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戦記、ノモンハン事件

作者: 少将

 この項では、ノモンハン事件について扱うこととする。読者のうちの多くはノモンハンと聞けば直ちに「ああ、あの地点か。」とまではゆかないものの、日ソ両虎が張鼓峰に続き衝突した地であること位は既に認識済みであると考えられる。だが、それ以上のことは何一つとして知らない。よって、以下にノモンハン事件の概要を、いくつかの戦例と共に纏めておく。

一、衝突前夜

張鼓峰での大敗を受け、関東軍では対ソ方策より一層熱心に練ることとなった。ただ、治本、治標工作(前者は点在する民家を防塁、自警団に守られた地点に集め、そのような地点同士を通信網と道路とで繋ぎ、匪賊の急襲に備え、民衆を保護するとともに、彼らの略奪を防いで糧道を断つことを目的とし、後者は逆に積極的に追討するものである。)が功を奏し続々と匪賊が投降しつつあったとはいえ、対匪「戦争」(匪賊は只の山賊ではない。旧来の馬賊、軍閥残党、共産勢力など、強敵ぞろいであった。特に金日成の東辺道共産匪は神出鬼没、日本軍に蚊の如くちょっかいを出し続けた。与えた損害は特に大きくはないものの、終戦まで持ちこたえたという点では北朝鮮における多少の英雄化のための誇張もある程度納得できる。)も継続されていたため、なかなか対国共向け以外の全兵力を挙げて、というわけにはゆかない。そのような状況下で、関東軍がとった作戦方針は以下のとおりである。

一、三対一の兵力比では勝負にならぬ。であるから開戦当初は在満兵力で国境の重要な地点を占領して、ソ連軍の侵攻を食い止める。

二、この間に内地、朝鮮、シナ方面から約十師団の兵力を満州に転用し、その大部を東正面に増加して、南部沿海州方面の敵を攻撃し、敵の主力に決戦を求める。全部の兵力を集結するまでには約一か月かかる。それまでは在満の約六師団で綏芬河、東寧正面の敵を防がねばならぬ。国境に準備した数個の要塞はその支柱となるであろう。内地などから増派された約七師団をこの方面に増加し、総計約十三師団で、綏芬河、東寧方面から攻勢を開始し、ヴォロシーロフの周辺で敵の主力を捕捉する。ウラジヴォストク要塞はその後に於いて攻略する。この方面の攻勢には約三か月かかるであろう。

三、東正面で彼我主力の決戦が起こる場合、北正面と西正面では僅かの兵力で優勢な敵を喰い止めるため、陣地を利用して防禦する。北正面に当てる兵力は約三から四師団、西正面は一から二師団の予定である。

四、東方面の敵が片付いた後、主力を北方面または西方面に転用して、満領内に侵入した敵を捕捉する。

五、この間に第二次動員兵力が逐次に増加され総計二十三師団となる。

六、航空隊は約五百機で開戦の当初から東部正面の敵空軍基地を急襲し(著者注、ヴォロシーロフ飛行場のことと思われる。)、制空権を確保し、次いで地上の決戦に直接協力する。

七、最後の作戦目標はルフロフ、興安嶺の線である。チタ方面に向かう作戦は当時の状況によって決定する。

八、右作戦終末に達する所要時間を一年半ないし二年と予定する。

九、対ソ戦争間満州国内の治安は独立守備隊と、満軍とを以て当たらせ、主として鉄道と、電力資源重工業中心を掩護する。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

(六は、所謂航空撃滅戦であり、陸軍重爆開発に大きな影響を及ぼしていた。)

 戦力に劣る関東軍が国境線を死守する道は一つしかない。決戦が予想された国境東部ではソ連軍(以下、便宜上外蒙軍もソ連軍とまとめて呼称することがある。)正面の東寧、綏芬河、密山、虎頭にコンクリート製の軽要塞が構築され、その守備の任に当たるため独立守備隊が新設された。次に優先されたのは北部正面であり、ソ連軍がアムールを渡河することを想定して各一連隊ほどが黒川、愛琿、ホルモシンをはじめとした要地に配備された。残るは西正面である。西方面にはハイラル平原が広がるものの、その東には大興安嶺がそびえたつため、関東軍中央では特にソ連軍の侵攻を危惧しない者が大半であった。が、である。現地部隊と一部中央メンバーはその認識が蜂蜜が如く甘いことを知っていた。確かに大興安嶺を東から突破することは不可能である。しかし、西のハイラル平原からであれば、容易に突破が可能であるのだ。さらにソ連軍は優勢な機甲部隊を有しており、それらが平原にひとたび解き放たれればもはやどうしようも無くなってしまうのである。

