5日目‐1
――どうして庇ってしまったのだろう。
花畑の風は優しく、ネネの赤毛を緩やかに撫でていく。
日の神の見つめる下で、その涼しげな感触を味わいながら、ネネはぼんやりと考え事をしていた。隣ではクチナが眠っている。穏やかなその寝顔は美しく、彼女もまた蛇神の血を引くアヤカシであることを忘れてしまうくらいだった。
そんなクチナの手をそっと握りながら、ネネは答えの見つからない思考を続けていた。
――大蛇様に止められるまでと決めていたのに。
思い出すのは昨夜の事。術に囚われるクチナに力を与えてしまった事だ。
ネネが手を出さなければ、大蛇様の導きは決していただろう。クチナ一人であの術を破る事は出来なかったのだから。それを他ならぬ自分が覆してしまったことに、ネネはまだ驚いていた。
とっさの行動だった。
抱きしめれば術を破るだけの力を与えてしまうかもしれないとネネは気付いていなかった。だが、気付いていたとして、あの場で走り出さずに済んだだろうかとネネは考え、そのまま困惑してしまったのだった。
クチナが負ける。
イヌ達によって傷つけられてしまう。
そう思った途端、ネネは走り出していたのだ。その目的はクチナを守る事。庇う事。一人きりで傷つけられぬように、盾となる事だった。クチナが血を流すくらいならば、斬られたって構わない。そのくらい切羽詰まった衝動がネネを動かしてしまったのだ。
――でも、いったいどうして。
ネネは分からなかった。
大蛇様への信仰心はまだ持っている。赤の少女として蛇穴のためにこの身を捧げることは、尊い御役目なのだとまだ信じていた。それならば、クチナに味方することは間違っているはずなのだ。
頭では分かっている。分かっているはずなのに、思い返すのは夕焼けに照らされながら怯えた様子を見せるクチナの姿だった。口では恐ろしい事を言いながら、すぐに謝りネネに縋ってきたあの不安定な姿。必死に求められ、ネネが感じたのは同情だった。可哀そうだと言う思いがネネを支配していたのだ。
そして、たくさんのイヌたちを傷つける結果に結び付いたとしても、ネネは今もなお心のどこかでクチナが傷つかなくてよかったと思ってしまっている。
――なんてことなの!
クチナは大蛇様を裏切った。
裏切るだけの理由があったのかもしれない。
しかし、だからといってそれは、迎えの人間を傷つけ、蛇穴に住まう全ての人間たちを不安にさせてまでやらねばならぬ事なのだろうか。
こんな事をしていて許されるのだろうか。
――いいえ、許されるわけがない。
手を握りながら、ネネは改めて隣で眠るアヤカシの少女の存在に恐怖を覚えた。クチナ。この少女は魔性だ。これまでずっと当り前だと思っていたネネにとっての正常な世界を、いとも簡単にひっくり返してしまったのだから。
ネネは罪悪感に身を引き裂かれそうだった。
雌鶏様をはじめとした集落のものたち。イヌとしてクチナに斬られてしまった者たちのなかにも里の者はいた。彼らから受けた恩義を思い返せば、今の自分がとてつもなく醜く思えてしまい、ネネは怖かった。
それなのに、どうしてクチナと離れたいと思わないのだろう。
考えても分からず、ネネは混乱した。
「起きていたの、ネネ」
声を掛けられて、ネネははっとした。
気付けばクチナは目を覚まし、鳶色の眼でネネを見つめている。寝転がったままそっと手を伸ばすと、ネネの頬に軽く触れた。その感触を静かに受け入れながらも、ネネはもやもやとした感情のもとで唇を結んでいた。その表情の暗さに気付いたのだろう、クチナは窺うようにネネの目を覗きこんだ。
「どうしたの? また故郷が恋しくなった?」
囁くような声で問われ、ネネは首を振ってから答えた。
「……違うの。考えていたの」
ネネ自身も不思議なくらい涙ぐんだ声だった。
「昨夜の事。どうしてわたしはあなたを庇ったのだろうって。あのまま放っておけば、今頃きっと雌鶏様の所に帰れたはずなのに、って」
「そっか。それで、何か分かった?」
からかうようにクチナは問う。だが、ネネは怒りもせず素直に答えた。
「分かんない。結局、分かんなかった。赤の少女でいなきゃならないのに、どうしてこうなっちゃったのだろう」
「後悔してる?」
クチナに囁かれ、ネネはまたも首を振る。
「あまり、してないみたい」
問いだされるままに、ネネは率直に答えた。
罪悪感はある。葛藤に身を引き裂かれそうな思いだ。雌鳥様に合わせる顔がない。
けれどやはり、ネネは思ったのだ。
クチナが傷つかなくてよかった、と。
大蛇様が鬼灯の里でこの状況を聞いているのならば、ネネもまた裁かれることになるのだろう。それは恐ろしいことであるし、母親代わりの雌鶏様の事を想えば申し訳ない事でもあった。けれど今やその自覚も非常に薄く、素直な気持ちを隠すまでに至らなかった。
――素直な気持ち?
