1 再び届いた温かな絵
小説を書き始めてから、2年と少しになりました。筆の向くまま気の向くままに書き進むうちに見つけてきた、私の書きたい好きなものの一つが家族が出てくる一昔前のお茶の間劇場のようなもの。中條のお茶の間があって、上条家との二世帯家族になって、色々な角度から家族の場面を書いてきました。そして、テンペストで誕生した文月家のお茶の間。
テンペスト本編で出てきたお姉ちゃんのエピソードを少し膨らまして終わらすつもりでしたが、書き始めると止まらず、気がつけば立派な文字数に。しあわせな木にはスカートというスピンオフがあった。テンペストにはこの逆プロポーズをスピンオフとしてつけます。
私が書いた二つ目のマリッジブルーのお話です。
一つ目は、結婚は結局しなかったこのはちゃんと勝也くん。彼女は牡丹君は椿①です。
生きがいを求めて東京へ行くか、親も望んでいるように田舎で結婚するか悩む話でした。
二つ目は、この逆プロポーズ。
結婚というのは、女の人にとって生き方を決める大切な節目。
そして、さまざまな形のマリッジブルーが存在しているのだろうなぁと思います。
そんなマリッジブルーの一つのお話として、悩んで迷っている方の参考に少しでもなれればと思います。
中国の自宅より
汪海妹
2021年9月6日
1 再び届いた温かな絵
斉藤裕也
自分には兄が2人いる。
聖也、智也、裕也
自分は三番目に生まれた。
2人も男がいて後継には困らなかったろうにそれでも三番目の子どもが欲しかったのは女の子が欲しかったらしい。残念ながら男だった。
我が家は代々医者の家系で、家が病院をやっているとかそういうわけではないが、父は大学病院でそこそこの地位についており次期院長を狙うような人で、そして、2人の兄も医者になりました。
僕も医者になった。
医者にあらずんば人にあらずといったような家系だったので、あまりそこでは迷わなかった。
ただ、自分は2人の兄に比べるとそこまで出来が良かった方ではなく、周りに心配されながらなんとかギリギリ医者になった。
留年もしました。
そして、最初は大きな病院にいました。
大きな病院で産婦人科医になった。
父の名前があったのでまだなんとかやってましたが、大学病院というのは競争が激しくて、目に見えないところでのいろいろな鍔迫り合いのようなものがあって、その表で出されるものと、裏で語られる世界のギャップというかなんというか。コールタールのようなねっとりと黒いその人間の感情に自分はやられてしまいました。裕福な家庭で出来の悪い三番目として心配されながら、でも、自分は家族の中ではホッとする存在とでもいうのかな?優秀な人たちばかりでいるとギスギスするところにある安定剤のようなものだったんです。
父も2人の兄も自分を心配して守ってくれました。
だから、自分は世の中というものを知らなすぎた。
大人になるまで吹雪を全く知らずにいた。家を一歩外に出れば、吹雪に吹き荒ばれることもあるということを。
大学病院で自分は陰で『光』と呼ばれるようになった。親の七光で病院にいる人という意味でした。そして、僕のおどおどとした性格に漬け込まれたとでもいうのでしょうか。僕は確かに留年もしたし、そこまで優秀な人間でもないのかもしれません。だからと言って、全然ダメだったわけでもない。僕なりにきちんとやっていたのですが、まるで、人をどうしても沼の底に沈めたいとでもいうような先輩の医師がいて、その人は何かと僕のことを陰で無能だと言ってはバカにする。
その人を中心にだんだん僕のことをバカにする遊びというのが流行り始めて、医師だけではなく看護師まで、僕を嘲って笑うようになりました。くすくすと笑いながら何か話をしていて、僕が通りがかるとぴたりとその話を止める。その僕を見る目。あの顔。忘れられなかった。
そういうプレッシャーのようなものに負けて、僕のミスは少しずつ増えた。
そんな経験が初めてだったんです。
学校でも家でもそんな目にあったことはなかった。
そして、それを跳ね返すほどの強さが僕はなかった。
無理してそれでも毎日病院に行っていると、とある日から朝方毎日吐くようになった。食欲も出なくなりました。
