トビグマ・飛行ヒグマ黙示録
抜けるように青い空、絵の具をおとしたような白い雲。
春の陽気に誘われて。
ヒグマが、空を飛んでいた――と思っていただきたい。
飛行ヒグマ――通称トビグマ。
この大型哺乳類の生態、特徴などについては今さら語ることでもないように思う。
航空力学的に明らかなことだが、ヒグマは空を飛ぶことに適した生き物である。
これまで人類が作り出した如何なる航空機よりも航空力学的に優れた肉体構造であることは、周知の事実である。
その体内の生体核融合炉の恩恵――冷戦中の核実験によって突然変異したと推測される――で超高温に熱した大気を推進剤に飛翔する、熱核ジェット推進器官を持つ大型哺乳類。
人は鳥ではなく熊を参考に空を飛ぶべきだったのだ、とは某航空機メーカーの主任技術者の言(この発言の三日後に拳銃自殺しているのが発見された)である。
すべての始まりは、まだ人類がこの星の霊長でいられたあの日あのとき――資本主義陣営と共産主義陣営に分かれ、おびただしい数の熱核兵器を互いに向けあい、冷戦というおとぎ話を続けられた時代にまで遡る。
一九七五年四月末日――ベトナム戦争は意外な形で終戦を迎えた。
いや、それを終戦と言っていいのかはわからない。
統一ベトナム亡命政府は一応、ベトナム戦争は終わったと言っているけれど。
結論から言えば、二一世紀現在、かつてベトナムという国家が存在した領土は完全な無人地帯となっているし、インドシナ半島そのものが度重なる水爆の使用によって焼き尽くされているからだ。
彼の地にあるのは焦土と死の灰であって、メコン川の恵みと豊かな熱帯雨林は跡形もない。
世界のあちこちがそうなったように。
ともあれ一九七五年の春、異変は起きた。
当時のベトナムは北ベトナムと南ベトナムに分かれての戦争の最中であり、不幸なことに、双方の間で情報の伝達が行われるような状況ではなかった。
そういうわけで、突如として飛来した空飛ぶヒグマの群れが、サイゴン周辺の人間を食い殺したとき、これを止めるものは何もなかった。
当時、南ベトナム首都サイゴン攻略に向けたホー・チ・ミン作戦を発動していた北ベトナム軍は、この熊禍――人類初のトビグマ災害によって甚大な被害を受けた。
何せ、ヒグマである。
たしかに二〇世紀に発達した人類の兵器は強力で、航空機を撃ち落としたり、戦車を撃破したりすることだってできる。
しかし数十万匹の、超音速でジェット推進突撃してくるトビグマに対しては無力だった。
何せ、敵の数が多すぎた。
しかも、ヒグマが空を飛ぶのである。
既存の如何なるドクトリンもそんな敵は想定していない。
当時、西側や東側が用いていた自動小銃は、あくまで対人用の銃弾にすぎなかったし、それにしたって、兵隊が自分で持ち歩ける弾数なんてたかがしれている。
これも補給が潤沢であれば、と条件付きでだ。
今日では常識だが、トビグマに対して確実な殺傷力が期待できるのは、最低でも五〇口径以上の重機関銃である。
硝子瓶みたいな馬鹿でかい薬莢いっぱいの火薬があって初めて、トビグマの表皮を貫けるのだ。
今の対トビグマ・ドクトリンでは、二〇ミリ以上の機関砲を用いての集中砲火が推奨されてるぐらいだから、まあ、生身の人間にできることなんてほとんどない。
眼孔や口腔の中などの柔らかい部分に、運良くライフル弾が突き刺さってて急所をぶち抜いてくれるという幸運を祈るか、むやみやたらと効かない鉄砲を撃って餌になるかの二者択一だ。
そういうわけで北ベトナムのサイゴン攻略作戦は大失敗に終わったし、サイゴンにいた人間は所属も国籍も問わずヒグマの餌になった。
人類史上、例を見ない熊害であった。
奇跡的に回収されたフィルムによってテレビ放送に乗った衝撃的光景――離陸しようとした飛行機が、群がるヒグマによって爆発炎上する――は、世界に衝撃をもたらした。
いや、もう反戦とかそういう問題ではなかった。
