鬼姫様と旦那様
東京は下町にある、古い長屋。その一角に住むのはとある夫婦。
妻の名は鬼塚初乃。世の妻女がそうであるように、彼女の朝は早い。日が昇る前に目を覚まし、まだ眠る旦那様を起こさないよう静かに寝床を抜け出す。手早く着替えを終え、台所へ行くとまずは米を研ぐ。初乃の朝は、こうして始まるのだ。
江戸から東京へと名が変わり、世を治めるのが徳川様から明治新政府へと移って、もう二十年近くが過ぎていた。数えで十八になる初乃は、以前の世がどんなものかは知らない。ただ、世が世ならばこんな狭い長屋ではなく、広い屋敷に暮らし、女中に身の回りの全てを任せる旗本のお姫様だった──らしい。
らしい、とは亡くなった父が酔うと必ず口にしていた昔話で、初乃の経験の上にある知識ではないからだ。
初乃よりも年長の旦那様は知っているだろう。徳川の世も、その頃の鬼塚家も。
だが、そんな昔話を聞いて感傷に浸る趣味はない。過去の栄華よりも、今。待っていても米は炊けない。だから、今日も初乃はかまどに向かうのだ。
さて、その旦那様。早起きの初乃に対して彼の朝は遅い。調子の良い時は米が炊き上がり、味噌汁ができ、膳が置かれてようやく大きなあくびをしながら起きる。
悪い時は、ひたすらに眠り続ける。放っておけば、昼まで眠り続けるだろう。旦那様は良いのだろうけれど、初乃はこれから支度をして外へ働きに出なければならないのだ。朝は、夫婦水入らずで過ごせる貴重な時間なのである。
「おはようございます、旦那様」
そう声を掛けると、聞こえるか聞こえないかの声で反応があった。それは、挨拶には程遠い鳴き声のようであったけれど。
多少の手応えを感じて待ってみたが、聞こえてきたのは朝の挨拶ではなく気持ち良さそうな寝息だった。
「……旦那様!」
今度は返事すらない。ただ、鼻をすんと鳴らし、起き上がることをやめたのだ。朝餉の香りの中に混じる嫌いなものを嗅ぎ取ったようだった。
「もう、知りません!」
そう言い捨てて膳の前につく。
旦那様は美味しいものに目がない。だから、質素な食事に不満があるのは分かっている。
家計は初乃の髪結いの働きで成り立っている。文字通り、髪結いの亭主なのだ。その初乃も、まだまだ見習い。そのため稼ぎは少ない。
食材は少しも無駄にはできない。
今日の味噌汁、具は大根葉。旦那様が鼻をすんと鳴らした理由はそこにあった。大根葉の味噌汁か、と。
朝は一日の始まりだから、できるだけ豪勢にしたい、というのが初乃の思いだった。だから、せめて澄まし汁ではなく味噌汁。それも、具の入ったもの。朝食が美味しければ、昼間に起こるかもしれない嫌なことも、多少は乗り越えられるものだ。
それは、家で初乃の帰りを待つ旦那様も変わらないだろうから。その代わり、昼夜は倹しい膳になるけれど。
それが、無言であってもあんな反応をされれば──
「ご不満でしたら、召し上がって頂かなくても結構です」
最後まで起き出してこなかった旦那様に対してそう言ってしまうのも仕方がない、と思うのだ。
おにぎりを包み、家を出た。言ってきます、も言わずに。旦那様は何か言いたげだったが、初乃の発するぴりぴりとした雰囲気がそれを許さなかったのだ。
表に出ると、学校へ行く前か子供たちが集まっていた。彼らは初乃を見るなり楽しげに囃し立てる。
「うわっ、鬼姫だ」
「鬼姫様、今日は機嫌悪いな」
鬼姫様、とはこの界隈での初乃のあだ名であった。
そんなことを言われても、初乃は顔色ひとつ変えず、子供たちをひと睨みし、勤め先へ向かうのだ。
睨まれた子供たちはというと、それまでの騒がしさが嘘のように黙り込み、初乃の後ろ姿を恐ろしげに見守るのだった。
鬼姫様、とは初乃の名字、鬼塚から一文字を取ったものだが、文字通り鬼のような姫様、という意味もかけてあった。
由来は、父の葬儀であったか──母の葬儀であったか。皆が涙を流す中、初乃だけは凛と背筋を伸ばし、涙どころか表情ひとつ変えなかった。
──親が亡くなったというのに。
──涙ひとつ見せやしない。
──世が世ならば旗本の姫様だったそうだが。
──そんな人の頭の中はよう分からん。
──鬼か。
──鬼の姫様か。
