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意識が浮上する。
機能を再開した聴覚が、葉ずれの音を持ってくる。触覚は自身が土の上に横たわっていることを、嗅覚は鉄臭さをそれぞれ脳に伝えてきた。
最も鋭敏なのは味覚だ。出会ったときより改善されたとはいえ、いまだ万全とはいえない栄養状態。経験が浅く、命を投げ出す恋も魂揺さぶる悲哀も知らぬ淡泊さ。
口内に残る香りは、間違いなくレイの血液だ。初めて会ったときも似たようなことをされた、と苦笑交じりに思い出す。久方ぶりの目覚めで待っていたのは、吐きそうなほどまずい血液だった。
依頼を満足にこなせないためおろそかになる食事のせいで、血液は最悪の味だった。土を食べた方がましだと思える強烈な味は忘れられそうにない。
レイの血の味がする理由を、好意的に考えてはいけない。いくら純血の吸血鬼だからと言って、いや、純血だからこそ、致命傷がそう簡単に癒えるわけではない。この血はレイの置き土産であり、本人は何百年も前に死んでいるかもしれない。よりひどいのは、飢餓に任せて自身がレイを食い散らかした可能性だ。
好き勝手に人を襲うのは美学に反するため、致命傷を負っても眠りに就いて身体を癒すようにしている。だが、すぐ近くに食糧がいて、そいつ以外に食糧がないとしたらどうだろう。生存本能がレイを食べる可能性を否定できない。理性とは別の部分で動くから本能なのだ
五感のうち、四つが戻ってきた。ならば後は視覚、目を開けるだけだ。意識して気持ちを落ち着け、まぶたを持ち上げる。
斜陽に照らされる雲が見えた。
腰をなでた手を眼前に掲げても、血は付いていない。肌にも乾いた血液の感触が残っているだけだ。傷はすっかり癒えていた。
上体を起こす。身体を動かすのにいささかの支障もないことを確認してから、ようやっと周囲を確認する余裕が生まれた。
そっと視線を巡らし、破顔一笑。
「ああ……、生きていたのか」
ファルディエッタに寄り添うようにして、レイが倒れていた。耳を澄ませるとかすかに寝息が聞こえる。
花が開くような微笑を浮かべ、レイの身体に手を添える。
「おい、起きろ。いつまで寝ているつもりだ」
ゆさぶって覚醒を促す。言葉とは裏腹に、その手つきは優しい。何度か声をかけてやると。成長途上の身体が身じろぎした。うっすらと開いた瞳に映るよう身を寄せる。唇がにぃ、とつり上がるのが自分でもわかった。
「おはよう、目が覚めたか」
夢とうつつを行き来する一瞬の間。バネ仕掛けの玩具のように飛び起きる。あわあわと言葉にならず手をばたつかせ、呆れたような視線を受けてようやく、これが現実だと認識できた。
何度もつばを飲み込む。
「……ファルディエッタ」
情けなく震え、ゆがんだ声に呼ばれた、自分の名。
その響きを耳にした瞬間、どうしようもなく引きつけられる衝動を感じた。咄嗟に腕が伸びていた。
「ぐっ!? な、なに、どうしたの!?」
無事を喜んでいたら突然首を締め上げられたレイは目を白黒させる。
「おまえ、どうやって私を助けた?」
ぎりぎりと胸ぐらをつかみ上げ、ドスの利いた声で問いかける。出会ってからこちら、これほど怒髪天を衝いた姿は見たことがない。
「どうやっても、なにも……! 僕の血をあげて、ちょっと、苦しい、ゆるめて」
素直に答えつつ、腕をたたいて限界を訴える。わずかに拘束は緩められたが、依然胸元は掴まれたままだ。
「血だけではないな? ほかに何をした?」
「他って言われても。おとぎ話を試しただけだよ」
「おとぎ話?」
「うん。名前を呼んで、なにか一つ自分のものをあげて、悪魔に願いをきいてもらうんだよ」
「……何を願った?」
「生きて、ほしいって」
一点の曇りもなく澄んだ眼での無邪気な返答に、あっけにとられる。がっくりと肩を落とし、うつむいたファルディエッタに、レイが首を傾げる。やがて、肩が震えだした。
「くくく、んふ、ふふふ。ふ、ふはははははは」
こらえきれない風に洩れ出した笑いは、すぐに大きな笑いへと変わった。レイから離した手で顔をおおい、腹を抱え、呵々大笑を響かせる。
すわ乱心かとまごつくレイを見れば、さらに笑いが止まらない。
「えっと、なに」
「くふ、んふふ、ぐっぅ」
笑いを収めようとして我慢しきれず妙な声が出てしまう。不審なものを見るようで、しかし安心したように締まりのない顔がこちらを見ている。
しっかりと血の通った頬。薄いが健康な身体。光を宿す双眸は生の気配を多分に宿している。
「おまえ、阿呆だな」
麗しき吸血鬼からの罵倒は初めてではない。日常的になにかしらの悪態を吐かれているが、これほど親しみのこもった「阿呆」は聞いたことがない。