熊にめちゃくちゃ人間が喰われているのである。
当時の世論の混乱は想像に難くないし、そもそも、ホワイトハウスとクレムリンの高官たちも頭を抱えていた。
だってヒグマである。
「もしや東側/西側の投入した動物兵器では?」と互いに疑心暗鬼になったはいいものの、ホットラインで対話した結果、どうやら違うらしいとわかるまで数日を要した。
この間にもトビグマたちはインドシナ半島を自由自在に飛び回り、人間を食い殺していった。
五月の最初の一週間で、インドシナ半島の人口は半減したと目されている。
この時点でトビグマの数は推定で百万匹を超えていた。
一体どこから、この数の飛行ヒグマが湧いてきたのかは謎である。
トビグマによる惨劇は、あっという間に世界規模の災害となった。
世界のあちこちで、航空機の墜落事故が相次いだのだ。民間の旅客機から軍のジェット戦闘機に至るまで、あらゆる種類の航空機が落ちていった。
回収されたブラックボックスから判明したのは、彼らが皆、一様に「熊に襲われている」「熊が空を飛んでいる」などと言い残していることだった。
サイゴン熊害から一ヶ月後には、北京へのトビグマ襲撃が始まっていた。
中国軍に限らず、空軍による防空網の類はこの熊害の前では無力だった。
いいところ数発の空対空ミサイルを抱えた防空戦闘機や、地対空ミサイルでは、一度に三桁から四桁の数で襲い来るヒグマに対して何もできない。
それどころか対空機関砲の類ですら、弾数が足りないのだ。
平均的なトビグマのサイズは全長三メートルほどで、飛行時の速度は最大マッハ三ほどである。
より大型化した個体ともなればこの倍近い体躯を持ち、超音速巡航すらやってのけるし、その優れた感覚器は数百キロ先の飛翔体を感知できる。
機動性、運動性においてトビグマに敵う戦闘機はなかった。
事実、トビグマに撃墜された戦闘機パイロットのうち、その八割が、飛行中にコクピットで食い殺されているのだ。
この事実だけでも、ヒグマがどれほど恐ろしい捕食者なのかよくわかるだろう。
だが、ありったけの砲火を叩き込み、北京を襲撃したトビグマは駆逐された。
そのほとんどが、地上に降りて人間を捕食しているところへの集中砲火で撃退されたという。
一説によれば、トビグマをキルゾーンに誘導するためだけに人間を囮していたとか。
事実、第一次北京防衛戦の後、北京周辺の人口は半減している。
とはいえ、第二次北京防衛戦で戦略核が使用され、行政府諸共、北京が消し飛んだ今となっては真実は闇の中である。
とにかく、この戦いで多くのトビグマが死んだ。
となれば生体解剖などでトビグマの秘密がわかりそうなものだが、そうはいかなかった。
後世の多くの研究者の努力により、今では生体核融合炉による熱核ジェット推進と判明しているが――それゆえに、飛行ヒグマはまともな死骸が残らなかった。
分厚い表皮と頑強な肉体構造を持つトビグマは、その体内の生体核融合炉の生む熱量によって駆動している。
これを重火器で撃破すると、炉内のプラズマが漏洩し、内臓を焼き尽くしてしまうのだ。
元々、不安定なプラズマを安定化させて維持している機構だから、トビグマの死と同時に生体核融合炉は機能を停止してしまう。
結果、何らかの推進装置を持つことはわかっても、その仕組みはわからないままだった。
かくして世界は未曾有の災厄に見舞われた。
トビグマの繁殖速度は速く、成長スピードも尋常ではなかった。
人類の国家が、文明が、熊害に対して手をこまねいている間に、おびただしい数の人命を餌にして、トビグマは爆発的増殖を遂げたのである。
最初の被災地となったインドシナ半島は、わずか三ヶ月で人口の九割を喪失。
今や周辺地域へ飛来する熊の住処となっていた。脱出を試みた難民の大半がトビグマに捕食されたのは言うまでもない。
一九七五年八月。
アメリカとソ連の手によって、インドシナ半島に水爆が投下された。
