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異世界に落ちてきた男  作者: 岡本沙織
第6章 「海の都」
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第54回 CUBE

 それから小一時間ほど資料を眺めていたが、不意に扉をノックする音が耳を打った。ダスラー氏はおもむろに立ち上がり部屋の扉を開けると、その先には地味な濃紺のネクタイと同色のスーツに着替えたリヒャルトが立っていた。

 リヒャルトは「時間だ。」短く告げ、僕に着替えるよう命じた。非公式な会談のため礼装の必要はないが最低限「失礼のない服装」が求められるらしい。フォーマルウェアの知識がない僕はスーツケースの中から赤いレジメンタルタイに白いシャツ、黒無地のスーツに黒いプレーントゥを引っ張り出した。鏡に映ったネクタイを締める姿はまるで就活生のようだった。

 リヒャルトは僕の姿を一瞥(いちべつ)すると「まあ、いいだろう。」と呟いて僕にデミタスカップを手渡した。僕はそれを一気に飲み干し、それからエレベーターで1階に降りるとオフィスに横付けされた車へ足早に乗り込んだ。運転手はブラッドで、実は僕たちが会談に臨んでいる間に官邸から異世界との交信がないか監視するのだそうだ。官邸の敷地内に入る機会は稀であるため少しでも多くの情報を掴んでおこう、というのである。ただしどの程度の有効な情報が得られるのかは未知数だろう。


 自動車で海岸沿いを少し辿り、それから山の手の入り組んだ道を北上するとおよそ10分ほどで官邸が見えた。周囲は何者かの大きな邸宅が立ち並び、都心の近くにしてはその場所だけ不気味なほど静けさを感じた。

 それに加えて官邸はガラスで覆われた巨大なキューブの形をしており、(ふもと)からでもかなり目立つ。ゲートをくぐると広い空間にキューブだけがぽつんと建ち、市内を一望してどの建築物とも調和しない異様な雰囲気だった。それは現代アートの美術館のようで、もしかするとこの世界ではそれが最先端の建築様式なのかも知れない。


 「お待ちしておりました。官邸にようこそ。」


 車から降りるとアジア人の青年が帝国の言葉で、にこやかに話しかけた。


 「こんばんは、シュトラッサーさん。急なお呼び立てにもかかわらず、わざわざお越し頂きありがとうございます。」


 「滅相もありません。それより彼が私の部下のモロゾフ君です。」


 リヒャルトの紹介に青年はいかにも「あなたを待っていた」というように僕へ(うやうや)しく一礼し、目を大きく開いて僕を見た。


 「初めまして、総理秘書官のハセガワです。」


 秘書官がどの程度の地位なのかわからないが、国の中枢に携わるにしてはハセガワ氏は随分若過ぎるように感じた。どう多く見積もっても30代前半位だろう。それに彼は色白で華奢な体格で、遠目から見ればまるで女性のようだった。


 「初めまして、ハセガワさん。私はモロゾフ、カール・モロゾフです。」


 「お噂は聞き及んでおります。津田がお二人をお待ちです。こちらへどうぞ。」


 彼がキューブに近付くとガラスの一片が静かにスライドし、奥まで続く通路が出現した。僕が物珍しさに見入っているとハセガワ氏が僕に言った。


 「驚いたでしょう。この建物にある全ての扉は生体認証で管理されているのです。」


 「大変驚きました。まるで近未来の建物のようですね。」


 僕は見え透いた感嘆の溜息と共に呟いた。


 「津田は官邸を都市のランドマークにしようと計画しました。例えば、建物の外郭を形作るガラスの継ぎ目には電飾が施されています。夜のライトアップで大衆の目を楽しませ、また簡単な電光掲示板としても利用するためです。それから敷地面積の大半を占める芝生の空間ですが、地震や洪水など災害時の避難所として機能させることもできます。」


 ハセガワ氏はなぜかまるで我が事のように自慢気な口振りで饒舌(じょうぜつ)に語り始めた。僕はその態度が妙に(しゃく)に障り、つい見下すように口走ってしまった。


 「しかしこの国には自動運転車はありませんね。」


 すると彼は悲しそうな顔をして言った。


 「残念ながら我が国の老人たちが普及に反対しているのです。自動運転車が合法化されればどんな過失事故もマシントラブルに転嫁できるではないか、と。」


 「それはどういった理屈でしょうか。」


 世界首都では僕自身が自動運転車を日常的に使っており、その上で断言できるが、過失事故など起こる余地などない。また仮に過失事故が起きたとして、自動車の走行履歴を追えば人的ミスか機械の故障かなどすぐに誰にでも判断できる。僕は彼の言っている「老人たちの見解」に一切の道理を見出だせなかった。


 「私にもわかりません。」


 ハセガワ氏はそう言うと気不味そうな苦笑いを浮かべた。

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