 この明らかに不利な状況を少しでも改善するため、昭和13年、既に取り急ぎ第23師団が編成されていたのである。

同師団は三歩兵連隊、一騎兵連隊、一砲兵連隊、一工兵連隊、一輜重連隊を擁していた。師団首脳は対ソ戦の専門家であり、その他も精兵ぞろいであった。又、師団外に第八国境守備隊をハイラル周辺の防備用に擁していた。(ただ、対戦車装備は不十分であり、第八国境守備隊は野戦に不慣れであり、新編のため部隊内の結束も弱かった。)そして、関東軍の正面には満軍が第23師団の指揮下に配置されていた。


二、第一次ノモンハン事件

 昭和14年5月13日の心地よい昼下がり、午睡をむさぼっていた辻政信の耳に外蒙軍不法越境の報がもたらされた。

関東軍司令官宛

一、昨十二日朝来、外蒙軍約七百はノモンハン西方地区に於てハルハ河を渡河、不法越境し来り十三日朝来、満軍の一部と交戦中、尚後方より増援あるものの如し。

二、防衛司令官は師団の一部及在ハイラル満軍の全力を以てこの敵を撃滅せんとす。之が為在ハイラル満軍用自動車の全部及ハイラル徴発自動車を使用す。従ってハイラルには今後軍用に使用し得べき自動車皆無となる。

三、爾後の増兵を考慮し、少くも百台の自動車を急派せしめられたく。尚将来の自動車増派を考慮せられ度。又防衛司令官の使用に供し得る如く偵察飛行機をハイラルに急派待機せしめられ度。尚ハイラル戦闘隊を一時防衛司令官の指揮下に入らしめられ度。戦場付近に集めうる満軍の兵力は最大限約三百名なり。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

 ところが、である。司令部では誰一人として「ノモンハン」という地名を知らなかった。それもそのはず、後の航空偵察で見ても、蒙古包が一つ二つといった程度であったのだ。関東軍司令部でははじめ、この衝突は一時的なものと判断された。何の価値もないノモンハンにソ軍が本腰で攻め込んでくる筈がない。それにソ軍の鉄道からもかなり距離があり輸送に不利である(関東軍の鉄道輸送網からもかなり外れているが。)。確かに、これは散発する外蒙側からの挑発行為のうちの一つであった。

 同月5月13日の夜、第23師団隷下の騎兵第23連隊連隊長、東中佐(当時)は軽装甲車1箇中隊と乗馬1箇中隊とを指揮し、敵の位置へと急行した。これに恐れをなした(この点からも、はじめは単なる小競り合いであったと判断できる。)外蒙騎兵700は14日の夜半、大半がハルハ河を逃げ帰り始めた。15日の正午、殿軍がハルハ河へと退却を開始、だが真昼間の退却を勇将東中佐が見逃すはずが無かった。すぐさま東支隊は敵を猛追、13日に増派されていた軽爆1箇中隊が渡河する外蒙騎兵をたちどころに3、40騎撃破した。目的を達した東支隊はハイラルへの帰途に就き、入れ替わって満軍1箇連隊が守備にあたった。

 ところが、である。東支隊の帰着するや否や、外蒙騎兵は16日、満軍をあざ笑うかの如く再びハルハ河を渡河してきたのである。これは首尾よく満軍によって撃退できたが、このことは軍司令部に急襲の必要性を認識させることとなった。折しもソ連空軍機の偵察活動が激化していたところであったので、以前増派された航空機と合わせ、軽爆9機、戦48機、偵9機が前線に配備された。