「名前は存在そのものだ。魂と言ってもいい。それを握れば、何を命じても思いのままだというのに」
一度言葉を切って、かみ切れない笑いで肩をふるわせる。
「おまえは、生きろ、などという願いに使ったのだな」
「別に、ファルディエッタにしてほしいことは、特にないし。生きててくれるならそれでいいし」
それに、と言葉を続ける。どこか気恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうに。
「何も命令しなくても、一緒にいてくれてるから」
ふん、と鼻を鳴らして照れくささをごまかす。こうもまっすぐに言われては、突き放すこともできないではないか。
「おまえしか、人間はいないからな。仕方がないだろう」
「うん、そうだよね。他の人はみんな、血が混じってるから」
ダンジョンと同時に人間以外の種族が出現して幾星霜。魔力器官を持つ種族は、概して繁殖能力が低かった。対して魔力器官を持たぬ唯一の種族、人間はいつでも生殖が可能という事実。そこに加えて、魔力器官は必ず遺伝した。
また、非力な人間は遺伝子も脆弱なのか、生まれる子はほとんどが交配相手の能力を持っていたのである。
となれば、後は簡単。ダンジョンというよくわからぬ脅威に対して人間が取った行動は、他種族、多種族との積極的な婚姻。姿は違えど言葉が通じた人外の生命に保護され、子を産むことで人間という種族は生き延びた。
そうして混血が進むなかで、人間はもちろん、ほかのどんな種族でも純血という存在が消滅していったのである。
「人間もいるのに、嫌いだよね」
「はっ! 人間と言っても、特徴が出ていないだけだろう。魔力器官は持っているんだ、それは種族的に人間とは言わん」
吸血鬼の主食はもちろん血液だ。ファルディエッタ曰く、必ずしも人間の血液である必要はないらしい。重要なのは魔力を帯びていないこと。
人間以外であれば動物が魔力器官を持たないのだが、魔物が闊歩するようになってから、動物も姿を消した。
現在、いくら自分が人間であると自負していようと、魔力器官を有する以上は吸血鬼の食糧とはなりえない。
「他人の魔力なぞ、体にいれるものではない。消化にエネルギーを取られすぎて、満腹にはほど遠い」
ファルディエッタはレイの故郷を知らない。現状、唯一の人間の純血である彼だけが、ファルディエッタの糧だ。
はっ、と呼気を吐いて、ファルディエッタは立ち上がった。衣擦れの音一つたてず、実に優雅なものである。
生きろという命令には具体性がない。おそらく、彼の聞いたおとぎ話では、邪悪な妖精が名前を呼ばれ撃退されたのだろう。古今東西、怪物の名前を知るのは窮地を脱するときだと決まっている。
それをこの男は、非力で軟弱で、ひとりではストーンラビットを見つけることにすら難儀する人間の男は、ただ彼女を生かすためだけに名前を呼んだのだ。獣人や魔物が当たり前に存在する世界で、なお貴重な吸血鬼を使役できる機会を棒に振って。
もっとも、己を見つめる少年はそんなこと思いもしなかったに違いない。
名前を呼ぶことで悪者を撃退するのは、人間だけのおとぎ話だ。魔力器官をもたず、ほかのどんな種族より脆弱な人間だけが、他者の魂を縛る名前を知っている。あるいは弱いからこその能力なのかもしれない。
言霊、と。かつて、どこかで、だれかが呼んでいた――
「大丈夫?」
瞬きを一つ。立ち上がって黙り込んだファルディエッタを、心配そうに見つめている。
「おまえがやったのは、一種の隷属契約だ」
出し抜けに言われて、レイが目をむいた。自分はただ、ファルディエッタに死なないで欲しくてやっただけなのに、隷属契約とは。そんなたいそうな代物はいらないし、ファルディエッタを縛り付けたくもない。
そう弁解しようとしたレイを手を振ることで黙らせ、ファルディエッタは口角を持ち上げた。紅い唇から白い牙がのぞくさまは得も言われぬ艶がある。
「だから、な? おまえには、私を飢えさせない義務がある」
「わかるな?」と問いかけられ、かくかくと首を振るしかない。食事は大切だ。身をもって知っている。自分の血でいいならいくらでも差しだそう、死なない程度に。
素直な反応に気をよくして、上機嫌で続ける。
「だが、おまえの血はまずい。正直、飲みたくない」
けれど飲まなければやっていけない。では取るべき道は一つだけ。
「私が、おまえの血に深みを与えてやろう」
「あー……、どうやって?」
不敵な笑みに悪寒を覚え、腕をさすりながら問うたレイの顔には怯えが混じっている。いつも通り穏やかに笑っているが、できるなら逃げ出したいと雰囲気が訴えていた。それらを黙殺し、ファルディエッタはとびきりの笑顔を向ける。
「ダイヤモンドラビット退治だ」
血の味を上げるには、年月ともう一つ。
経験こそが重要なのだ。