国際的非難の声が上がったものの、一方で誰もが「この得体の知れない熊害も終わりだ」と安堵した。
それが大きな間違いだと判明したのは、この年のクリスマスである。
一九七五年一二月二五日未明。
世界各地の都市へとトビグマの群れが飛来した。その総数は不明――襲撃を伝える連絡を最後に、壊滅した都市が大半のため計測できなかったのである。
ニューヨーク、北京、モスクワ、東京、ニューデリー、ベルリン、パリ、ロンドン、バルセロナ、アテネ、イスタンブール、エルサレム……
さながら黙示録に語られるアバドンもかくやという光景であった。
空を埋め尽くす影は、そのすべてがジェット推進器官を備えた超音速突撃を可能とするヒグマ。
核保有国は、防空戦闘として飛来するトビグマ群への戦術核攻撃も行ったが、これを押しとどめることに失敗。
この日、人類の落日は決定的となった。
大空を、大地を、ヒグマに奪われる日がやってきたのだ。
あらゆる建築物が熊のエサ場となった。
壁面いっぱいにびっしりと張り付いたトビグマが、集合住宅の内部に首を突っ込み、むしゃむしゃと人間を咀嚼する音。
小熊たちは親熊では入れない建物の中にも入り込み、内部に隠れ潜む人間を駆り立て、生存者を八つ裂きにして親熊の元へと持ち帰っていった。
熊は縄張り意識の強い動物だが、トビグマは異なる。
彼らは群れで狩りを行う動物であり、特に人間を追い詰めるときの連携は狼や野犬の群れを彷彿とさせる。
大人から赤子に至るまで、あらゆる人間が食い殺されていった。
人口稠密な都市は、トビグマにとってお肉食べ放題時間制限なしの夢の国だった。
果たして夜明けを迎えられた人間がどれほどいただろうか。
一二月二六日までの二四時間の犠牲者数は不明である。
記録に残る限りでは、一二月二七日までの間に核保有国の大半がとあるプランを実行していた。
通称ドゥームズデイ計画。
水爆を用いた浄化作戦――恐るべき焦土作戦である。
このとき人類を駆り立てていたのは、純然たる恐怖であった。
まだ文明の火を手にする前、洞穴の中で夜闇と獣に怯えていた原初の時代の感情。
被捕食者としての恐れと、怯え。
理性的と呼ぶにはあまりにもずさんで、救いようがないほど愚かしい行為――核の業火によって自ら諸共、捕食者を滅ぼそうという欲求だった。
翌年、一九七六年を迎えたとき、地上から多くの名のある都市が消えていった。
億を超えるトビグマを滅ぼすため、その巣と化した都市という都市を灰燼に帰す。
神をも恐れぬ所業であった。
結論から言おう。
それでも人類は滅びなかったし、トビグマを根絶することもできなかった。
むしろ戦い――そう、これはもはや、熊害を超えた霊長の座を賭けた生存競争なのだ――は泥沼となっていった。
ドゥームズデイ計画によって生まれた文明の空白地――放射性降下物によって汚染された爆心地は、人類の活動を阻害する危険地帯だが、トビグマにとっては十分に活動できる地だった。
トビグマの拡散と同時に、既存の熊の多くがその姿を消し――トビグマに喰われたとみられる――その生態系の空白を埋めるようにトビグマ亜種が繁殖していく。
生き残った人類は、対トビグマ機銃陣地を作り上げ、核戦争を想定した地下コロニーへ引きこもるようになっていた。
世はまさに殺戮後の世界。
――人類の黄昏の時代である。
◆
「な、なるほど……?」
以上のような頭の痛くなる話を聞かされて、時間旅行者は頭を抱えた。
もとい、抱えたかったが腕を縛られているのでうなだれることしかできなかった。
妙齢の美少女である。
艶やかな黒い髪は背中まで伸びた長髪で、この時代、物資の欠乏と衛生状態の悪化が慢性化している地下コロニー住人にはありえない。
白くなめらかな肌はきめ細かく、皮膚病の類に一度もかかったことがないのが一目でわかる。
瞳は琥珀のように透き通っていて、吸い込まれそうなほど美しい。
その頭部からは一対二本の角が生えていた。
