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「うあああああ!!」
「逃げろ、逃げろぉぉぉぉぉ」
狭い洞窟に絶叫が響き渡る。
「! っくそ。おい、こっちに来い!」
ファルディエッタの声だけを頼りに闇雲に足を動かす。同期とはとっくにはぐれた。彼らにも無事でいて欲しいが、今は他人の心配をできるほどの余裕はない。
助かるためにはとにかく逃げなければ、走ることに集中しなければならないのに、耳は勝手に拾った雑音を脳に押しつけてくる。前を走る獣人の情けない悲鳴、恐怖にあえぐ自分の呼吸音、後ろから迫る鈍重な足音。
やはり、獣人に着いていくべきではなかった。今日の稼ぎを諦めてでも、誘いを断るべきだったのだ。奴らに急かされるままに洞窟を奥へ奥へと進んだ結果が、この状況だ。
最初は、ただのアイアンラビット狩りに過ぎなかった。ストーンラビットの進化先であるアイアンラビットは、ストーンラビットよりも硬質な表皮を有しており、ランクもEへと上昇する。レイや他のふたりの装備では歯が立たず、ひたすら荷物持ちに徹していた。攻撃力は増しているが、動きそのものは進化前と変わらない。跳躍前の視線にさえ気をつけておけば、ダメージを負うこともなかった。
気にかかることと言えば、ストーンラビットが一体もいなかったこと。本来ダンジョン内で生活するストーンラビットが森に逃げて繁殖し、その分洞窟ではアイアンラビットが繁殖していると考えるのが普通だ。獣人たちの言葉を聞く前ならレイもそう判断した。
「アイアンラビットがこんなとこにいるなんてな」
「前はもっと深いとこにいたのによ! 楽に稼げてありがたいねえ!!」
本来はもっと奥に生息している魔物が、入り口付近で多数発見される。ダンジョン外部にはそのさらに低級の魔物。これが意味するところは明白だ。
奥になにかがいるのだ。それによって、弱い魔物はダンジョンから追いやられている。では、そいつの縄張りはどこからなのだろうか。
ぞっとした。もしかしたら、知らぬうちに高ランクの魔物のテリトリーに踏み込んでいるかもしれない。ダンジョン内の魔物を追い払うほどの力を持った魔物だ。レイたちはおろか、獣人ですら敵うかどうか。
そもそも、獣人たちがまともに戦えるのかすら未知数だ。ダンジョン探索も久しぶりだと言っていたし、何も期待できない。
ごくり、と喉が鳴った。急速に口が渇いていく。今さらながらに、ダンジョンの恐ろしさを思い知る。
「おい、このあたりはまずいぞ」
ファルディエッタが耳打ちする。はっと見ると、警戒の滲む表情で周囲を伺っていた。
レイの能力の低さに、いらだったような表情をするのが常であったが、こんな緊迫した顔は見たことがない。彼女の能力の高さはよく知っている。となれば、一刻も早くこの場から離脱するべきだ。
同行者にも警戒を促そうとするのがレイの長所であり、欠点でもあった。ファルディエッタの忠告に従ってすぐに引き返せばよかったのに、同行者の安全を考えてしまった。獣人は無理でも、せめて同期には危険であることを伝えたい。
そう思って、獣人を呼び止める前にふたりの元に駆け寄った。
獣人たちは背後の新人のことなど忘れたように、大量のアイアンラビットを追って洞窟の奥へと進んでいく。
「! 逃げるぞ!!」
レイが危険を告げるより早く、ファルディエッタが叫んだ。彼女の優れた感覚も、ダンジョンでは精度が鈍るらしい。警告と脅威の出現は同時だった。
前方で動いた影に誰もが動きを止める。決して動かず、呼吸すら殺して自分という存在を消そうとする。
もちろん、その程度で見逃してくれるような甘い存在なら、魔物と呼ばれたりはしない。
眠ってでもいたのだろうか、緩慢な動作で身を起こした影は大きい。両手で抱えられるサイズのアイアンラビットを見た後だけに、余計にそう感じる。
ぐぐっと伸ばされた体は三メートルを越すだろう。影の頭には耳が生えている。レイたちが散々切り取ってきた、長いウサギの耳だ。
丸い頭部がゆっくりとこちらを向く。捕捉された。誰もがそう感じた。
