第48回「日本」
オリガは座席のスクリーンでずっと映画を観ていたが、何かの拍子に突然泣き始めた。彼女も旅立ちの寂しさや不安を抱えているであろうことは想像に難くない。それに僕の世話係として突然知らない国に飛ばされる不満だってあるはずだ。当然だろう、僕自身もそうなのだから。
頼りない僕個人への苛立ちもやはりあるだろうが、その問題に関してはかなり楽観視していた。確かに彼女からは毎日のように怒られたり、よく考えれば下らない理由で喧嘩したりもしているが、よほど深刻な状態であれば彼女は会話すら拒絶するのこと僕は知っていたからだ。
「ツバサ、『ワダ』ってどんな所なの。」
顔を真っ赤にして涙を浮かべたオリガが数刻振りに口を開いた。
「それが僕も全く知らないんだ。ダスラーさん、いかがでしょうか。」
「『ワダ』はイースタシアの首都で、彼らの国において最も重要な都市の一つと言えるでしょう。もっとも国会や政府などほとんどの首都機能は大陸にありますが、イースタシアでは皇帝の居住地が首都とされているのです。そういった都合上、各国の大使館などもワダに置かれています。」
ダスラー氏はそこまで言い終えた後に “ええ” と変な声を出し、続けて話した。
「山と海に囲まれた暖かな気候で、世界中の船が行き交う大きな港町だよ。驚いたことに洋菓子の出来栄えは帝国にも負けず劣らず、それに何より特産品の美しい水を原料にしたシードルが絶品だ。お嬢さんも是非飲んでみると好い。」
必死にオリガの興味を惹こうとするダスラー氏を尻目に彼女は喋り出す前より一層悲壮感を漂わせた顔で塞ぎ込んだ。
所在地が「大陸」ではなく、「美しい水」が流れていて「山と海に囲まれた」という地形の特性からやはり目的地が日本のどこかであることは間違いなさそうだ。僕は母国に帰ることができる喜びと変わり果てた世界への恐怖が入り混じった何とも落ち着かない気分でダスラー氏と取り留めのない会話をした。
彼には「ハイレット」という名前の弟がおり、国防省陸軍の通信将校をしているのだそうだ。その人物に僕は心当たりがあり、権威主義的でいけ好かない人物であると記憶しているのだが、兄に言わせれば彼の差別的な言動など田舎の帝国国民の典型であり何も弟に限ったことではないそうだ。権威主義に関しては彼にはよくわからないが、軍人は皆そういったものではないかという見解である。また兄は弟が党員になれなかったことを少なからず見下している様子で「主義のない日和見主義者」と評した。
そういえば僕を差別するのはいつも「平凡な一般市民」で、党員はおろかその中でもさらに選りすぐりの親衛隊員でさえ僕と比較的対等に接してくれた。少し考えればわかることだが社会的地位の高い人々に限って誰かを差別することはまずない。その必要がないからだ。反対に下層階級の人々が自分たちよりさらに下の階級を見出そうとするのはごく自然なことである。党が人種差別の構図を人種差別の構図を下層階級に提供する理由もわかる。不満の矛先が自分たちのほうへ向かないようにするためだ。
僕がもし「田舎の帝国国民」に生まれていたら典型的な差別主義者になって劣等民族を率先して袋叩きにしていただろう。いや、そうしない理由が見当たらない。なぜなら差別を憎み戦う合理的な理由が見当たらないからだ。差別の理由は別に民族である必要はない。バカだから、年収が低いから、皆と違うから、などバリエーションはいくらでもありそれが実際に行われている国を僕はよく知っている。
僕たちはイスタンブールの空港で旅客機を降り、ダスラー氏に案内されてイースタシアの航空会社の便に乗り換えた。そこで僕の目に留まったのは「東亞航空公司」という文字で、中国語のような日本語とは少し違うフォントだった。機内に入ると乗客のアジア人だったのでオリガは「ツバサが沢山いる」と大笑いしていた。添乗員が話す言語は中国語で、まるで日本に帰るという実感がなかった。ひょっとして日本がアジアを支配しているのではなく中国が日本を飲み込んだのではないか。僕はダスラー氏に尋ねた。
「かつてイースタシアの国号は『日本』ではなかったでしょうか。」
「いや、少し違いますね。私が聞いたことがあるのは “Nippon” という単語です。およそ30年前まではそのような国号が使われていたと記憶しています。今は彼らの言葉で “rìběn” と呼ばれています。」
「それは何語でしょうか。」
「イースタシア語です。」
「『日本語』という言語はご存知でしょうか。」
「聞いたこともありません。しかしイースタシアが連邦を形成するに当たりかつて大陸人が使用していた言語を公用語にしたという経緯があったはずなので、それ以前の言語が “Nihon go” だった可能性はありますね。詳しくはワダのイースタシア人にお尋ねになってはいかがでしょうか。」
それ以上質問攻めにしてもダスラー氏に悪い気がしたし、長いフライトで少し疲れたので僕は寝ることにした。