具体的には三日月型に反りの入った山羊角(角型の脳組織直結の通信デバイス。高次元結晶体による超空間通信を可能とする)である。
カチューシャの類ではない。それは明らかに側頭部、毛髪の生えている表皮より深い部分に根元があった。
言うなれば有角人種。
この時代、場違いにもほどがある旅装――袖までぴったりとした仕立てのよい男装――の少女は、狭い室内で椅子に縛り付けられていた。
平たく言うと尋問中である。
対トビグマ機銃陣地の一角、地下コンクリート壕の詰め所であった。
「で、お前はなんなんだ。何が目的でこのコロニーに来た」
対トビグマ用擲弾銃(トビグマの感覚器を麻痺させることを目的としている)を抱えた男が、尋問している。
いかにも兵士という出で立ちだが、口ぶりや周囲の反応を見るに、指揮官クラスの人間らしい。
周りからは大尉と呼ばれていた。
まだ若く見えるが、よほど人手不足なのだろう。
「ですから先ほどから申し上げている通り、わたしは時間旅行者です。平たく言えば、迷子ですね」
涼しい顔でそう答える少女の顔には、ありありと困惑が浮かんでいる。
そもそも、時間旅行者とて好きでこんな世界――こう言うほかない末世――に来たわけではない。
「あー……二二世紀生まれの未来人で、時間旅行をしようと思ったらうっかり事故ったとかいう与太話を? 信じろと?」
「そういうことになりますね」
与太話みたいな世界の人間に小馬鹿にされるという、なんとも言えない状況であった。
時間旅行者の生まれた世界では、少なくとも二〇世紀に空飛ぶヒグマによって人類が滅びかける、などという事件は起きていない。
つまるところ、このトビグマ禍に襲われた世界は、時間軸上の過去ではありえなかった。
どこかの時間分岐を盛大に間違えてしまったのだろう、と結論づける。
彼女が時空間移動能力を身につけたのは、つい最近――少なくとも主観時間においては――である。
不慣れなのでそういうこともあるだろう、と。
「未来人……その角は突然変異体か」
「違います」
いい笑顔で否定した。
何でもかんでも放射性物質の影響と突然変異で説明できる世界観らしい。
二〇世紀のSFじゃあるまいし、と時間旅行者は思う。
人間が頭から角を生やす世界(人体改造の横行するユートピアもといディストピア)も大概、非常識だが、そういう観点で自己を省みることを時間旅行者はしなかった。
悲しい文化的衝突である。
人類史にままある悲劇は、異なる歴史を辿った世界同士でも起きるのだ。
「そもそも、わたしの知っている二〇世紀に空を飛ぶヒグマはいません」
「お、おう」
身元不明の不審者に断言されて、大尉は鼻白んだ。
生まれてこの方、ずっとトビグマの恐怖に怯えてきた世代である彼としては、そんなことを言われても困る。
稀にいる、精神的負担から現実逃避に走ってしまった病人かとも思ったが、それにしては、この少女――時間旅行者を名乗る生き物――は身ぎれいすぎる。
残存物資を巡っての人間同士の殺し合いも珍しくないご時世とはいえ、こんな狂言で攪乱しようというバカもいまい。
意味不明だった。
めんどくせえ。
大尉は心の底からこう思ったし、もうトビグマの餌にすればいいんじゃないかな、と思い始めていた。
自分の手に余る。
とりあえず地下コロニーの指導者層に連絡すべきだな、と通信兵を呼ぼうとしたそのとき。
「ん?」
大尉の視界から時間旅行者が消えた。
椅子に縛り付けていたはずの少女は姿形もなく、その手足を拘束していたロープだけが床に転がっている。
一体どこに、疑問に思う暇もなく、耳元で声がした。
「身の危険を感じましたので、人質になっていただきます。構いませんね?」
有無を言わさぬ声と共に、大尉は意識を失った。
◆
「おはようございます」
大尉が次に目を覚ますと、そこは見知らぬ空の下であった。
頭上には微笑みかける時間旅行者。
ものすごい威圧感があった。