「う、うああああ!」
真っ先に逃げ出したのは獣人のひとりだ。犬そのものの顔面を無様にゆがめ、恐怖心に突き動かされるまま駆け出した。それが、魔物にとっての狩りの合図だった。
そこからは各自でてんでばらばらに逃げ出した。といっても、洞窟はほとんど一本道だ。目指す出口はみな同じである。後ろから追いかけて来ている気配を感じても振り向けない。ただひたすらに前へ前へと足を動かす。
ドグッ、と鈍い音が聞こえると、耳と尻尾をはやした獣人がひとり、赤い尾を引いて飛んでいった。レイをはるかに飛び越えて、落下する。丈夫な獣人らしく、負傷した体でも起き上がった。先に見え始めた光に、誰もが必死に手を伸ばした。
油断大敵。
もうすぐ助かるという瞬間にこそ、気を抜いてはいけない。
レイを先導してくれていたファルディエッタが、一瞬こちらを振り向いて目を見開いた。
もう外に出られるというのに、何をそんなに焦っているのだろう。下級の魔物はともかく、高ランクの魔物ほど、魔力濃度が高い場所から出てきたがらない。ダンジョンから一歩でも出さえすれば、追撃からは逃れられるのに。
どうしてそんな、必死な顔でこちらに手を伸ばすの。
ファルディエッタのゆがんだ表情がはっきりと見えた。世界が急速に減速したようだ。ファルディエッタの瞳に映る、自分の間の抜けた顔すら判別できそうなほど。
「――!!」
人外の膂力で地面を踏み込み、レイに手を伸ばす。反射的に差し出された手をつかみ、全力で後ろへと放り投げる。ひ弱な人間は、それだけで洞窟の入り口まで吹っ飛んだ。地面に突っ込んだから、さぞ痛いだろう。あちこちに擦り傷ができたに違いない。
「ふん、よわい奴め」
全身をすりながらも洞窟の外に放り出されたレイは、すぐさま後ろを振り返った。
ファルディエッタが助けてくれたことだけはなんとなく理解したが、当人はどうなった。彼女は強いから、簡単に怪我をする人間と違って、魔物相手にも屈しないはずだが。
「……ぁ」
ごぎゅり、と。
聞き苦しい、神経をつぶすような音をたてて。
ファルディエッタの腰に、魔物の歯が、刺さっていた。
「―――――!!」
叫んだつもりだったが、声が出ていたかはわからない。咄嗟に戻ろうと動いた身体を縫い止めたのは、ファルディエッタの強い視線だ。
決して近寄るな、と。
人間よりもはるかに高位な存在である彼女に命じられたら、レイなどぴくりとも動けない。身がすくむ。魔物は恐ろしいが、彼女も恐ろしい存在だ。
理性なき獣と知性ある怪物では、果たしてどちらがより恐ろしいのだろう。とりとめもない思考が浮かんでは消えていく。
「いつまで、咥えているつもりだ!!」
ファルディエッタが気炎を吐く。とがった前歯がさらに食い込むだろうに、腰をひねって魔物の左目に直接手を押しあてた。
「魔法付与・火」
「GYAAAAAAAA」
何をしたのか、魔物が絶叫した。身もだえる。悶絶する魔物に合わせて、彼女の身体が口から外れた。投げ飛ばされる恰好になったファルディエッタだが、幸運にも入り口へと飛んできた。
「ファルディエッタ!!」
夢中でファルディエッタを抱き留める。かっこよく受け止めることはできず、レイも後ろに飛ばされたが、腕の中の存在を落としはしない。
「ファルディエッタ、大丈夫!? ファルディエッタ!!」
顔を覗き込んで何度も名前を呼ぶと、煩わしげに手を振られた。
「いい、から。早く逃げるぞ」
視線を追うと、ダンジョンの入り口でこちらをにらみ付ける魔物と目が合った。全身がキラキラと透明な輝きを放っている。ストーンラビットの最終進化、全身が高硬度の鉱石で覆われたダイヤモンドラビットだ。ファルディエッタに攻撃された左目だけが焼けた鉄のように赤黒い。憎しみを燃やす瞳には、ダンジョンを出ようとする意志が感じられた。
逃げないと。とにかく視界から外れれば、追ってこないはずだ。きっとそうだ。
必死にそう信じ、ファルディエッタを背負う。戸惑ったような声を無視して強引に担ぐと、その場から駆け出した。