ふとネネは戸惑った。
これが、素直な気持ちなのだろうか。クチナと共に歩み続けるのが、今の自分の本当の希望なのだとしたら。そう思うとネネはやっぱり恐ろしかった。
クチナは無言で困惑し続けるネネを見つめ続けると、やがてふらりと起きあがって周囲を見渡した。行く手である北の方角を見据え、ネネの手を優しく撫でる。
「後悔してないならいいじゃない。もう少し寝てから行こう。花畑を抜けたら、次は狐火林だ。その先には狐尾っていう賑やかな町があって、町を抜けて更に北に行けば岩生の森林って場所に着く。そこが細石との国境なんだ」
そう言ってから、クチナはもう一度横になりネネに微笑んだ。
「町ではね、大蛇様よりも狐神様の方が人気なんだって。町の人間たちは金銭を稼いで生きているから、富や商売を司る狐神様が好まれるんだ。大蛇様もそちらの方面は狐神様にお任せしているらしくてね、狐神様の方も大蛇様を敬っていて、関係は良好なんだって」
そう言ってから、クチナは表情を尖らせた。
「だから、この先も気は抜けない。狐神様の御使いもわたし達を阻むだろうから」
「それでも、あなたは怯えないのね。諦めずに、八花を目指し続けるのでしょう?」
ネネが問うと、クチナはしっかりと頷いた。
「勿論。狐神様の御使いはキツという奴らだ。狐神様はキツを使って行く手を阻むだろうね。確かに今までのアヤカシやイヌなんかよりもずっと強敵かもしれないけれど、わたしは怯まない。どんな手を使ってでも、君を連れて八花に行く。八花に行って、普通に暮らしたいんだ」
強い言葉だった。
けれど、ネネはもう怯えなかった。
大蛇様への背徳は確かに怖いものであるけれど、クチナ自身に怯えることはもうないのかもしれない。この数日でネネにとってのクチナの存在は大きく変わってしまった。彼女は何も蛇穴を滅ぼしたいために逃げているのではない。多くの人間を困らせているし、傷つけてもいるが、彼女の行いはそのままネネの未来という可能性まで示唆していた。
未来。
普通に過ごせば一年後には殺されてしまう命。
しかし、もしもクチナについて行って、普通の少女として八花で暮らす事が出来たなら、数え十七、十八、それ以降までも生きていくことが出来ると言う事だ。
――生きていける……。
それはネネにとって恐ろしく魅力的な夢でもあった。
とうに諦めていたはずの未来への希望。そんな危ない夢を見て、期待していいのだろうかとネネは恐怖した。それでも、クチナと二人きりの今。何者にも襲われていないこの状況下では、その夢に浸ることも躊躇い無く出来てしまった。
「八花に行ったら……」
ネネはクチナに囁いた。
「わたしも普通の女の子になれるのかしら」
「なれるよ」
「じゃあ、八花に行ったら――」
クチナの手を握りしめて、ネネは問いかけたのだった。
「わたしはあなたと友達になれるの?」
「友達……」
クチナが大きく目を見開く。
ネネは訊ねつつもその視線を受け止めきれずに俯いた。長い牢での生活の中、普通を許されない生贄としての生活の中、ずっと欲していたものは何か。牢の外より度々聞こえてくる子供達の笑い声。泣いている声。喧嘩の声。遊ぶ声。それらはずっとネネの持っていないものだった。
そんな彼女の前に突如現れたクチナという少女。
脅し脅され共に歩んで五日。ネネはクチナとのやり取りの中で、理不尽さや苛立ちではない一つの楽しさを感じていた。誰かと一緒に過ごして、会話して、笑い合う事。それがあまりに心地よくて、かけがえのないものに感じられたのだ。
クチナと友達になれたら。クチナが友達だったら。