仰向けに自分が倒れていることを確認した大尉は、跳ね起きるなり、ここが屋外であることを認識して悲鳴を上げそうになった。
機銃陣地から離れて単独行動することは、自殺行為である。
ドゥームズデイ以来、トビグマの集団での狩りは確認されていないが、一匹から数匹単位での襲撃はある。
外を移動するときは、重機関銃を据え付けた護衛車両をつけるのが常識であった。
生身の人間など、飛行ヒグマの前では単なる餌だ。
時間旅行者の背後に大きな生き物が見えた。
直立すれば三メートルを超えるであろう巨体は、トビグマに他ならない。
「うわっ!」
思わず声を上げた大尉めがけて、トビグマが飛びかかってくる。
死ぬ。
自身の最期を覚悟した大尉だが、その瞬間はとうとうやってこなかった。
数秒後、トビグマの前足が、胴体が、首がバラバラに切断され、半ば気化した血を噴きながら地面に転がっていた。
漏洩するプラズマの光がかき消えて、すぐに肉片に変わっていく。
「即席の自動迎撃システムです。斥力場障壁と組み合わせていますので、熊に食べられる心配はありませんよ」
時間旅行者がこともなげに言い放つ。
ひゅんひゅんと風を切る音を立て、目にも止まらぬ速さで高速回転する刃。
どういう仕掛けなのか、空中に浮かぶそれ――刃渡り一メートルほどの剣のようなものが、円を描くように二人の周囲を移動し、接近するトビグマを片っ端から切り刻み、返り討ちにしているのだ。
大尉がきょろきょろと辺り一帯を見回してみると、点々とトビグマのものらしき肉片と、湯気を立てる血溜まりが続いている。
一体どれほどの熊の襲撃を受け、これを斬り殺してきたのか。
考えたくもない光景であった。
重機関銃の斉射に耐えるトビグマの肉体を容易く切断する刃――それを空中で高速回転させるテクノロジー共々、今の衰退した人類文明に作れるとは思えなかった。
「まさか本当に、未来人なのか」
「最初からそう申し上げています」
困ったように小首をかしげる時間旅行者。
とりあえず大尉は、この少女に逆らうのはやめておこうと心に誓った。
初めての遠出だった。
地下コロニーと機銃陣地、物資集積場の間の行き来しかしたことのない大尉の目から見て、地上はびっくりするほど平坦だ。
まず、木々や木立が見当たらない。
はげ山が続く寒々しい光景が、トビグマに支配された地上の現実である。
トビグマは雑食の動物で、餌となる人類の数が減ると植物でも構わず食べ始めたから、木々が姿を消しているのだ。
生体核融合を持つ彼らが何故、動植物を食べようとするのかは定かではない。
少女の目的地までの随伴を強制されている大尉としては、トビグマの襲撃があるたびに気がおかしくなりそうだった。
道中、すでに百匹以上のトビグマが肉片に変わっていた。
こうも容易く、人類の天敵が殺されていく様を見ると、感覚が麻痺してくる。
「気温が高いですね……おそらく、トビグマの体温によるものでしょう」
立ち上る積乱雲を見て、時間旅行者が呟いた。
トビグマの体温は高い。生体核融合炉による熱核ジェット推進――超高温に温めた大気を圧縮、推進剤として噴射する肉体構造上、その体温は極めて高温である。
それらが水場に群生することで水温が上昇、水蒸気と上昇気流が発生し、雲を生んでいるのだろう、と。
想像を絶する現象だ、と時間旅行者は言う。
動物の群れが、天候すら左右する。
興味深いですね、と目をキラキラさせている姿からは狂気の科学者のにおいがした。
「そういえば放射性降下物とか、大丈夫なのか」
「わたしは大丈夫です」
「……俺は?」
「多少は問題ないでしょう」
かなり問題のありそうな受け答えをされた。
放射性物質の半減期を思い出してなんとも言えない表情になりながら、大尉は黙々と歩き続けた。
どのみちこの少女に放り出されたら、トビグマに襲われて死ぬしかなかった。
歩いて、歩いて、歩き続けること半日。