  一方、先の再渡河に際して急派された山縣支隊((歩兵第64連隊本部(山縣大佐は同連隊の連隊長)、歩兵1箇大隊、連隊砲中隊(山砲4門)、東中佐指揮下2箇中隊))は、ハルハ、ホルステン合流地点に架橋し、ノモンハン西方に集結した敵を発見した。先の勝利から、敵を侮った山縣支隊は東支隊のみを以って敵退路を遮断、山縣支隊主力は正面から圧迫するという作戦を採用した。27日、ノモンハンへと部隊は秘密裏に移動を開始、28日早朝、零時三十分、精鋭の1箇中隊が2河の合流地点東北側高地を占領して退路を遮断、同時に支隊主力の歩兵1箇大隊が敵陣に攻撃を開始、自動車が思うように行動できなかったため全員下車し、外蒙騎兵80を追撃しつつ川又東北地帯に進出。折から川又橋梁へと退却中の外蒙自動車8輛、装甲車13輛、歩兵150を発見し関東軍砲兵がこれに猛射を浴びせ、退却を阻止した。9時30分頃、ハルハ河左岸から外蒙軍装甲車13輛、歩兵約150が山縣支隊を包囲、だが支隊隷下の砲兵中隊は距離600メートルで猛射、これを撃退した。12時になって、外蒙軍は焼夷弾射撃による野火の煙を利用しハルハ河左岸へ撤退。13時30分頃外蒙軍は猛反撃を開始し先遣部隊を苦戦させたが、21時30分になって支隊正面の外蒙軍は撤退した。が、外蒙領からの砲撃で橋までは到達できなかった。この間、後方から進撃中の一箇大隊砲小隊は外蒙軍装甲車、戦車計9輛の襲撃を受けたが、敢然砲撃を開始、弾の尽きた後は小隊長の指揮のもと全員一丸となって外蒙軍車両に肉薄、戦死者2名を出しつつも遂に外蒙軍を潰走させた。一方の東支隊は橋梁へと猛進した。が、関東軍の存在を偵察隊の撃破で知ったソ軍は東支隊の渡河施設奪取という撃破された偵察隊からの誤報を信じて慌てて猛攻撃、緒戦から一転、圧倒的有利の敵に対処せねばならなくなり、寡兵の東支隊は主計科等4人を除き全員玉砕した。

 一方の山縣支隊主力は31日に増派された2箇連隊砲中隊と37ミリ速射砲1箇中隊と共に橋頭堡を確保した外蒙軍と交戦していたが、外蒙軍砲兵が圧倒的地の利を有しているため、又、東支隊の玉砕の報に接したため、(ただし、東支隊が正に猛攻を受けている中、救援に赴くことが出来なかったとする説もある。当時山縣支隊は東支隊から三キロの地点にあったため、こちらのほうが正しいであろう。)山縣支隊はカンヂュル廟まで退却した。

 ちなみに、この戦闘で関東軍は敵軽装甲車5、敵軽戦車10を撃破しその他兵員100名を殺傷。一方で外蒙軍は山縣支隊主力には殆ど損害を与えられなかったものの軽装甲車10、兵員200名を殺傷した。

 ちなみにこの後、関東軍は渡河材料と航空修理班6箇のみの派遣を要請している。これは非常に控えめな要求であるが、実に切実なものであった。(この点から、関東軍が内地に負担をかけぬよう配慮していたことがうかがえる。)第2次ノモンハン事件までは、関東軍も積極的攻撃を計画していなかった。それは当然戦力差が理由であろう。


四、第二次ノモンハン事件

 関東軍中央で陽動という見方が強まり、再び東部への集中が図られようとしていた正にその時、6月19日、以下のような電報が寄せられた。


一、ノモンハン方面の敵は逐次兵力を増強し、有力なる戦車を伴う敵は、昨朝満軍を蹂躙駆逐せり。

二、約10機の敵爆撃機は昨日温泉方面(?)を攻撃し、人馬に相当の損害を与えたり。

三、約30機の敵爆撃機は、同日朝カンヂュル廟附近を攻撃し、同地に集積しありしガソリン500缶を焼却せり。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

 ここに、日ソの大空中戦の幕が切って落とされたのである。ここにきて当然陽動という見方は完全に消滅。関東軍はソ、外蒙両軍の不法越境への徹底抗戦の構えを見せた。ただ、日英交渉の本格化していた時期であったので、少々ためらいはあったようである。

 そこで、精鋭の第7師団をもって敵背をつき、第23師団はハイラルに於いて敵を牽制するという方針がとられた。これでノモンハン方面の関東軍は2箇師団、1箇守備隊、満軍ということになるはずであった。

 この参謀部の決定を覆せる人物は関東軍内には軍司令官の植田大将しかいない。彼が覆したのだ。第23師団長の小松原中将の精神上のことを案じてのことのようだが、このことが後の戦闘経過に大きく悪影響を及ぼした。

そこで練り直された作戦は、


一、第23師団全力をもって将軍廟周辺に集中し、小松原師団長の全責任において、事件を処理させること。

二、第7師団に代えるに安岡支隊(安岡中将指揮下の戦車2箇連隊と第7師団からの歩兵1箇師団)を温泉方面からハンダガヤ方面に集中し小松原師団長の指揮下に入らせること。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)