そのささやかな願いは確かに芽吹いていた。そしてついにその口から言葉として顔を覗かせることとなったのだ。
そんなネネの肩を、クチナはぎゅっと抱きしめた。
「ああ、なれる。勿論なれる。友達だって、仲間だって、そうだよ、何なら家族にだってなれるよ。だから、一緒に行こう。八花で一緒に暮らそうよ。華やかな花の神様を見ながらさ、一緒にもっともっと楽しいことを知っていこうよ」
遊びに誘うような無邪気な声。
そのクチナの表情は、ネネにとってこれまで感じたこともないくらい明るいものであり、そして、異様なほどわくわくした気持ちを与えてくれるものだった。
即答出来たらどんなにいいだろう。
後ろめたさなんてなければどんなに幸せだろう。
戸惑いながらもネネがクチナの手に触れたちょうどその時だった。クチナの表情が一変し、一瞬にして息を潜めた。その目は若干赤くなり、音もなく体勢を変えるとネネを引き寄せ始めた。その緊張感に、ネネは身を強張らせつつも、クチナに従って立ち上がる。ネネを抱きしめながら、クチナは一歩二歩と周囲を見ながら後退りする。懸命に、周囲の気配を窺っているらしい。
額には汗。その目は動揺を浮かべている。
「影鬼……」
呟くその言葉に、ようやくネネは敵を知った。
耳を澄ませば子供のはしゃぐような声が聞こえてくる。南の方角からネネとクチナのいる場所に向かって少しずつ近づいて来ている。やがて、開けた花畑にてその姿は視界にも映り込んだ。楽しそうに笑いながら影鬼達は指をさす。
「もう気付かれている!」
その姿を見るなり、クチナはネネを抱きかかえて走り出した。その足は北へと向かっている。イヌ達の時とは違って、影鬼と戦うつもりはさらさらないらしい。
「しっかり、しがみついていて!」
クチナに強く言われ、ネネはそれに従った。
風そのもののようにクチナは走る。後ろを見る暇もなく、ひたすら影鬼達から距離を取ろうとしていた。ネネはそんなクチナに身体を預けながら、周囲を包みこむ異様な緊張感に震えていた。どんなに風のようにクチナが走っても、逃げ切れているという安心感は訪れない。影鬼達の笑うような声はいつまでもついて来ているし、それだけではない殺気がだんだんと強まっている気がしたのだ。
「……クチナ」
「大丈夫。大丈夫だから」
焦りを隠せないままクチナは答える。
周囲の景色は目まぐるしく移り変わっていく。だが、そのうち、ネネは不思議なものを見るようになった。逃げるクチナを追うように、花畑の地面から土塊のようなものが現れ出したのだ。
――何かしら、あれ……。
泥で作った人形のようなもの。始めは土色をしていながらも、姿形と色を整えると面を被った人間のような姿になって走り出す。その速さはクチナと同じか、それ以上のものだった。数体に追いつかれそうになって、クチナは慌てて身を翻した。ネネを片手で支えつつ、妖刀を抜きだし、迫りくる泥人形達をどうにか迎え討ったのだ。
クチナに斬られると呆気なく泥人形は崩れ去る。
その隙に、クチナはネネを背負って先へと逃げた。
「……あれは何」
恐怖を堪え切れずに訊ねれば、クチナはただ前だけを見つめつつも答えてくれた。
「あれがいつか言った面倒事の正体さ。泥で出来ているけれど、大蛇様の使いの心が宿されている。奴らはオニ。本体はきっとまだ遠くにいるんだと思う。でも、泥人形でも捕まったらおしまいだ。奴らは人間とは違うから」
「鬼灯の人たちなの?」
「一応、そうだね。泥人形に憑依しているだけだから、本体よりも力は少し弱いはず……けれど」
