第58回 「想い」
「いいえ閣下、それは違います。僕は『僕』が『人』であると言えば『人』なのです。そしてそれはどこにいても、誰が何と言っても同じです。ましてあなたや法律に認めてもらうものではありません。翻って閣下はどうでしょうか。確かに閣下がイースタシアの総理大臣でいらっしゃるのは民意でしょう。しかし閣下が『津田総介』であるとは誰が決めたのですか。」
不意な批判に閣下は戸惑い顔を真っ赤にして怒りに身を震わせているようだったが、僕は構わず諌言申し上げた。
「それに閣下は大きな思い違いをしています。僕が帝国に膝を屈しているようにあなたからは見えるのでしょう。しかし侮らないで頂きたい。僕は常に戦っているのです、この狂った世界と。まさかとは思いますが、表面上そうだからといってご自身の部下が閣下に心服しているなどとお思いでしょうか。子供みたいに身振り手振りでイヤダイヤダと駄々をこねてみなければわかりませんか。僕が何を思い何と戦うのかは誰でもない、僕が決めるのです。客観論などどうでもいい。それとも閣下は飯も客観論で食うのですか。」
津田首相は僕の言葉を遮る大声で「黙れ」と叫び、僕と食べかけの小籠包を置き去りにして一人で帰ってしまった。従者たちは慌てふためき一目散に彼を追い掛けたが、僕は素知らぬ顔で炭酸の抜けたラムネをチビチビやっていた。彼の機嫌を損ねてしまったのはまず間違いなく悪手だっただろう。しかし言いたいことが言えたことにはむしろ清々しい気分だった。
「やるじゃないか、まんまと津田さんに気に入られたな。」
隣の中年男性がニヤケ面で僕の肩を叩いた。
「気に入られたなんてとんでもない。あなたも見ていたでしょう、僕は彼を怒らせたばかりです。」
困惑していると、どういうわけか店内にいた皆が一斉に笑い出した。
「ああ、あの人はそういう人だから。」
カウンター越しに店主が口を挟んだ。彼の話では津田首相はこの店の常連だそうで、彼の人となりをよく心得ているらしい。
「すると似たようなことが前にもあったのですか。」
僕は店主に尋ねた。さもなければ彼の説を納得しようがない。
「いや、津田さんがあんなに怒っているのを見るのは今回が初めてだ。」
不可解な返答に首を傾げていると、したたかに酔った客の一人がぼやいた。
「人間なんてそんなものだ。あんたにもそのうちわかる。」
彼の言を信じたい気持ちはもちろんあったが、心理学者ならいざ知らず無学の労働者ごときに一体何がわかるというのか。僕は「なるほど」と納得した素振りを見せながら内心では彼の浅知恵に耳を貸すのを躊躇わずにはいられなかった。
その後も客たちが色々と僕に絡んできたが、酔っ払いの戯言に適当な相槌を入れながら聞き流すのもなかなかくたびれる。有象無象の連中に好きでもない飲酒を半ば強引に付き合わされて軽い目眩と吐き気を催しながら、事態を把握したリヒャルトが迎えを寄越すのを待ったがその気配は一向に訪れなかった。紹興酒の瓶が一つ空になったところで僕は自力で帰る決意を固めた。
店主と客たちに謝辞を述べ暇を乞い、カードで会計を済ませると面々に惜しまれながら店を出た。この国では人種差別を受ける心配がなく、治安の程度は知らないが言語も風俗もよく知っているため危険は全く感じなかった。
旧いアーケードを真っ直ぐ進み行き交う人々を見渡せば東洋人が気ままに往来を行き来し、その装いは襟を正したスーツ姿から和装のような民族衣装風の者まで誰もが明るく華やかに着飾っていた。大通りに抜けると南側には石造りの洋館が、北側には軒の低い建物が無秩序に密集しており、そのまま少し進むと大きな神社の鳥居が見えた。商店街の雑踏と比べて町並みは静かで、所々に新築と思しきオフィスビルが背を伸ばしていた。それから少し経つと僕は「東方酒店」の立札を見つけることができた。