 これにより、関東軍の兵力は歩兵13箇大隊、航空機180機、自動車約400輛、戦車約70輛、速射砲28門、山砲24門、野砲126門となり、「関東軍の予想した」外蒙、ソ軍兵力を圧倒していた。

 5月20日から31日にかけ、第2飛行集団は損害を出さず59機のソ軍機を撃墜。(因みに「東洋のリヒトホーフェン」篠原弘道は27日、初陣を飾った。)だが、6月22日迄同飛行集団は一切出動せず兵力の涵養に努めた。6月22日、油断しきった150機のソ連機を総力を上げて迎撃、56機を撃墜した。更に6月26日までに、遂に総計147機ものソ軍機を撃墜した。ただ、関東軍の航空戦力は補充が効かない。遂にタムスク空襲の

関東軍作戦命令が発された。


一、軍は速やかに外蒙空軍を撃滅せんとす。

二、第二飛行集団長は好機を求めて、速にタムスク、マタット、サンペーズ付近敵根拠飛行場を攻撃し敵機を求めて之を撃滅すべし。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

 6月27日、97式重爆47機は軽爆10機、戦闘機約80機を引き連れてタムスクへと堂々発進した。撃墜99機、地上撃破25機の大戦果をおさめ、爆撃隊は帰投した。ソ軍としては不意をつかれた形となった。損害が味方機4機喪失にとどまった理由としては、ソ軍が不意をつかれたこと、及び高速(当時)の97式重爆に対し迎撃するソ軍機は追いすがる形となったため防護機銃及び97式戦闘機隊の好餌となってしまったことなどが挙げられる。因みに篠原弘道はこの日11機ものソ軍機を撃墜した。この一日あたりの戦果を超えられた者は今日までにリヒトホーフェン男爵以外にいない。(12機)

 この赫々たる戦果は残念ながら、というよりも寧ろ当然ではあるが軍中央と関東軍との間の溝を深くした。ただ、この責任を関東軍に押し付けるのは酷である。責任はソ軍がどれほど本気であるかを認識しようともしなかった中央部にある。

 一方、地上において、第23師団は隷下の安岡支隊と共に将軍廟に集結。之に対し6月27日、ソ軍は戦車を砲兵の援護のもと突撃させたが、第23師団主力の3箇歩兵連隊によって撃退され、90輛中13輛を失う損害を出した。事前の偵察でソ軍がまともな歩兵陣地を有していないことを確認した関東軍は直ちに策を練った。小林少将指揮下の歩兵2箇連隊はフイ高地を突破後、右岸のハルハ河を渡河して敵左岸正面を攻撃、満領内のソ軍に対しては安岡中将指揮下の戦車2箇連隊、歩兵1箇連隊、野砲1箇連隊及び工兵2箇中隊が攻撃を行うこととなった。

 月は変わって7月1日、日付の変わってから3時間後、小林部隊は夜陰に乗じて前進、敵戦車を撃破しつつフイ高地北面を確保した。7月2日、特に抵抗を受けずにフイ高地全体を確保、同日夜、ハルハ河と湖とを取り違える失敗もあったもののそのまま渡河を開始した。最前線で架橋作業、主力の渡河を援護する横田大隊は手始めに発見した5輛の外蒙軍戦車を血祭りに上げ、3輛を擱座、2輛を潰走させ、11時頃に発見した外蒙軍戦車16輛をも撃退した。12時頃、同大隊は外蒙軍戦車80輛を発見、13時頃に同戦車隊は1500メートルで砲撃を開始、横田大隊は1000メートルまでひきつけてから連隊砲、速射砲で応戦、至近距

離に接近されるまでに大半を擱座させた。至近距離まで至った後は歩兵による対戦車肉薄が実施され10輛を撃退した。15時になって外蒙軍騎兵300が突貫してきたがこれも撃退。15時50分頃西より外蒙軍戦車50輛、歩兵500が反撃を開始。横田大隊の砲は全て修理中であり、機関銃によって応戦したが、外蒙軍は射程外から猛射、横田大隊は一気に劣勢となった。夕刻、更に戦車10数輛及び歩兵300の攻撃を受けたため日の傾いてきたのを幸いとして22時頃勇敢にも第二中隊、第三中隊が肉薄を開始、一輛を捕獲して危機を脱したが、大隊長は戦死してしまった。