そう言いかけた時、クチナの行く手が突如阻まれる。阻んだのはオニだという者の一人。金色に輝く面を被った者だった。黒い霧のような刀がクチナを襲おうとする。その一撃をどうにか避け、クチナは再び逃げ出した。
「あの人は……」
振り返ることもせず、クチナは嘆くように言った。
「あの人だけは駄目。正面から戦っても勝てない」
「クチナ?」
「大丈夫。どうにかなる。あと少しなんだ。あと少しで日が暮れるから……」
必死に走るクチナの背中で、ネネは不安を抱え続けた。
振り返れば、追手の姿が確認出来る。もはや土塊などではなく、様々な色の面を被った女のようだった。その中で、クチナが恐れた黄金の面の者は、どういうわけだか姿が見えない。
と、その時、クチナが再び軌道を変えた。
ネネは一瞬だけその姿を捉えた。いつの間にかその者はクチナの行く手に居た。先回りをしていたのだ。もしかしたら、あの者だけは何処からでもクチナを阻むことが出来るのかもしれない。
「捕まるものか……」
クチナは言った。
あんなに広かった花畑も終わり、狐火林へと踏み込んでいく。林を抜ければ町であるが、短時間で抜けられそうな広さでもなさそうだ。
この上、イヌ達まで現れたらどうなるのだろう。
ネネは恐れながらクチナに全てを託していた。クチナに力を分け与えられるのなら、幾らでも与えたい。そんな願いに答えるように、クチナは更に力強く走り出す。
「もうすぐだ。もうすぐ日が暮れる」
夕焼け色に染まる空の色が、林の中をも赤く染める。クチナはその色に少しだけ気を緩めた。その緩みが、思わぬ油断となってしまった。
「クチナ、前!」
ネネが叫ぶとほぼ同時に、クチナは身を翻した。
急にまた目の前にあの黄金の面のオニが現れたのだ。
黒い霧の刀を避けようとしたのだが、少しだけ遅かった。クチナの肩は切り裂かれ、怯んだ隙に足を払われる。ネネと共に放り出され、地面に落ちるその間に、黄金の面のオニは霧の妖刀をクチナの身体に突きつけた。
「勝負あったな」
冷たい女の声で黄金の面のオニは言った。
「散々、人間共を虐げてきたらしいな。あまりの被害に都さえも混乱しているそうだぞ。当分、イヌ共は借りられない。大蛇様はかんかんだ」
語りかけるオニの目は、鬼火のように光っている。負傷して満足に動けないクチナを見下ろすその姿は、ネネから見てこれまで襲ってきた言葉の通じないどのアヤカシよりも恐ろしいものに見えた。
「鬼ごっこは此処までだ。共に帰ろうじゃないか、クチナ」
淡々としたその声に、クチナが震えている。
地面に放り出されたネネは、それを見るなり這いつくばって、動けないクチナを背後から抱きしめ、黄金の面のオニを見上げた。
「やめて。クチナに乱暴しないで」
必死に抱きしめながらネネがそう言うと、そのオニは不思議そうに首を傾げた。
「もうネネ様の信頼を得たのか。さすがは黒の少女だ」
「お願い、やめて!」
相手は切れ味のよさそうな刀を構える鬼灯の女。それでも、刀で斬られる痛みなど知らないネネは、クチナを捕えようとするオニに向かって飛び付いた。思わぬネネの行動に、オニが怯む。やっと追いついた他のオニ達も、同様に戸惑っているようだった。
やがて、黄金の面のオニがようやく冷静さを取り戻してネネを捕まえたちょうどその時、静かに赤い日の光が沈んでいったのだった。
その空の色に、黄金の面のオニがはっとした。
「時間切れだよ、筆頭」
痛みをこらえつつ、クチナは煽るように言う。
「大蛇様によろしくね」
生意気なその態度に何かを言う前に、全てのオニたちは元の土塊へと戻ってしまった。




