第1回 「船出」
昼とも夜ともわからない奇妙な空の下に、僕は寄る辺なく立ち尽くしていた。目の前には木造の大きな屋敷があり、屋内を覆う簾越しに人が集まって話しているのが見えた。僕はどうやってそこへ辿り着いたのだろうか。
「高瀬翼だな。」
声のほうを向くと、縁側に和服の男が立っていた。
「我は冥官である。ここは冥府である。」
冥官と名乗るその男は状況把握に十分とは言えない解説を事務的に終わらせると、音声合成ソフトのように抑揚のない口調で手元の書類を読み上げた。
「足下の生前の行いを野宰相が殊勝なことと思し召され、足下を鬼籍の外に留め置き15532つめの世界へ移すこととする。」
そこで僕は初めて自分が死んでいることを認識した。つまり僕は黄泉の国の住人であり、男は閻魔大王の家来といったところだろう。ディテールこそイメージしていたものと少し違なるが「死者に審判を下す」という大枠では子供の頃に聞いた昔話と同じだった。
死を自覚できなかったのは、その瞬間の記憶が全くなかったからである。明確に覚えているのは、下校途中のいつもの道でいつも通り気の利かない信号機をにらんでいたこと、小学校低学年位の男の子が車道に飛び出すのが見えたので、「戻れ、戻れ」と叫び彼を追いかけたことだけだ。体を強く打った痛みもなければ、走馬灯のような記憶のフィードバックも起こらなかった。
「わかりました。」
もし彼からいちいちレクチャーを受けたとしても理解が追い付かないだろうと思った僕は一切の「知る権利」を放棄した。
「ここからは其れが案内する。励め。」
冥官が庭の隅へ目配せした先に鬼が控えていた。実物を見るのは初めてだったが金髪の長い髪に白い肌をした2メートル位の大女で、まるで北欧出身の女子プロレスラーのようだった。
鬼は立ち上がると、こちらに顔を向けることもなく黙って歩き始めた。じっとしといても仕方ないので鬼の後ろに付いて門を2つ抜け、それから10分ほど歩いて河岸に辿り着いた。恐らくそこが三途の川だったのだろう。桟橋には時代劇で見たことのあるような木製ボートが止まっており、僕は鬼と共にそれに乗り込んだ。
鬼はゆっくりと櫂を漕ぎ三途の川を進んでいった。途中で何艘もの小舟とすれ違ったが、サイズや構造は様々ありカヌーのようなものから帆船のようなものも見られた(もっとも風は吹いておらず帆船の特性は生かされていなかった)。そして不思議なことに、どの舟にも人が乗っている様子が確認できなかった。それは僕が「見えなかった」だけなのか本当に誰も乗っていなかったのかはわからないが、その光景をなぜだか僕には不気味に感じ、俯いたまま船底の木目を数えていた。
また、漠々と続く川は僕に現実を受け入れさせるのに十分な時間を与えた。これから向かう先は一体どこなのだろうか、そこで僕は上手くやっていけるのだろうか、不安は募るばかりであった。この澱のように積もる暗い気分から逃れるために別のことへ思いを巡らせようと試みたが、感情は振子のように堂々巡りをしていた。
思い出すのは家族のことだった。僕の意思などお構いなしに自分の考えばかり押し付けてきた横暴な父も、そんな父に同調して「勉強しなさい」「ちゃんと将来のことを考えているの」など小言ばかりだった口煩い母も、顔を合わせれば些細なことに因縁を付け喧嘩ばかりしていた妹も、もはや再び会うことはないと思えばやはり寂しい。こんなことならもっと父や母を喜ばせてやればよかった。妹をもっと慈しんでやればよかった。思わず「ごめん」という言葉が口から出てきて、僕はなぜだか可笑しくなった。