
「あ、いや、そんな。皆さんの家族写真ですから、僕がもらういわれがないです」
「あ、そう」
京香ちゃんはあっさりと引き下がり、さっさと出てった。
その日、それから、ずっとそのことが気になってた。頭の片隅にそれを置きながら外来患者の診察を済ませ、外来の診察時間が終了した後に、出産間近だったり、ちょっと状態が思わしくなくて入院している患者さんの様子を一通り見回りに行く。特に問題なく診察室に引っ返そうとするとき、2階の廊下の窓から大きなお腹で病院と母屋の間の中庭で洗濯物を取り込んでいる京香ちゃんが目についた。
僕は意を決して、一階に降りると、シーツやらタオルやら取り込んでいる京香ちゃんに近づいた。
「あの」
「あ、斉藤先生」
「ください」
「何を?」
本当に情けないことですが、自分がカァっと熱くなるのがわかりました。
「その……」
「ん?」
京香ちゃんは全く意味がわからないようで、ふと自分が手にしてるものを見る。
「タオル?」
「いや、いやいや」
はてなという顔をして、見られた。
「……しゃ」
「しゃ?」
「写真ですっ」
「写真……、あ、あ〜、写真」
何でもないことのようにさらりと言ってのければいいのに、はっきり言って挙動不審だったと思います。でも、半日悩んでどうしても欲しかった。あの写真が。
「はいはい。じゃあ、後で先生のラインに送っときます」
「すみません。お願いします」
軽くお辞儀をして去ろうとすると腕をガシッと捕まえられた。
「ま、待ちなって」
そしてぐいぐいと腕を引っ張られ、中庭のベンチに座らされる。この木の下のベンチは春先は毛虫が落ちるので要注意だ。
「なに?」
「あのさ。斎藤先生ってもしかしてお姉ちゃんのこと好きなの?」
「な、なにを突然言い出すんですか」
「じゃあ、なんで写真なんて欲しがるの?」
「それは、いい写真だなぁって思って。お世話になってるご家族の写真だからですよ」
「ふうん」
じっと僕の顔を見つめられた。
「あのね。お姉ちゃん、この日お見合い写真用に1人の写真も撮ったんだよ」
「まだ早いでしょ?お見合いって」
びっくりした。
「最近の世間一般の常識から言ったら早いのかもしれないけど」
「うん」
「うちの場合はさ、お姉ちゃんが誰と結婚するかってお姉ちゃんだけの問題じゃないからさ。わたしがこんななっちゃってもうお姉ちゃんしかいないし」
「……」
「少しでも若いうちから、探さないといい人捕まえられないでしょ?」
それから、京香ちゃんはエプロンのポッケからスマホを出して、画面をいくつかスクロールすると一つの写真を見せてくれました。それは玲香ちゃんが1人の振袖の立ち姿。普段とは違うよそいきの装い、よそいきの表情。
時間は経っていました。自分がノロノロとしているうちにもいつの間にか時間は経っていた。
子供だった子が大人になるくらいには。
ずっとそばで見守っていた人が、とうとう手の届かないところへ行ってしまう。
心に穴が空いたみたいに悲しくてたまらなかった。
いつかこういう日が来るのは分かっていたけれど、でも、想像していたよりもずっとこれは辛かった。
「ね、先生、お姉ちゃんのこと好きなんでしょ?本当は」
「……」
否定する言葉が出てこなかった。なにも言えずに黙ってました。今までの年月を思いながら。
「僕みたいな男が、歳も離れてるし」
「うん」
「初めて会った時は、子供だったってのにそんなことを言えば」
「うん」
「気持ち悪がられるに決まってる。だから、いいんです。写真をもらって思い出にして、無かったことにしますから」
京香ちゃんは横でため息をついた。
「そんな簡単に無かったことにできるようなものなの?」
18歳の京香ちゃんはしかし何だか自分よりこの日は大人びていた。
「でも、言っても叶わないことがわかってるなら言わないほうがいいでしょう?」