初めは初乃の顔色を伺って影でこそこそ、という程度であったが、初乃が何も言わないのをいいことに、表立って、ついには面と向かって呼ぶようになったのだった。
その、鬼姫様。今日は旦那様とのことで般若の形相であった。
髪結いの見習いとして師匠の得意先に付いて回るのだが、先々で怯えられた。大丈夫、なにかあったの、と訊ねられても初乃は何もないの一点張り。
呆れ果てた師匠は早めに昼にすると言い出し、初乃を蕎麦屋に引っ張っていったのだった。
「私はおむすびが」
「いいから。蕎麦食べるよ。あたしのおごりだ」
そして、有無を言わせず天ぷら蕎麦を二人前頼んでしまった。
師匠は、四十絡みのきっぷのいい女性だった。面倒見がよく、話し上手。頼れる姉のような雰囲気で、客からも髪を結いながら相談を持ちかけられることは多々あった。その度に、慰めたり発破をかけたりと相手に合わせた対応をする。
初乃の尊敬する女性だった。
「あんた、なんて顔してんだい」
それぞれ、天ぷら蕎麦を前にして
「……色々ありまして」
道具を持つ初乃に、師匠は呆れたようにため息をついた。
「色々って、金とか食事とかだろ」
「……」
「あたしだって、できればもうちょっと渡したいよ。でもね、まだあんた見習いだろ」
「それは承知しています」
そこは初乃に非がある。見習いなのだから、師匠の家で住み込み下働きをしなければならないところを、無理を言って通いにしてもらっている。
それもこれも、旦那様があるからどうしても住み込みはできないのだ。
「こうやってさ、たまには美味しいもの食べなよ」
そう言って、初乃の器に海老を一尾、入れてくれた。
美味しいものは、心を豊かにしてくれる。確かに、朝の膳に嫌いなものが並んでいたら気分は沈んでしまう。旦那様の気持ちも分からないではなかった。朝は、忙しくてそこまで考える余裕がなかったけれど。
そこまで思いやれる余裕を持たせてくれた天ぷら蕎麦の力は偉大だ。
だからといって、朝の件で初乃から詫びるのは引っかかる。全て悪いという訳ではないのだし。
せめて、夜は美味しいものを──旦那様の好むものを作ろうか。
仕事を終え、馴染みにしている八百屋の店先で財布を取り出す。これならば、多少は値の張るものも買えそうだ。もっとも、並べられているものは残り少なくなっていた。そして、どれもまだ家にあるものばかりなのだ。
そこへ、片隅に置かれた木箱が目に留まった。中には籾殻が入れられている。
「……」
籾殻の中に埋まっているのは、卵だ。
たまごふわふわ。初めて旦那様と顔を合わせた時に作ったものだ。
──これは、おまえが作ったのか。
初乃が作ったそれを食べた旦那様は、とても満足してくれた。そうして、両親を亡くし独りになった初乃の婿になると言ったのだ。
卵は高い。あの時だって、卵を貰ったから奮発して作ったのだ。旦那様が不機嫌になる度に卵を買っていては家計は火の車ではないか。
「…………」
だが、と初乃の中のもう一人の自分が反論する。たまには良いだろうに。美味しいものを食べれば気持ちは豊かになる。いつもではない、たまの贅沢。
明日から辛いのなら、我慢すれば済むことだ。師匠が天ぷら蕎麦をご馳走してくれたように、初乃も旦那様に美味しい手料理をご馳走したい。
意を決し、籾殻が入った木箱の中を探る。
幸いにも卵は最後のひとつだった。大切な卵が割れないよう、そっと両手で包むように受け取る。
帰って土鍋を出して──と手順を考えていると、まだ幼い少女が一生懸命手を伸ばして、籾殻の中を探っている。
「卵、買うの?」
訊ねると、少女は顔を上げて頷いた。
「もうすぐ、おとうとか、いもうとがうまれるの」
母に食べさせたいのだろう。母の食べたものは、産まれてくる子の栄養になるから。
最後の卵が、手の中でずっしりと重い。だが、初乃も旦那様に食べさせたい。少女の気持ちは分かるが──。
「おかあさんに、たべてもらいたいの」
ざるを手に、一生懸命の子供を見ると、このまま会計を済ませることができなかった。
「良かったら、どうぞ」
女の子は驚いたように目を瞬かせる。
卵を女の子に譲ってしまって、今日の晩御飯はどうすれば良いのだろう。結局、何も買わないまま店を離れ、しかし帰るでもなくぶらぶらと歩いた。
