つながっていない電話
ある日曜日。
お金を使う必要もなく時間を潰せると言う消極的な理由から、なんとなく訪れたフリーマーケット。
黒い雨傘を日傘代わりにかぶったおじいさんから僕がその古めかしい黒電話を買ったのは、今どきスマホどころかケータイすら持っていないと笑われたことへのささやかな抵抗だっただろうか。
それとも、僕が生きたことも無い、昭和と言う時代への不条理な郷愁のせいだっただろうか。
とにかく僕はポケットからなけなしの百円玉をおじいさんに渡し、くたびれたデパートの紙袋と共に、それを施設の自分の部屋へと持ち帰った。
部屋に2つある2段ベッドの、右側の下の段。
プライバシーと言えば薄っぺらな布一枚で仕切られただけのその自分の空間で、僕はそれを取り出した。
サービスでもらった小さな布で、一生懸命黒い電話機を磨く。
薄暗いベッドの上で見ても、その艶やかな表面は美しく輝いていた。
――ジリリリン
不意に、どこにも繋がっていない電話機のベルが鳴る。
思わず僕は受話器を持ち上げ、耳に当てた。
「もしもし?」
『……だれ?』
「あ、……悟です。刈咲 悟。そちらこそ、どなたですか? ……それから……あの、どちらへおかけですか?」
『……私は糸魚 美羽。……ねぇ、ほんとにわからないわ。どうして繋がってるの? 電話は止められてるはずなのに……あぁ……まぁいいわ』
止められた電話と、どこにも繋がっていない電話での通話。
そんな不思議な現実を、電話の向こうで美羽と名乗った女性は、何でもない事のように受け入れた。
『そんな事より』
「はい」
『悟は何歳なの?』
「14です」
『あらずいぶん若いのね。ふぅん』
「美羽さんこそ何歳なんですか?」
『あら、女性に年齢を聞くなんて、ずいぶん失礼ね。まぁいいわ。二十歳よ、永遠の、ね』
僕は電話なんかほとんど使ったことは無い。ましてや年上の女性との会話など皆無だ。
それでも、いや、だからこそだろうか。
僕は軽やかに話す美羽さんとの会話がとても楽しかった。
美羽さんが、若いながらも銀座に店を持つ「一国一城の主」だと言う事、最近その店の経営が上手くいっていない事。
僕が、物心ついた時には親が居なかったこと、高校へ進学するのは経済的に難しそうな事。
お互いの愚痴を言い合い、全く別の世界の話を興味深く聞いた。
時間を忘れて話し込み、夕食に呼ばれるまで、辺りが暗くなっていることにも気づかないほど。
何度も同室の仲間から名前を呼ばれ、僕は受話器の口を当てる部分を手でふさいで「今いくよ!」と返事をした。
名残惜しかったけれど、施設ではルールを守ることが絶対だ。
「あの……もう、行かないと」
『あぁ、うん。楽しかったわ。また、かけてみてもいい?』
「もちろん! 美羽さんさえ良ければ是非! ……あ、つながれば。ですけど」
『そうね。じゃあ、また』
「はい、また」
受話器をおろし、電話を切る。
僕は彼女と電話をした後ってきっとこんな感じなんだろうなと、受話器を押し付けすぎてジンジンする耳をさすりながら、うきうきとした気持ちで夕食の用意を手伝いに向かった。
◇ ◇ ◇
驚いたことに、その「どこにも繋がっていない黒電話」には、その後も美羽さんから時々電話がかかってきた。
話すことは、何気ない日常の愚痴。
僕は同室の仲間に声が聞こえないように布団をかぶり、こそこそと美羽さんとの会話を楽しんだ。
『悟、もう電話できないかも』
美羽さんがそう切り出したのは、珍しく彼女が『ポールが成田で逮捕された』と言う自分自身の事ではないニュースを話題にした、すぐ後の事だった。
「え……? どうして……ですか?」
そうでなくても、最近美羽さんからの電話は回数が減っていた。
美羽さん曰く、『ダイヤルしても繋がらないことが増えた』と言う話で、この不思議な電話だから、いつ繋がらなくなっても仕方がないのかもと、2人で寂しがっていた矢先にこれだ。
