第5回 「持たざる者」
確かに国語や英語や数学が実社会の役に立たないことは高校生の僕でも想像に難くなかったが、オリガの言葉は自信に満ち、まるで社会的に合意形成された事実を述べるかのようだった。その理由を問うと、彼女は淀みなく答えた。
「資本家のための教育を労働者に施すなんて悪趣味極まりないわ。貧しさに劣等感を抱いた子供達は惨めな残りの人生をどうやって肯定すればいいのよ。」
確かに僕の知っている「優等生」も裕福な家庭が多かったような気がする。しかし学校内のヒエラルキーにおいては成績の良し悪しなんて少しも関係なかったし、お世辞にも成績が良いとは言えない僕自身が全く劣等感を抱いていなかった。「将来」という僕にとっては雲を掴むような抽象的な何かより、友人や恋人と過ごす日常のほうが遥かにリアルで刺激的だったからだ。
「じゃあここではどんな教育を受けさせられるんだい。」
僕はオリガに尋ねた。
「私たちは私たちの適性に合った職業訓練を受けることができるの。」
「その適性は誰が見極めてくれるのさ。」
「そんなものは誰かが決めなくても、母親が家具職人の妻なら娘も家具職人の妻になるのが良いに決まっているじゃない。」
彼女の口振りではどうやらこの国では職業選択の自由が制限されているらしい。ただし僕のいた国では建前こそ自由主義だが、金銭的な事情で大学進学を諦めた先輩や両親の支援が得られずプロを諦めた部活のエースを何人も知っている。もしかしたら自由であろうとなかろうと大して変わらないのかも知れない。かえって両親に誇りを持てるオリガのほうがいくらか幸せなのだろうか。
「同志大尉のお父上も大尉だったのかな。」
そうだとすると江戸時代みたいだな、と僕は思った。
「彼とは種族が違うのよ。」
「種族ってまさかこの世界では肌の色や瞳の色で人の価値を決めるというのかい。」
人種差別なんて愚かで不条理な時代遅れの思想だということは17歳の僕でもよく知っている。
「まさかツバサは人類が平等だなんて非科学的な考えじゃないでしょうね。」
「科学は知らないけれど、福沢諭吉という偉い人はそう言っていたよ。」
「その偉い人はとても時代遅れなのね。」
オリガは小学校に上がったばかりの子供にひらがなを教えるような優しく穏やかな口調で続けた。
「生き物には遺伝子というものがあってね、河原に転がる小石のように全く同じものは存在しないの。ほら、小石にも比較的大きいものと小さいものがあるでしょう。あれと同じように、遺伝子にも優れたものとそうでないものがあるのよ。」
僕は何も言い返すことができなかった。福沢諭吉にならそれができたかも知れないが、小さな頃から先生から「差別された人の気持ち」を繰り返し聞かされただけで科学的根拠が示されたことなんて僕には一度もなかった。