 7月3日、航空機、戦車隊の攻撃を受けつつも小林部隊主力が渡河を完了、鹵獲したソ軍戦車を先頭に南方へと突進した。だがソ軍戦車部隊約200輛が待ち構えていた優勢な砲兵隊と共に攻撃を開始、形成を一挙に逆転させたため、また、それ以上の南進は架橋を破壊される恐れがあるため、小林部隊はハルハ河右岸まで急速に転進した。ところで、7月3日には参謀本部第一作戦部長が前線視察にやってきていたが、戦況は関東軍に不利と誤認しさっさと東京へ帰ってしまった。恐らくこれが後の停戦命令の元凶である。

 一方、満領内のソ軍に対処すべく敵陣に向かった安岡支隊は序盤から苦戦を強いられていた。7月2日、ソ軍の第一線、第2線を強襲し突破した同支隊であるが、第3線に至って敵砲兵の猛射を受け、大損害を被った。なんとか7月3日には第3線を突破したが、地形が不明のため擲弾筒、迫撃砲の射撃が思うように効果を発揮せず、更に窪地に設置された移動式のピアノ線障害物に阻まれ、行動不能に陥る車両が続出。そこを狙い撃ちされるという「ピアノ線の悪夢」に見舞われ、又もや車両部隊に大損害を出してしまった。ただ、陣地規模自体は大したものでは無かったため、重火器の進出後は突破を成し遂げ得た。因みに、戦史上初となる戦車群による夜襲が7月2日深夜零時30分、パルシャガル高地に於いて行われ、指揮は混乱を極めたけれども砲兵陣地を蹂躙し4時30分に集結し終了、川又には到達出来なかったがここに限れば一方的な大戦果をおさめることに成功した。

ただ、関東軍が軽戦車約30輛、中戦車約10両を失ったのに対しソ軍は70輛以上撃喪失の大損害を出しており、補給を度外視すれば大戦果といえる。7月3日には転進してきた師団主力が安岡支隊の増援に駆けつけ、7月5日から10日にかけて猛攻撃を行った。7月6日には高射砲群が18機を撃墜、7月8日には川又橋梁東北の日の丸台を占領し、同日22時30分頃日の丸台を半ば包囲し陣地を構築する優勢な外蒙軍の攻勢を阻止すべく重火器で猛射、重火器の撃ち合いになる中、東側から回り込んでいた関東軍1箇小隊が外蒙軍右背を攻撃、混乱する外蒙軍は2正面からの関東軍の突撃を受け戦死者150名の大打撃を受けた。ただ、11日以降はハルハ、ホルステン合流地点よりやや北西の架橋付近で膠着状態に入ってしまった。7月12日、1箇連隊が楔形に突入、高地の戦車5輛、歩兵150と衝突、重火器を前進させたものの斜面のため思うように射線が通らず攻勢は挫折、大隊重火器と擲弾筒を集中しやっと突破した。外蒙軍は反撃を企画したが同連隊の予備兵力1箇中隊が投入されたため挫折し後退。同日、橋梁付近では工兵1箇中隊は歩兵1箇大隊を伴い橋梁爆破を企画していた。午後になって外蒙軍の火炎放射戦車が出動したが首尾よく撃退。ただ、この後に突撃して来た外蒙軍戦車2輛に対する肉薄攻撃を早まりすぎて12名の戦死者を出してしまった。尤もその後残存の2名は速成火炎瓶による攻撃で撃退を成功させた。(橋梁までは到達し得ず)ソ軍の重砲に対処するため、内地から2箇独立重砲連隊が派遣されることが決定されたのもちょうどこの時期である。

 それから約二週間後、ソ軍空軍は本格的に出動を開始、遂にノモンハンから遠く離れた北満中央の大鉄道拠点、フラルキを爆撃し紛争を拡大させる気勢を見せた。これを黙って見過ごすことは当然出来ない。関東軍は直ちに全軍出動準備を終え、満州全土には灯火管制が敷かれた。だが、これを知った軍中央は激怒した。が、これは不当な怒りである。何をどう考えてもこのまま関東軍が指を咥えて見ていれば、ソ軍はどこまでも不法越境を続ける。おまけにソ軍は戦争をする気で準備にかかっている。越境爆撃が大命に背きかねないのならば、不当に国境を越えて侵攻されても無抵抗で開け渡すことは確実に大命に背く行為であると言えよう。これは丁度、ソ軍の側では現地が攻撃延期を求めて補給に苦しみ、中央に戦えと叱咤されていたのと真逆である。ここからも内地の判断が誤りであったと言えよう。