早く夕餉の支度をしなければならないのだが、何を作れば良いのか全く思い浮かばなかった。有り合わせで作って、旦那様にまた残念な顔をされたらどうしようか。きっと、また怒ってしまう。失礼なことを言ってしまう。
本当は、旦那様と仲良く過ごしたいのだ。それなのに、どうにも感情を抑えることができないのだ。
足はどんどん家から遠のき、土手に出ていた。帰りたくない訳ではない。ただ、どんな顔をすれば良いか分からないだけで。
足取りは次第に重くなり、とうとう止まってしまった。辺りは薄暗く、夜がもうすぐそこまで迫っている。
『初乃』
呼ばれて振り返ると、白い獣がいた。白い毛並みを持つ狐で、尻尾は見るからに柔らかそうで、しかもそれは三つ又に分かれている。狐は大の大人はある大きさであった。
そんな、見れば誰もが声を上げて驚く白狐を前にしても、初乃は驚くどころか更に項垂れた。
「……旦那様」
そして、狐に向かってそう呼びかけた。
この大きな白狐こそ、朝が弱く、美味しいものに目がない初乃の旦那様。
元を辿ればどこぞの戦場で鬼塚家を助けた白狐なのだそうで、以来鬼塚家が守り神として祀っている存在であった。
それが、初乃の卵料理を食べて婿入りをすることになったのだが──それはまた、別の話。今は婿として家を、そして何より初乃を守っているのだった。
この旦那様と暮らしているため、住み込みはできず、長屋でつましく暮らしているのだ。
「誰かに見られたらどうするんです」
用心深い旦那様がそんな失態を犯すとは思えなかったが、それでも念には念を入れて辺りを見る。幸い、人の姿はなかった。
『化けては鼻が効かぬ』
狐の鼻で初乃の匂いを辿ったのだろう。
『どうした。迷子にでもなったのかと案じたが』
いつもの時間に帰らない初乃を案じて、探してくれていたのだ。朝、あんなことを言ったというのに。申し訳なくなり、俯く。
「……たまごふわふわ」
『うん?』
「旦那様、お好きだったでしょう。たまごふわふわ。長く作っていないので、今日は作ろうと思ったんです」
『珍しい』
そう、珍しいのだ。稼ぎの少ない初乃には卵を買う余裕はなく、たまごふわふわを作ったのは一度きりであった。
「……それが、卵を譲ってしまったので、作れなくなりました」
『相手は困っていたのだろう?』
困っていた、といえば困っていた。
『困っている者を助ける初乃は、わしの自慢の嫁御だ』
「……今朝は、すみませんでした」
決してこちらからは謝るまいと思っていたのに、謝罪の言葉はするすると出てきた。
『なに、わしも悪かった。気にしてはおらんよ』
初乃が素直に謝ったからか、旦那様も素直に非を認める。守り神に謝らせる者などこれまで居なかっただろう。それを言えば、守り神を婿に迎える者も居なかっただろうけれど。
『嫌なことは言うてくれた方が良い。わしは、初乃ではないからな。言われねば分からん』
この明治の世に、妻を相手にそんなことを言うのは東京──いや、日本中で旦那様だけではないだろうか。
だから、ひとつ望んでいることを伝える。
「朝食は、一緒に食べたいのです」
『わしは朝が苦手だからな。……努力はしよう』
「……約束ですよ」
『ああ』
素直に頷いてくれることが嬉しくて、もうひとつ。
「……大根葉にも、嫌な顔をしないでください」
『……わしは、大根が苦手なのだ』
苦手でも何でも、食べてもらわなければ困る。
「だったら、もっと稼ぎの良い仕事につきましょうか」
もっと手早く稼げる仕事というと限られてくる。それを承知の上で、あえて提案してみた。旦那様は鼻先に皺を寄せた。
『……今のままで良い』
不意に、たっぷりとした旦那様の尾が一房、頬を撫でた。旦那様はこうして初乃の頬を撫でるのを好む。初乃は恥ずかしいから、いつも擽ったいと言って遠ざけているのだけれど。
「わたしも、旦那様の尻尾が擽ったいのは我慢しますから、旦那様も少しは我慢をして下さい」
すると、目を瞬かせて更に尾で頬を、首を撫でる。
「旦那様、もう、擽ったい──」
『わしに我慢をしろと言うたのは、初乃が初めてだ』
そう言って、旦那様は呵々と笑った。