その頃、自分はまだ実家で両親と同居していた。僕の様子を父も母も心配していて、うちの病院にも伝手のある父は僕の病院での様子を知っていたらしい。かといって下手に手を出すこともできない。こういう問題は表から叩くと、もっと根深い深い部分に潜るだけですから。
「お前、このままちゃんとやってけるのか?」
父親がとある日に恐る恐る声をかけてきた時、僕は思い切ってこう言いました。
「僕は医者を辞めたいです」
「あんなに苦労してなったのにか?」
「……」
「医者という仕事を嫌いになったのか」
「そうではありませんが、重要な仕事です。僕みたいな人間がしていていいのかと」
父はひどく心を痛めました。しかし、同時に自分も病院というものの中にいて、そこがどういうところかということもよくわかっていた。
そんな話をしてからどのぐらい経った頃でしょうか。父に呼ばれた。書斎で向かい合いました。
「医者を辞めたいという話だったけど」
「はい」
「お前自身が何か悪かったわけではないのに、辞めるというのはお前自身のためによくないと思う」
「でも、僕には医者をやる資格がありません」
父はため息をついた。
「たった数年で、自分のことをそんなふうに決めつめるものではないよ」
「……」
「お父さんの昔からの知り合いでね、産婦人科医院をやっている人がいる。ちょうど一緒にやってくれるような医者がいないかと紹介を頼まれていたんだ」
ぼんやりと父の言葉を聞いていました。
「信頼できる男だよ。もう一度そこで医者をやってみるといい。それでも自分が医者に向かないと思うのなら、お父さんはその時はもう止めないから」
その病院は千葉県の野田市にありました。
僕は父に連れられて、その医院を訪ねた。
その日、自分はこの歳になって、まだ父親に守られている自分に嫌気がさしていた。
落武者、落伍兵、そんな不思議な単語を頭の中で交互に繰り返してた。繰り返しながら、車に乗ってました。
おちむしゃ、らくごへい、おちむしゃ、らくごへい……
「着いたよ」
「……」
父の声に目を挙げた。
そして、僕は、その単語を忘れてしまった。
落武者と落伍兵という単語を。
ぽかんとしました。
「タイムスリップしたみたいだろ?この病院」
父はそう言ってハンドルを持ったままこちらを見て笑いました。
確かにその病院は、今が西暦何年かを忘れてしまうような建物だった。
イメージとしては、明治や大正時代のような……、木造の所々に尖った塔のあるレトロな建物でした。
「今もやってるの?この病院」
「ははは。失礼だな」
敷地に入って駐車場に車を止めると、バタンと音を立てて父が車を降りる。自分もそれにならって車を降りました。
その古い玄関を潜って中に入ると、きちんと幽霊とかではない人たちが受付にもいるし、中に診察を待っている患者さんやナースの格好をした看護師さんの姿が見えた。ちゃんと忙しくパタパタと走り回ってる。
父が受付で何か話すと、受付の女の人に応接室に通された。そのまましばらく2人で待っていると、先ほどとは別の女性がお茶を持って現れる。
「すみませんね。もう少しで参りますから」
「ああ、いえ。お構いなく」
その女性は僕たちの前にお茶を二つ置いた後に、にっこり笑って下がりました。その人が下がった後に父が言った。
「今のが院長先生の奥様だよ」
「ああ……」
その時、カラカラと音がしました。なんだろうと思って横を見た。応接間のドアはガラスの引き戸で、上半分が格子のガラス窓になっていて、下は木製の扉だった。それが、そおっと横に引かれてた。隙間が空いて向こうが見えた。
誰もいないのに戸が開いた。やっぱり幽霊でもいるんだろうか、この病院。
その時、自分は精神的に非常に疲弊していて、なぜか何度も幽霊のことを思っていた。
すると、ひょっこり右と左から顔がのぞいた。
少し高さが違う。でも、似た顔立ちの女の子の顔が右と左から。姉妹なのだと思う。
「……」
「……」
お互い黙ったままで見つめ合う。女の子たちはこちらに気づかれたことでしまったという顔をした。
