第42回 「ジェンダー」
まるで感情を司る脳の器官が欠落しているかのようなマリアが抱いた「好き」という二文字は、もはや本人ですら手に負えない怪物のように彼女の理性を蝕んだ。それは彼女の認知能力すら預かり知らぬところで無意識のうちにシュナイダー博士と会えることに無上の喜びを感じてしまい、言葉を交わすだけで胸が高鳴り、気が付けばいつもシュナイダー博士ばかり目で追ってしまうのだ。その不合理なものの意味を考えたとき、彼女自身が彼を「恋」であると極めて論理的に結論付けた。しかし同時にそれは即物的な、例えばキスをしたり手を繋いだり一時的な満足感を得られれば解決出来る課題なのかと考えれば決してそうではない。腹が減ったら食べれば好いが、この「恋」という現象はまるで麻薬のように昇華すればするほど枯渇してしまう性質を持つらしい。
「それなら金輪際絶ってしまえば解決するのではないか。」
僕はそう提案した。薬物依存を断ち切るには薬物そのものを断つしかない。幼稚園児にでもわかる理屈だ。しかしシュナイダー博士のいない場所で静かに暮らすということは現在の生活基盤を失うこととワンセットである。常人には酷な選択でしかないが、マリアに関してはその限りではない。自分自身の感情まで俯瞰して分析する人間がこの期に及んで「寂しい」などと情緒的な言葉を捻り出すだろうか。
「そうね、私が普通の女の子ならそうしていたでしょうね。」
どう考えても普通の女の子はそんな割り切り方をしないと思うのだが、彼女にとってそれが「普通」なのだろう。マリアの場合はその特異極まりない性分以上に「千里眼」の能力まで備わっているから厄介である。彼女はいつでも見たい場所をどこでも見られるがために、会えなくなった想い人のプライベートを覗き見ることなど何でもないことなのだ。
「それならば断ち切れない糸を結ぶしかない。そのための協力なら幾らでも骨を折るよ。遠慮せず何でも言ってくれ。」
「そんなことできるわけないじゃない。」
マリアは顔を赤くしながら大きな瞳を潤ませて僕を睨んだ。いつも冷静で無表情な彼女の初々しい乙女のような表情に僕はかなり困惑したが、ちょっと、いや、かなり「可愛いな」と思った。
しかし僕はマリアにも十分なチャンスがあると確信していた。そもそもシュナイダー博士は独身と聞いているし、特定の女性と交際している様子もなかった。電話越しに口説いている女性の名前がいつも違うからだ。それに対してマリアは容姿に優れ、慎ましやかで、知性に溢れる女性だ。僕はマリアに「大丈夫、君にならできる」と励ますように言った。マリアは表情を曇らせて「できるわけがない」と繰り返し、それからしばらくの沈黙の後に僕へ告げた。
「だって彼にはボーイフレンドがいるんだもの。」
僕はマリアが何を言っているか飲み込むのに少し時間を要したが、不思議なことにあまり驚きはしなかった。なぜなら僕にとって同性愛という概念に接する現体験は身近なものであり元の世界ではどこか彼らを賞賛する風潮さえ感じていたためだ。もちろん身近な人物がゲイであったことは初めてである。しかしクラスにはボーイズラブ好きな女子が何人かいたし街中でゲイのカップルを見かけたこともある。
それにしても驚くべきはシュナイダー博士の秘密を知って尚も好意を抱き続けるマリアの想いの強さである。恋敵が異性というだけで尋常ではないのに帝国においてホモは御法度だそうで、わざわざ犯罪者のために身を焦がすマリアを僕は不憫にさえ思えてしまった。マリアは「ゲイじゃなくてバイセクシャル」であると訂正を促したが僕にとってそんなことはどうでもよく「マリアにならもっとまともな男性を選べるのに」と感じた。
「シュナイダー博士のカレは大学生で来年には大手の製薬会社へ就職が決まっているわ。彼が新入生の頃にシュナイダー博士の講義を受けていたらしいんだけど、誘惑したのは彼の方からよ。だって彼、とっても上手なの。」
それからマリアはシュナイダー博士の日常生活を時折「可愛い」や「優しい」などといった形容詞を交えながらつぶさに語り始めた。彼女の能力をもってすれば彼女以外のプライバシーなどないに等しく、彼女にとってその意義は極めて薄い。ひとしきり喋り終えるとマリアには「ありがとう。スッキリしたわ。」と僕の部屋から出ていった。