「後が辛いと思うよ。それは」
「……」
「お姉ちゃんがどこかの誰かと結婚してゆくのを指を咥えてみているつもり?」
そうなればきっと自分はここを辞めてどこか別のところで働くしかないなと思う。すると僕は彼女だけでなく僕の居場所も再び失うわけか。
「ね、先生」
「ん?」
「これはわたしも別の人に言われた言葉なんだけどさ」
「はい」
「相手に受け入れられないってわかってても、気持ちを伝えるのは意味のあることだよ」
「……」
「簡単な好きならきっと消えてなくなるけどさ。先生のその気持ちが簡単なものではないのだったら、伝えなかったことを後からきっと後悔するよ」
「そうは言っても……」
「お姉ちゃん、今度、誕生日じゃん。食事に誘ってみたら?」
「ええっ」
「それで先生の気持ち言ってみたら?」
「そんな急に?」
「でも、もうすごい長い時間かけて知り合ってるわけじゃん」
「はい」
「今更、なにを足踏みする?」
無表情にじっと見られた。
「そういうのは得意分野でなくて……」
「それって、時間をかけたら得意分野になるの?」
「……」
「ね、ぐずぐずしてるとお姉ちゃん別の人と結婚しちゃうよ」
そして、京香ちゃんはぽんぽんと肩を叩くと、洗濯物をどさっと入れたカゴをよっこらせと持ち上げる。
「え、話は終わり?」
「言いたい事は言ったし。先生もまだ仕事あるでしょ」
彼女はそう言うと、立ち上がってさっさと行ってしまった。
診察室で少し事務仕事を片付けて、自分の部屋へ帰る。簡単な食事を取る前にシャワーを浴びて出てくると携帯に写真が届いていた。家族みんなで撮った写真と、お見合い用に撮った写真。濡れ髪をタオルで拭きながらその写真を眺めました。
自分は生まれてから今まで、心から欲しいと思って手に入れたものがあっただろうかとふと思う。
医者になりたくてたまらなくてなったわけでもない。女の人と付き合ったこともあるけれど、それも、お互い何となく嫌ではなくてという感じで……。自分はもともと大人しい性質だし、世の中の誰もが激しい想いを抱えて生きていくものでもないのだと思うんです。
玲香ちゃんがいなければ、きっと自分は穏やかに一生を過ごし終えていった。
あの子が子供の時に僕を揶揄わなければ、僕には年上の男としての理性があって、彼女をそんな目で見る事はなかったと思うんです。そういう目で見ている自分を何だか汚らわしいと思って、そして、僕は何より玲香ちゃんに気持ち悪いと思われることを恐れていました。
気持ち悪いと思われるに違いないとも同時に思っていて、だから、気持ちを伝えるなんてそんなこと、絶対にありえないことだった。
気持ちを伝えてその次の瞬間に僕は、死にたくなると思う。
本当に欲しいものを欲しいと口に出したり、手に入れようと手を伸ばすことというのは、こんなに勇気のいるものなんだなとふと思った。
玲香ちゃんの美しい姿を眺めながら、悲しい気持ちでそう思った。
大学生になった時に、彼女は家を出て一人暮らしを始めました。そんなに遠くへ行ったわけじゃないから、時々帰ってはきたけれど、前のように会えなくなった。このまま、自分はなにもできず、玲香ちゃんが結婚して戻ってくる。その時は自分は邪魔者なわけです。新しい男に自分の産院での居場所まで明け渡して何も持たずにここを去る。
まるで、ここに来る前の自分に戻るようです。双六で振り出しに戻る。
僕は、僕は人生できっと何も手に入れることができない。何かを手に入れたように思っていたこの10年弱をすっかりと捨てて、また何も持たないままでここを出る。
本当にそれでいいんだろうか。
僕はあの頃の自分じゃない。同じ自分じゃないはずだ。
あの、何も持たずにボロボロになってここに辿り着いた自分と同じではないはずだ。
それなのに、何もせずに諦めてしまう?
それで本当にいいんだろうか。