腰に深々と刺さったダイヤモンドラビットの歯が頭から離れない。普段であればレイの助力など軽くあしらうであろう彼女が、振り払いもせずに背負われているのが弱っている証のようで心臓が冷たくなる。
闇雲に走り続ける。息をするたびに胸と脇腹が痛むが、気づかないふりをする。どこでもいいから、とにかくあのウサギから離れたい。
「……おい」
「はあはあ、もう、ちょっと! 我慢して……!」
背中から聞こえる声が弱々しい。町に戻れば神殿がある。神力による治療を受けられれば、こんな傷などすぐに治るはずだ。治療費は高額だが、少しずつ貯めたお金がある。足りなければ、すぐにでもストーンラビットを狩りに行けばいい。
「おい、おまえ」
「ちょっと、黙っててよ。っあ!」
気をそらしたせいで木の根に足を取られた。疲労した身体はうまく立て直すこともできず、そのまま地面へと飛び込む。
「へぶっ」
かろうじて、背中のファルディエッタだけは落とさぬように、傷つけぬように。顔面を大地にこすりつけることになったが、ファルディエッタへのダメージは最小限に抑えられたはずだ。
震える肢体にむち打って、背後の重みを確認する。
「!」
「ふん、案ずるなよ、人間。私は、おまえとは、違う。この程度の、傷で死ぬほど、柔では、ない」
絶句する。ドレスが彼女の血を吸って色を濃くしていた。腰の傷口は深く、流れた血の量は想像に難くない。ころり、と背中から地面へと転がり、ファルディエッタは不敵に微笑んだ。
表情こそいつもと同じだが、顔色が悪い。白いを通り越して青い。およそ生気というものが削ぎ落ちている。
「あ、うそ、やだ……。ファルディエッタ、死なないでよ」
「うるさいな、死なぬわ。私は、吸血鬼だ。気高き、純血の吸血鬼。私たちに、死という概念は、ない。ただ、眠るだけ」
「待って、今眠ったら、僕と会えなくなるんだよね!?」
「……ん、どうかな」
とろとろと、まぶたが落ちてくる。幻にも等しい吸血鬼という種族の生態は、詳しくはわからない。ただ、このまま眠ることはほとんど死と同義だと直感した。眠って消耗を回復させるのだろうが、人間なら、いや、生命力に優れたどんな種族であっても死は免れないような重傷だ。次に目覚めるのがいつになるのか見当が付かない。間違いなく言えるのは、レイとはこれっきりだと言うことだ。
「いやだ、待ってってば。ねえ、ファルディエッタ!!」
「…………」
力なく投げ出された手を両手で押し包み、呼びかける。
「どうして僕をかばったのさ? ねえ!!」
「……おまえは、弱者だろう。それに、以前、わたしがかばわれたから。おあいこだ」
涙混じりの疑問に、眠気にあらがって答えてやる。もうまぶたは閉じているから、情報を拾えるのは聴覚だけだ。嗚咽が聞こえる。懇願も。いつも困ったように笑うレイに、表情のパターンが少ないと思ったこともあるが、自分のために泣いてくれるというのは案外心地がいい。
知らず口元が緩む。深い沼に沈むように、徐々に音も遠くなっていく。直に何も聞こえなくなるだろう。もう会えないのが、少しばかり残念だった。
「ファルディエッタ、ファルディエッタ!!」
すがりついた両手は握り返してはくれない。なんの反応もなく、このままファルディエッタは長い眠りに就く。
「いやだ、そんなこと、させない」
涙でぐちゃぐちゃの顔を乱暴にぬぐい、愛用の短剣を取り出した。
「ファルディエッタ、言ってたよね。吸血鬼の一番の栄養は、血液だって。君は、人間の血液が一番好きだって」
左のてのひらに短剣を滑らせる。よくストーンラビットを狩ってくれた刃は、期待通りに皮膚を切り裂いた。痛みはあまり感じない。気が高ぶりすぎているのかもしれない。
血が滴る左手を、ファルディエッタの口元に持って行く。たらりたらり、と流れる血が肌をつたい、指先でしずくとなり、ファルディエッタの唇を紅く染める。
ふと、おとぎ話を思い出した。寝物語に聞かされた、悪魔を使役する方法。誰もが創作だと信じたおまじない。
確か、やり方は――
「ファルディエッタ。ファルディエッタ=ノクティ・プリンケプス・ペルペトゥーア。僕の血を、あげるから。だからどうか、生きて……!!」