どうやら大尉が気を失っている間に、少女はかなりの距離を移動していたらしく、夕刻にさしかかるころには、まったく知らない土地に来ていた。
二人が足を止めたのは、小高い丘の上。
かつて都市のあった平地を見下ろせる丘陵地帯だ。
眼下の光景を見て、大尉は絶句した。
「……なんだ、これは」
そこは今や、トビグマの巣であった。
夕日に照らされるのは、丸くなったトビグマの体毛であり、それが草原のようにびっしりと平地を埋め尽くしている。
かつて臨海部の都市だったのであろう平地は、爆撃で地形が崩れ、浸水によって半ば海水に浸っている。
休眠状態にあるらしいトビグマたちだが、体内の核融合炉を維持しているため、その体温は高いままだ。
結果、温められた海水は湯気を立て、温水になっていた。
時間旅行者の仮説は正しかったらしい。
それにしてもおぞましい景色だった。
「なるほど」
時間旅行者は得心がいったとばかりにうなずき、大尉の方に向き直った。
厭な予感がした。
「さて、あなたを拉致してきたのは、人質にするためではありません。これから行う作業に協力してもらうためです」
「だろうな……」
時間旅行者の持っている武力は、どう考えても地下コロニー住人のそれを凌駕している。
つまり大尉を人質にする必要など最初からなく、別の目的があったと考えるべきだった。
「わたしがこの世界に時間移動してしまったのは不幸な事故によるものでしたが、関わってしまった以上、多少のお節介は必要かと」
時間旅行者は生き生きとした表情で、それはそれは楽しそうに喋り始めた。
厭な予感が強まっていく。
「まずトビグマの起源について考えてみましょう。常識的に考えて、放射性物質の影響程度の突然変異で、ヒグマに核融合炉が発生するはずがありません」
「お、おう……」
そんなこと言われても困る。
現実問題、飛行ヒグマはどこからともなく発生し、世界各国を崩壊させたのだ。
時間旅行者のいた未来にとって荒唐無稽な話だろうと、大尉にとっては歴史的事実である。
怪訝そうな大尉の様子などどこ吹く風で、時間旅行者は話を続けた。
「そしてこの、空飛ぶヒグマたちがどこからやってきたのか――わたしはあらましを聞いて、一つ疑問を持ちました」
時間旅行者曰く。
「ジェット推進するヒグマがいるのなら、ロケット推進するヒグマがいてもおかしくないはずです」
夕闇に染まりつつある暗い空を指さす少女。
大尉としては冗談で言われているのか、本気なのか判断がつきかねたが、おずおずと率直な疑問を口にする。
「……つまり、その、なんだ。宇宙から奴らはやってきたと?」
まあ未来人が時間旅行してくるぐらいだし、宇宙からヒグマがやってくるぐらいありえるのかもしれないが。
そういうことですね、と時間旅行者はうなずいた。
「宇宙開発が、そもそもの始まりでした」
冷戦期、活発化した宇宙開発競争の最中、惑星探査を目的に作られた人工物たち。
一九七二年、アメリカ航空宇宙局に打ち上げられた惑星探査機、パイオニア一〇号――世界初の木星探査機であり、外宇宙の知性体に向けて地球や人類を描いた金属板が搭載されている――がトビグマ襲来のきっかけなのだという。
それが外宇宙の存在によって観測されたことで、彼らによる干渉が始まったのだ、と。
まるで見てきたように語る時間旅行者は、どうやら大尉には想像もつかない手段で宇宙の深淵を覗いているように思われた。
あるいはそう見えるほど、狂気に浸っているのか。
大尉にはわからない。
「細かい説明は省きますが――わたしのいた未来のものと同じ系統の技術で、〈それ〉はトビグマを作り出しました。超空間経路を通じてトビグマを支配し、その肉体へ動力供給をしているのです。彼らの肉体サイズと、摂取したカロリーでは説明がつかない消費エネルギー量の理由はそれです」
「ま、待ってくれ……つまり奴らは、アレか。宇宙人の送り込んだ兵器ってことか?」
その言い方は的確ではありませんね、と時間旅行者は微笑む。