 7月22日、用意の重砲を加えた全火砲の弾が敵砲兵に向けて撃ちだされた。が、ソ軍砲兵も大火力を有していたので、その火力は最終的に互角になった。このことによって、砲兵を頼んで右岸満領の完全制圧を狙った主力歩兵部隊は23日22時、1箇中隊を先頭に夜襲をかけ警戒陣地をすり抜けてハルハ河右岸の砂丘上にあったソ軍陣地を奪取したのみで、わずかに前線を押し上げることしか出来ず、再び膠着状態に持ち込まれた。因みに内地からの重砲隊には東久邇宮盛厚王殿下も中隊長として参加されており、勇戦なさった。7月24日6時50分、イ16戦闘機19機が川又南方より、8時30分SB軽爆26機が同方面より砲兵陣地めがけ来襲したが関東軍野戦高射砲隊はSB3機を撃墜し撃退。だがソ軍は諦めず9時40分、イ16戦闘機10機とSB軽爆17機とが高度6000で侵入。同高射砲隊はSB軽爆4機、イ16戦闘機2機を撃墜し盲爆にとどまらせた。この後も15時から17時にかけてSB軽爆が二度来襲したものの特に何もせず帰投した。19時、イ16戦闘機30数機が来襲、機銃掃射を試みたが1機を撃墜、数機をソ軍側に不時着させ、これを撃退した。同日20時30分、ソ軍戦車10数輛、騎兵200が重砲隊に支援されつつ右翼のフイ高地北西面に殺到した。関東軍は壕内から砲塔を出した戦車と山砲によってソ軍を猛射、戦車4輛、対戦車砲2門、機関銃4丁を破壊し、無損害で切り抜けた。8月7日朝、ホルステン南岸の関東軍1箇中隊及び1箇大隊に対し、特に中隊正面には17時頃よりソ軍の猛射が降り注いだ。これに伴いソ軍歩兵150が前進を開始したが近距離での同中隊による猛射を受け撤退。8日朝に中隊陣地南面より侵入していたソ軍歩兵60を第二小隊が小隊長先頭の突撃により殲滅(51刺殺)。ソ軍の小規模攻勢を完全に阻止した。

 8月9日、ソ軍は前線へと押し寄せた。だが、予想されていた攻勢規模を大きく下回る規模であったので、既に陣地を築いており、砲兵に守られた第23師団はこれをあっさり撃退できた。翌日、戦闘規模の拡大を受けて第6軍が新たに編成された。司令部は将軍廟に置かれた。

 8月18日22時、ホルステン南岸ハルハ東岸のノロ高地付近に進出していた1箇大隊中の第六中隊は南西正面のソ軍3陣地歩兵150を急襲すべく夜襲を決行した。ソ軍3陣地の右翼正面に達したところでこの夜襲はソ軍の知る所となり機関銃の猛射が同中隊に浴びせられた。だが1箇小隊が陣地に突撃してこれを奪取、続いて同中隊は激烈な白兵戦の後残る2陣地を奪取し32名の死傷者を出しつつも一挙3陣地奪取という大戦果を上げハルハ河に迫った。8月20日、フイ高地最右翼にあった1箇中隊の守備する陣地を猛射、その中を堪らず出撃した中央小隊が22日にかけ大損害を被ったが、フイ高地自体はソ軍の包囲と砲兵隊の猛射を受けつつも守り抜かれた。8月21日10時頃、ホルステン南の第6軍左翼1箇大隊正面に於いて戦車6、歩兵100による小規模攻勢が発生したが、関東軍速射砲により撃退されたソ軍戦車に取り残された砂丘裏の歩兵約30(約半数を射殺済み)を側面より攻撃し、これを爆創1名のみの損害で二名を除き射殺した。同日、川又南東、ホルステン北岸のニゲソリモト付近に包囲攻撃を企図し出現したソ軍戦車隊は14時40頃関東軍野戦高射砲1箇中隊によって一時撃退された。19時30分頃戦車3輛が再び来攻したが、距離500の稜線上に到達するやいなや同中隊によって2輛を瞬時に撃破され撤退した。22日6時20分前日同様3輛が来襲したが、忽ちのうちにソ軍戦車隊は殲滅された。更に15時40分頃に追加で1輛を撃破した。この日、同中隊の陣地は度々空襲に見舞われたが高射砲部隊の本領を発揮し首尾よく撃退に成功した。23日ソ軍は空地共同で攻撃をかけたが、同中隊により戦車6輛中3輛を失い、更に同中隊の堅固な陣地から撃ち出される機関銃弾により随伴歩兵の突撃も出来ず、撤退せざるを得なくなった。又、ホルステン南岸でも8月22日9時30分より同地前線に展開していた先述の1箇大隊はソ軍砲兵の猛射を受け、13時半頃には大隊右翼正面200の地点に陣地を構築されはじめ、14時半頃には戦車18輛の接近を受けていたが、速射砲による右側背戦車隊への距離500での一斉撃ちおろしにより3輛を撃破、更に接近するソ軍戦車に対しては猛射を続け更に2輛を撃破、3、4輛に後退を強いた。陣地に突入した約10輛は速射砲2門及び重機関銃2門を破壊したが同大隊の各中隊は発達した交通壕を生かして重機関銃の援護を受けつつ肉薄、7輛を撃退し戦車隊を撃退した。

