第32回 「付加価値」
とはいえアシュレイの言う通りビジネスを始めてみるのも面白いと僕は思った。それは僕の立場から考えれば自明で、何のスキルも地位もない下等種族が生活基盤を整えるには、進学塾のアルバイト講師のような仕事だけでは不安定だと考えたからだ。ただ、社会人経験がほとんどない僕にはまず何から始めれば良いのかわからない。そのため副業の許可を求める意味も兼ね、一度シュナイダー博士に相談する必要があった。
僕は終業後にトーマス・マンの短編集を読んでいたシュナイダー博士を捕まえ、異世界の知識を利用したビジネスの可能性をプレゼンした。彼は身を乗り出しながら時々相槌を打ち、僕の目を見ながら「大賛成だ、ツバサ。」と大きく頷いた。それから「でも残念だけど、僕では力になれそうにない。僕はアーティストだからね。」と彼独特の言い回しで告げ、続けて「済まないが同じ話をガーボル君に聞かせてみてくれないか。」と相談相手を斡旋した。彼は芸術趣味を拗らせてキザな言い回しをすることがよくあり、きっと彼自身は面白いと思っているのだろう。また、シュナイダー博士は「交渉には一緒にヴィンデを連れて行ってくれたまえ。彼女は賢いからきっと役に立つと思うよ。」と言うと、隣の部屋で同僚とバームクーヘンを食べていたヴィンデを呼び出した。そして「ツバサがビジネスを始めるから、協力して欲しい」とだけ短く伝え、職場を後にした。残された僕はヴィンデに事の顛末を伝え彼女に了承を求めたが、彼女は笑顔で「博士がそう言うなら」と彼女自身の意思がよくわからない返事をした。
その翌日に早速僕はガーボル氏に連絡を取り、その日の深夜に世界首都の博士の事務所で会う約束を取り付けた。そのことをヴィンデにも伝え、仕事が終わって二人で職場近くのレストランでディナーを済ませるとヴィンデは親衛隊服に着替えて、僕は仕立てたばかりのグレーのスーツに袖を通した。今帝国で流行りのスーツはパッドが厚くダーツの入っていないスリーピースで、ズボンもインタックの体型が大きく見える仕立てだった。靴はイタリア製の既成靴を選んだのだが、革が柔らかく軽いのでスニーカーを履き慣れた僕にはちょうど良かった。
ガーボル氏はいつも多忙であるようだが、初対面の日と同様なぜか時間を作ることにかけては融通が効くらしい。恐らく睡眠時間を削っているのだろう。それなのにそれを全く苦にしていない様子なのでよほど仕事が好きなのだろうか。その日も深夜であるにもかかわらずガーボル氏は涼しい顔で僕とのミーティングに臨んだ。僕はバブル経済の話、信用経済の話、千利休の話など順を追って説明した。話をしている僕自身が何を言っているかわからないことも時々あったが、ガーボル氏はほとんど無表情で話を途中で遮りもせず黙って耳を傾けていた。
「難しいことはわからないけど、国債を発行したいのかな。でも国債は金利が低いからね。」
ガーボル氏は「だから売れない」というニュアンスでそう言った。もちろん彼に国債発行権があるわけがないのだが、口調はかなり真剣だった。
「ただ、債券に付加価値を付けるのなら面白いと思う。そうすれば金利が低くても買うでしょう。例えば、応援しているクラブチームの株式とかね。」
普段は控えめのヴィンデが少し熱っぽくガーボル氏に食い下がった。
「じゃあ債券を買っただけランクアップするシステムもいいんじゃないかな。お金を払いたくなるプライオリティーをセットで売る。」
「国策事業にするのなら勲章を与えるのはどうかしら。どうせ私たちは下請けをすればいいのでしょう。」
ヴィンデは僕に同意を求めた。二人とも実現可能性の低い話を真面目にしているので不思議だったが、確かに実現すれば面白そうだ。