電話が繋がらなくなっても、どうせ来年の春から働かなければならないのだから銀座で仕事を探しますと、彼女に宣言までしていた僕は、彼女に付きまとう邪魔な男だと思われたのではないかと、涙目で受話器を握りしめた。
『引っ越すの』
「どこにですか?」
『お店よ。寝に帰るだけの部屋を借りててもね、無駄だから』
「そんなに……厳しいんですか?」
『そうね、……でもまぁ悟に救われた命だもの、もう少し頑張ってみるわ』
あの日。
最初の電話がかかってきた日に、美羽さんは自殺を考えていた。
止まった電話、もう付き合っていた男の人からもかかってくることの無くなった黒電話の受話器をあげて、ダイヤルの回る音を聞いていると、僕に繋がったのだ。
それは奇跡だったのだろう。魔法だったのかもしれない。
親も無く、勉強をしたくても出来ず、将来なりたい職業にも「中卒」と言う制限のせいでなる事は出来ないだろう僕が、それでも彼女と楽しげに話をするのを聞いて、もう少し頑張ってみようと言う気持ちになったのだと言う。
電話機は持っていくけど、繋がらなくなってしまうかもしれない。
それでも、頑張るから。と、美羽さんは初めてちょっと泣き声をもらした。
『また……かけるね』
「……はい」
『それじゃ……』
「あ、美羽さん!」
『……なに?』
「さっき、『ポールが成田で逮捕された』って言いましたよね?」
『なぁに、そんなこと。そうよ。ポール・マッカートニーくらい14歳でも知ってるでしょ?』
「はい。知ってます。有名ですから」
『それだけ?』
「……はい。あの、必ず、必ずまた電話をください」
『……うん』
「僕が、美羽さんを助けますから」
『……もう助けてもらったわ。じゃあ、またね』
◇ ◇ ◇
次の日から、僕は図書館で色々なことを調べ始めた。
まずはポール・マッカートニー。
彼が成田空港で逮捕されたのは1980年1月16日。
僕は図書館の閲覧用PCのカレンダーを確認する。
そこに表示されているのは2000年1月16日と言う文字だった。
彼が逮捕されたのは、ちょうど今から20年前のことだ。
僕の「どこにも繋がっていない黒電話」は、20年前の美羽さんの電話機に繋がっていた。
突拍子も無い考えだったけど、美羽さんがわざわざそんな嘘をつくとは思えない。
これは現実だ。
そして、美羽さんの居るのが僕の時代へとつながる20年前の世界だとすれば、僕にだって彼女を救う手だてはある。
まず思いついたのはギャンブルだ。
宝くじか、競馬。
でも宝くじは当選番号が分かってもそれを選んで買う手だてがない。
競馬は、万馬券を当てても、かなりの元手がないと大金を得るのは難しい。
そこで僕が次に目を付けたのがある事件。
美羽さんに指示する内容を細かくメモに書きつけ、僕はもう一度美羽さんから電話が来るのをじりじりとした気持ちで待った。
◇ ◇ ◇
『悟?!』
「美羽さん!」
待ちに待った電話が鳴ったのは、4月の10日。
僕が義務教育最後の学年になり、美羽さんの時代であの事件が起こる、わずか2週間前の事だった。
『通じた! 通じたよ! 悟!』
「美羽さん、今生活は!?」
『やぁねぇ、久しぶりの電話でいきなりそんな話? ……相変わらず会話が下手ねぇ』
「……すみません」
『まぁ大丈夫よ、まだお店はやれてる』
「良かった。あの、僕、美羽さんを助ける方法を思いついたんです。今から言う事をメモしてください」
『なぁに? 何の話?』
「いいから、この方法が上手くいけば、美羽さんには……えっと、税金を払っても5千万円以上の現金が11月に手に入ることになります」
『何の冗談よ? 私、14歳の子供にお金の心配してもらうほど耄碌してないわよ』
「ごめんなさい。失礼なのは分かってます。でも、どうしても美羽さんの役に立ちたくて」