だが一方で8月21日、静寂を破ってソ軍最も突破しやすいと見られた満軍騎兵部隊の担当する第六軍右翼正面を突破、更にホンジンガの正面では渡河を開始した。ここで第六軍司令部の報告を載せておく。

軍司令官宛                  第六軍司令官

 二十日以来の戦況より判断するに第23師団正面に現出せる敵の第一線兵力は少くも狙撃(ソ連で言う歩兵)2箇師団及機械化部隊にして、目下における重点はホルステン河南方にあるものの如し。


軍司令官宛                  第六軍司令官

一、敵は重点なく両翼包囲を企図せるものの迫力微弱なり、その砲撃も本23日午後を以て峠を越えたり。軍はその左翼方面を爾後の企図のため自主的に後退せる外各方面共陣地を堅持しあり、御安心を乞う。

二、明24日予定の如く一撃を与う。

三、敵の後方擾乱は実質的には軽微にして全く問題とするに足らず。

四、敵の砲撃による我が損害少々多きが如きも将兵の志気頗る旺盛なり。

五、予は20日以降戦場にありて戦闘指導の任務に就きあり。

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

 新編の第六軍は第23師団のように激戦を経験していないため楽観的であった。

 8月24日、フイ高地の守備にあたっていた部隊が半壊した。ソ軍の重囲を破って退却に成功したことは不幸中の幸いといえる。午前10時ごろに濃霧の晴れた後を右翼担当の1箇連隊が小林少将の指揮のもと進撃を開始したが陣地に突入後ソ軍戦車に蹂躙され殆ど全滅。一方、左翼もソ軍の航空支援によってニゲソリモト東方約5000の地点から思うように前進できない。11時30分、ソ軍突出部左翼に1箇中隊及び1箇小隊が突入、やっとのことで前線をソ軍第二線正面まで押し上げた。同時刻、ソ軍左翼より200の地点に進出した1箇中隊は右側面より戦車砲及び機関銃の猛射を受け、12時頃火炎放射戦車3輛及び歩兵4、50の逆襲を受けたが歩兵を距離100で停止させ、なおも突撃してくるソ軍戦車を驚異的精神力により急造火炎瓶による肉薄攻撃で撃退、残るソ軍歩兵を包囲して13時頃ソ軍左翼正面の陣地を占領した。この後、前進してきていた司令部を約10機のソ軍機が攻撃。航空攻撃の次は間髪入れずソ軍右翼から進出してきたソ軍戦車約15輌が突撃してきたが、距離300で駆け付けた野砲1箇中隊が射撃し4輌を撃破、その後の射撃で大部分を撃滅した。16時、悲惨な戦況の中関東軍軽爆隊が爆撃にやってきた。だがこの軽爆隊は異常なほど前進してきていた師団司令部を攻撃目標と誤認、爆撃してしまった。尤も1時間後、この軽爆隊はお詫びの文を投下し、更にその数時間後にはソ軍機をものともせず天晴れソ軍陣地に必中弾を浴びせたのだが。

 8月25日までに右翼は師団司令部まで後退し、再び膠着状態に入った。だが、24日に辻政信によって鹵獲されたソ軍地図により判明したソ軍兵力は、予想の2倍となる歩兵4箇師団、戦車7旅団、砲兵数箇連隊であった。この攻勢の失敗はソ軍戦車の主力がBTとなり、金網で火炎瓶、地雷対策が施されていたことが原因であると思われる。

 8月26日16時頃14、5輛のソ軍戦車が歩兵300以上と共に大隊左翼正面6、700まで接近、同大隊を迂回し連隊主力を攻撃する構えを見せた。このため同大隊は中隊長が機関銃1箇小隊及び歩兵1箇小隊を率いて迂回したソ軍に接近、連隊重火器と共に機関銃、擲弾筒により18時30分頃ソ軍迂回部隊に壊滅的打撃を与えてこれを撃退した。