見惚れてしまいそうなほど美しい少女の笑みは、空恐ろしい不吉さに満ちていた。
「トビグマは外宇宙の悪意が送り込んだ、人間に代わる霊長候補なのです。彼らは地球を、人ではなく熊の星に変えるため歴史改変を仕掛けてきたのでしょう」
「なんで、熊なんだ」
「……外宇宙の存在の考えることはよくわかりません」
断言されてしまった。
わからないのかよ、と頭を抱える大尉を横目に、時間旅行者はてきぱきと何事かの準備を進めていた。
虚空から現れる得体のしれない物品の数々を前にしても、もう驚くだけの気力が残っていない。
未来人ってすごい。
それ以外の感想が出てこない。
時間旅行者がこちらを振り返った。
「これから彼らを狙撃します」
「えっ」
何それ怖い。
「どうやって……?」
「重力制御を兵器転用した重力波ビームです。本来の出力の百分の一も出せませんが、この程度の存在規模なら問題なく破壊できるでしょう」
光よりも速く飛来するビーム兵器なので、地球から目標座標まで一瞬で着弾するとかなんとか。
一体何を想定した兵器なのかさっぱりわからないが、一つだけわかったことがある。
時間旅行者の出身世界は間違いなくろくでもない。
「さて、あなたにはやってもらうことがあります。大変心苦しいのですが、未来予測の結果としてあなたが最適ですので……」
心底、気の毒そうな声だった。
なら言うなよ、と大尉は思った。
結論から言おう。
その日、すごいビームが外宇宙に向けてぶっ放され、はるか銀河の彼方で天体規模の超知性体が崩壊、その数百万年にわたる陰謀はくじかれ、銀河を支配する列強の一つが消滅した。
かくして地球上のすべてのトビグマがその活動を停止――地球は救われた。
そして大尉はすごい貧乏くじを引かされた。
◆
地球上からトビグマの脅威が去って半世紀。
最後の預言者と呼ばれた男が、今まさに息絶えようとしていた。
親しいものからは「大尉」の愛称で呼ばれる彼は、トビグマ禍以後の世界を統一した英雄であり、宗教指導者であった。
かつて彼は軍人だった。
あるとき彼は、地上にやってきた御使いに導かれ、預言者として神託を受けたのだという。
悪魔の軍勢であるトビグマを生み出した悪しき星を、御使いと共に打ち砕いた真実の預言者――そのような神話と共に、彼は帰ってきた。
そして未来を予知してみせるなどの奇跡を起こし、民衆からの信望を集め、一大勢力を築きあげた。
古代の宗教家のごとく、男は歩み続けた。
彼はその生涯を通して百回以上、暗殺されかけたものの、そのいずれも無傷で乗り越えて。
まさしく神の加護があるのだと言わんばかりに。
人間世界の謀略も悪意も歯牙にかけなかった彼にも、一つだけ恐れたものがある。
男は夜空をひどく嫌っていた。
その命尽きる瞬間まで、星の光を恐れ続けた。
老齢の男は、寝台の上で震え続ける。
――誰に保証できるだろう。我らが見上げる星の輝きが、燃え尽きる恒星の残光ではなく、邪悪な神々の眼ではないと。
外宇宙に潜む、深淵の怪物たち。
それを目の当たりにした彼が、本当の意味で安らぐ日はやってこなかった。
時間旅行者の授けた未来予知と対応マニュアルの数々が、奇跡と呼ばれても、カラクリを知っているから安心できなかった。
彼女が去った今、もうその力を頼ることはできないのだ。
というか、あの女が一番怖い。
たぶんノリ次第で地球滅ぼすタイプである。めっちゃ怖い。
――誰に誓ってやれるだろう。これから先、人類が再び、あのおぞましい光景に出くわさないと。
弱り切った肉体が、朽ち果てていく確信。
やっと自分が天寿を全うするのだと気づいたとき、男は心底、安堵した。
もう彼は、トビグマに、外宇宙の悪意に、角の生えた変な女に怯えなくていいのだから。
その肉体の呼吸が、心臓の鼓動が止んで――脳組織があらゆる活動を停止したそのとき。
――夜空の果てで輝く星が嗤っていたかどうか、定かではない。