第37回 「年下の男の子」
その日はよく寝られず、気が付けば時計は午前4時を回っていた。謎めいたマルティナの真意は測りかね本当に僕のことが好きな可能性だって未だ完全には捨てられない。淡い期待と真に受けるべきではない客観的理由が迷宮のように入り組んで答えが見出せずにいたのだ。ようやく浅い眠りに就いたと思えば気が付くと夜が明けていた。何か夢を見たのだが起きた時にはもう忘れていた。
午後7時にいつも通りオリガが朝食を作りいつもとは違って味のしないパンを喉に押し込んだ。もちろんオリガにはデートのことは言っていない。内緒にする約束だからだ。その日は念入りにヘアスタイルをチェックして、お気に入りのベージュのジャケットに袖を通した。マルティナの家には何度か送り迎えで行ったことがあり出立の目安は心得ている。それなのに心が弾み彼女の家に着いたのは午前10時を回ったばかりであった。当然ながら時間を持て余した僕は近くのカフェでエスプレッソを飲み、それでも時間が余ったので車の窓から雲を眺めていた。
マルティナが家から出てきたのは午前11時を10分ほど回った後だった。彼女は品の良いハイゲージのセーターを着ていつもより色鮮やかなメイクを施し、それは職場で会う姿とは見違えるほど大人っぽい印象を受けた。僕たちは「待った」「ううん、今来たとこ」という紋切り型の挨拶を交わすとお互いに「何か不思議だね」と笑ってしまった。
それから僕たちは彼女が見たいと言った映画を見に行った。タイトルは「デミアン」という単館系の映画で繁華街の外れにあるひっそりとしたビルの中にて上映されていた。難解で重苦しくストーリーが全く頭に入らなかった。隣にマルティナがいたせいもあるだろう。それは手を伸ばせば届く距離にいるもどかしく切ない距離感だった。上映が終わるとマルティナは早口に主人公とその友人の『デミアン』について語り始めた。最後のキスシーンが良かったとかその類の内容だがラブストーリーもまともに見たことのない僕には分からず「そうですね」とマルティナの唇を見ながらいい加減な返事をした。
昼食はランチタイムを少し過ぎた時間帯だったのでどの店も空いていて、僕たちはトルコ料理のレストランに行った。世界首都では人種差別が比較的おおらかであり僕のようなホワイトカラーの黄色人種も多くはないが決して珍しくもない。各地域の総督府から少なからず官僚の出入りがあるのだろう。特に中東に関しては特に目立ち若者の間では中東料理、中東ファッションが流行でもある。僕はマルティナのことをずっと高嶺の花のお姉さんのように感じていたがこうして見ると流行好きの普通の女の子のようにも思えてきた。
「君はもし未来が見えたらどうする、ツバサ。」
マルティナはケバブを頬張りながら言った。そういえば彼女は未来が見えるのである。どういったシステムなのか僕にはわからないが次に僕が何と答えるのかも彼女はすでに知っているのだろう。だがそれは幸福なことかといえば疑問が残る。
「ギャンブラーになる。それから遊んで暮らす。」
僕が答えるとマルティナは「思考が貧弱ね」とクスクス笑った。
「未来がわかってしまうと、きっと便利なことのほうが多いわ。でも全然ドキドキしないし、何も面白くないの。物質的に恩恵はあっても精神的には極めて不健康だわ。しかも考えてみて、それが一生続くのよ。」
言われてみればそれはそれで辛いだろう。人によっては贅沢な悩みかもしれないが本人にしかわからない問題もあるのかも知れない。しかしなぜ僕にそんな話を打ち明けたのか、少し考えれば分かることだった。マルティナはきっとこう言いたいのだろう。「悩みがあるのはお前だけだと思うな」と。
それが知れてしまえば「実は僕にも悩みがあって」なんて言い出すのも白けてしまう。しかもマルティナはそれすら織り込み済みなのだろう。その上で僕に言えることは一言だけだった。
「ありがとうございます、もう大丈夫です。」
それを聞いてマルティナはまたクスクス笑いながらこう言った。
「私は少し未来の事象を知ることはできるけど、君の心はわからないよ。」