 8月28日、第23師団正面はついに決壊、同日夜の山縣連隊の潰乱に始まり、内地から派遣されていた重砲連隊のうちの一つ、鷹司連隊もソ軍戦車の突撃により火砲を放棄して退却、小松原師団長は歩兵500のみを率いて前進したが8月29日、山縣連隊は軍旗を焼却、山縣大佐が自刃、8月30日、第71連隊もソ軍に最後の突撃を敢行して連隊長代理以下玉砕し、30日に軍司令部からの帰還命令(第六軍司令官はウイスキーを飲みながら戦死を要求、師団長も玉砕する旨連絡してきたが、辻の強い要望と軍幕僚部の支持により帰還命令が発された。)が届くころまでには師団長以下500人は完全にソ軍の重囲のうちにあった。師団長は同日夜の玉砕を企画していたが軍命令を受けたため師団長先頭で全員突撃、5回の突撃の後ついに重囲を突破した。第一次ノモンハン事件以来およそ三倍もの敵を相手取り、三か月の長期間に渡り八割が戦死しつつも戦い抜いたこの新編の師団は、遂に最前線から退いたのである。正に敢為邁往の師団であり、師団長以下十二分に皇軍の模範となりうる師団であった。

 この後、第23師団の代わりには精鋭の第7師団が入り、ホルステン両岸を担当、満軍はハンダガヤを、第2師団は将軍廟北を、第4師団は将軍廟東を、第23師団残存兵力は将軍廟北東を、それぞれ担当した。九月攻勢が短期決戦を目指し企画されたのもこの時期である。


「第一日目の夕方から攻撃を開始し、先ず敵の警戒陣地を奪い、第二日目の朝までに陣地を作り、第二日昼間はそれに拠って敵火の損害を避け、夜襲を準備する。第二日は夜襲して、第三日朝までに陣地を完成する。このように、昼間は壕を深くして敵砲弾による損害を減少し、砲兵を並べて敵戦車の反撃を我が陣地前に撃破する。すなわち夜は攻撃前進し、昼は防禦する戦法を四日に渡り連続し、第五、第六日は準備を整え、第六日夜、夜襲によって敵主陣地を突破しようとする案であった。」

(以上、「ノモンハン秘史」辻政信、より引用。)

 

 この案をもとに、第6軍は夜襲の猛訓練に励んでいた。

ところが、である。8月31日、関東軍は内地から突如戦略的持久を命じられた。但し、あくまでこれは越境後の作戦行動を制限するもので、九月攻勢の妨げとはならなかった。そのうえ、この時に至ってようやく参謀次長も協調の意志を見せ、九月攻勢は今にも実行に移されるかに思えた。ところが9月3日、攻勢企画中止が内地から命じられ、第23師団の遺体収容すら許されず、ここにノモンハン事件は終結した。ただ、ハンダガヤ方面では依然ソ軍が攻勢の構えを見せていたため9月4日、ハンダガヤ方面強化のため第2師団の片山旅団長指揮下の歩兵1箇連隊及び砲兵1箇大隊が満軍と交代し、左側背強化のため後藤少将指揮下の歩兵1箇連隊が前進した。この時点で第6軍の兵力は以前の三倍に膨れ上がっていた。この大兵力をこの際になって出し始めたのは今後も日本軍が犯し続ける兵力逐次投入の兆候であったのだろうか。


おわりに

 ノモンハン事件発生の因はソ、外蒙にあり、日本を敗北に至らしめたのは正に内地の誤った戦局判断である。このことは定説とは大きく異なるが、真である。歴史家は、ノモンハン事件は関東軍の大敗とするが、関東軍は九月攻勢を予定しており、独ソ戦を戦い抜いたジューコフはノモンハンを指して「人生で最も苦しかった戦い」と語っている。さらにソ連崩壊後に明らかになった資料により、ノモンハン事件におけるソ連側の被害が相当大であったことも明らかになっている。(尤も、極東のソ連軍には未熟な部隊が多かったが。)このまま紛争という形で戦い続ければ有利に終結させることも可能であっただろう。ノモンハン事件は一時的な敗報に流されて大局を観誤ることの恐ろしさをはじめとした、様々な教訓を後世の人間に残している。ノモンハン事件に限らず、歴史を暗記と捉えず、その先にあるものを見つめることを読者諸氏に求め、又ノモンハンに戦った日満ソ外蒙の全将兵に敬意を表しつつ筆を置く。


参考資料

辻政信著「ノモンハン秘史」毎日ワンズ

陸軍教育総監部編『「ノモンハン」事件小戦例集』陸軍教育総監部


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