必死に説得する僕に、美羽さんは『分かったわよ』といつもの笑い声をくれ、そして話を聞いてくれた。
場所、時間、その後の行動。
僕は細かく説明する。
時々『まって』とペンを走らせながら、美羽さんと僕の作戦会議は1時間ほど続いた。
「いいですか、確認します」
『うん』
「4月25日、午後6時前、場所は銀座三丁目の昭和通り沿い、ガードレールの上に古新聞でも入っているような風呂敷包みがあります」
『どんなガラの風呂敷?』
「すみません、良くわかりません。とにかくそれには1千万円の札束が10個、新聞紙に包まれて入っています。拾ったら、すぐに警察に届けてください」
『1千万円の束が10個って……一億円?』
「拾得物ですから、美羽さんのものになるのに半年かかりますし、その時所得税も引かれますから、実際は約6千6百万円ほどの現金が美羽さんの物になるはずです」
『夢みたいな話ね。でもどうして悟がそんな話を知ってるのよ?』
「夢みたいな話……って言うなら、こっちだって負けてませんよ……」
僕たちはその後、僕が美羽さんから見て未来の人間であること、僕の生きる世界が2000年であることを笑いながら話し合う。
最後にはいつも通り、普段の生活の愚痴を言い合い、笑って「それじゃあ、また」と電話を切った。
◇ ◇ ◇
「……はい、大丈夫です。ええ、わざわざありがとうございました」
スマホの通話ボタンを押し、僕は施設の先生との通話を切った。
大学の学生寮で迎えた20歳の誕生日。
今年も「あしながおじさん」から何百万円かの寄付金が振り込まれたそうだ。
もちろんアルバイトと奨学金で今の僕は施設との関係は無いが、最初に振り込まれた5年前から、添えられたメッセージには『刈咲 悟様』と言う宛名が書かれている。
そのため、誕生日のこの連絡が、毎年恒例の物となっていた。
最初の寄付金のおかげで、僕は高校へ行くことが出来た。
今では大学へも通い、こうして自分のやりたい仕事のために勉強も出来ている。
スマホだって買ったし、あのころに比べたら僕の人生は順風満帆だ。
まぁそれでも、アルバイトと学業の両立にはそれなりに厳しいこともあった。
――ジリリリン
部屋の片隅、どこにも繋がっていない古い黒電話がベルを鳴らす。
僕は高鳴る胸を押さえて受話器を取った。
『……悟?』
懐かしい声。
「はい。美羽さん」
『……やっと……通じたわ』
「ええ、ところで、美羽さん。『あしながおじさん』って美羽さんでしょ?」
『やぁねぇ、25年ぶりの電話でいきなりそんな話? ……相変わらず会話が下手ねぇ』
「すみません」
『いいのよ、それに元々は悟が私にくれたお金だもの』
屈託なく美羽さんは笑う。
「美羽さん、今25年ぶりって言いましたよね」
『ええ』
「じゃあ今は何年ですか?」
『やぁねぇ、2005年に決まってるじゃない。そんなことも分からないほど耄碌してないわよ』
僕はその言葉に、思わず大声で歓声を上げた。
「やった!」
『……どうしたの?』
「どうしたって……僕、やっと美羽さんに追いついたんですよ。同じ時代で……今から会えませんか?」
――僕はその日、ついに初恋の人と出会うことになる。
20年の時を超えた奇跡で出会った運命の人に。
「はじめまして……って言うべきかな、糸魚 美羽よ」
指定されたカフェのオープンテラスで見かけた彼女は、想像していた以上に美しい女性だった。
照れくさそうに笑う彼女の声は、始めて聞いたあの時のままだ。
「もう、やぁねぇ、いまさらこんなおばさんに会ってどうするつもり?」
「そんなの、決まってますよ」
そう、だって僕はついに彼女に追いついたのだ。
『二十歳よ、永遠の、ね』
そう言っていた、彼女の歳に。
※ 作中、黒電話が100円で売っていましたが、実は結構高値で取引されるらしいです。