第2回 reboot
無機質な暗闇の深層を抜け出し、薄い光がようやく差し始めた頃には僕はすっかりくたびれてしまった。極度な緊張状態の持続は相応のストレスがかかる。
「この先にコンビニがあったらちょっと寄って頂けませんか、」
気晴らしに冗談を言ったが、唯一の相棒はコンピューターのように黙々と指定されたプログラムを実行するだけで、言語とノイズの区別などまるで付いていないようだった。次回のアップデートでは是非とも「笑顔」と「好奇心」を実装してほしい。僕は彼女のリアクションを念入りに確かめると、わざとらしく顔を引き攣らせ「フッ」と苦笑いを浮かべて見せた。
それとも鬼が僕を「あたかも存在しないかのように振舞っている」のではなく、僕という生物が「 (物理的に) 存在しない」のではないか。これまでの経緯を振り返ればむしろそう考えたほうがずっと自然である。古来から閻魔大王の裁きを受けるのは肉体を離れた死者の霊であり、来世は魂の「過去のセーブデータ」にニューゲームを上書きすることで始まる。クリアボーナスで「強くてニューゲーム」が選択できることもあるが、それが適用された前例は僕が知る限りではイエス・キリストくらいなものだ。不安になって水面を覗き込むと、そこには薄っすらとだが見違えようのない顔がしっかりと映り込んでいた。魂と肉体が未だ同期していることに安堵し、それと同時にヘアスタイルが気になったので通学用のボストンバッグからワックスを取り出し毛先のアレンジを作り直した。
ぼんやりとした白い光は少しずつ黒い闇を呑み込み、やがて眼の前一杯に広がった。突き刺さるような眩しさにも慣れてくると、背の高い円錐形の針葉樹がぎっしりと川の両岸に並んでいるのがわかった。頭上には澄み切った青い空が水面をキラキラと輝かせ、冷たい風がさらさらと葉を揺らしていた。
この世界の生態系は地球のそれと酷似しているように思われたが、河岸を眺めても人はおろか鳥や獣の姿すら確認できず、しかし閻魔様がそんな寂しい場所を指定したのには何か理由があるのだろうと自分自身に言い聞かせた。あるいはこの先に竜宮城のようなパラダイスが待っているのではないかと予想したりもした。しかしそんな希望的観測とは裏腹のタイミングで、鬼は不意に櫂を漕ぐ手を止めた。
「ここで降りるんですか」
鬼に問いかけても返答はなかった。じっとしていても仕方ないので、長時間のクルーズで硬直した腰を無理矢理持ち上げ立とうとしたが、何時間も同じ姿勢を維持していた両足はすっかり痺れてしまっていた。膝を傾けたまま船縁を慎重の跨ぎ河原の砂利を踏む感触が踵に伝わると「生きている」実感がより一層のリアリティーを帯びた。絶望は雲散霧消し、僕は根拠のない希望を胸に川下へと足早に進んだ。
川はやがて森を抜け海へと辿り着いていた。沿岸に広がる砂浜では強風が吹き荒び、僕は寒さに身を屈めながら辺りをくまなく見渡した。そこには街も人やそれに類する知的生命体の姿もなかったが、よく目を凝らすと島があり、そして向こう岸には大きな船のような人工物が見えた。また、その影はいつかテレビのニュース映像で見た軍艦と似た、見覚えのあるものだった。