その絵が忘れられない。幽霊だと思った次の瞬間にこちらを覗いてきた女の子の顔。
ずっと疲れて冷たい気分になっていた自分の所へ再び届いた温かな絵だったんです。
それは、その時、どんなに家族に心配されて優しくされても、その優しさがきちんと心の真ん中まで届かなくなっていた自分の心の奥にまで久々に届いた。
「何やってんだ。玲香、京香」
「あ、見つかっちゃった」
そして、キャハハハという声とパタパタという足音とともに2人は消えた。
「どうも、すみません。娘が失礼をしまして……」
そう言って入って来た人。それが文月京二郎、この産院の院長先生でした。父より一回りくらい若い男の人だった。
院長先生と父はしばらく時節の挨拶やお互いの仕事について、主に父の仕事について話していました。その後しばらくして本題に入る。
「父の代から長く僕と一緒にやってきてくれていた先生がね、もう歳も歳だから辞めさせてくれと前から言われてまして……」
院長先生はそう言いながら苦笑した。
「自分にとっては2人目の父親のような人でね。ずっとわがまま言って残ってもらってたんだけど、流石に僕のわがままも通らないらしい。新しく一緒にやってくれる人を探してたんです。だけど、まだお若い大事な御子息をお預かりしてもよろしいんですか?うちは見ての通りの小さな産院ですよ」
穏やかな口調でそう言って僕と父親の顔を交互に見ました。
「電話でも簡単に話しましたが……」
少し重い口調で話しにくそうに父は口を開いた。
「この子はね、優しすぎるんです。ああいう大学病院のようなところではね。合わないのではないかと」
「ええ」
その後、父はさらに言葉を濁しました。
「実は……」
「はい」
「こんなことを言って頼むのもどうかと思うんですが、だけど後からわかっても君に失礼だと思うし……」
父の声音、そして、その言い渋る様子。古い建物の窓から差しかける明るい光の中で、父の苦渋がその時隣にいる僕にも十ニ分に伝わった。
「息子は、医者を辞めたがっているんです」
「はい」
なんでもないことのように院長先生はその言葉を受け止めました。
「そんな息子を君によこすなんて僕もどうかしてるのかもしれないけど」
すると院長先生ははははと笑った。そして笑った顔のままで僕の方を見た。
「医者を辞めたいなんて、僕だって今までに何回思ったか」
そして、何も言えないでいる僕の前で、頭を捻り捻り指を折って数え始めた。
「嘘じゃないですよ。いっかい、にかい……」
3回目をどうするか迷っている院長先生に父は言葉を続けた。
「この子はね、でも、親の欲目かもしれないけど、決して医者に向いてない子だとは思わないんです。真面目な優しい子です。上の2人ほど優秀ではないかもしれないけど、でも、医者に必要なのは優秀さだけではないと思うし……」
父の言葉に院長先生は指を折るのをやめてそっと父を見つめた。
「それを無責任な人たちにされた言われのないことのためにダメにしたくない。文月君、頼む」
父はソファーに座ったままで、右膝と左膝に手を置いた姿勢でぐっと頭を下げました。
院長先生は狼狽えた。
「斉藤先生、やめてください。先生に頭を下げられたら、寿命が縮みます」
「寿命?」
父が顔をあげる。院長先生はもう一度言った。
「斉藤先生みたいな大先生に頭を下げられたら、寿命が縮みます」
「……」
「亡くなった祖父と父に枕元に立たれて、今晩叱られます」
ぶっくっくっくっ
「あ、すみません」
黙って2人の様子を見ていたが、思わず笑ってしまった。
父は僕の笑顔をしばらく見ていた。そして、自分もふっと笑った。笑って身を起こすと謝りました。
「申し訳ない」
「いや、何度も謝られないでください。こちらはこんな若い方に来ていただけるなんて思ってませんでしたから、ありがたい話なんですよ」
院長先生はそう言って屈託なく笑いました。その笑顔が印象的だった。しばらく話して我々は文月医院を後にしました。
帰り道の車の中で、父はぼそっと言いました。
「お前、今日、久しぶりに笑ったな」
そう言われるまで気づいていなかった。確かに自分はもう長い間、笑っていなかったかもしれません。