4日目‐2
ネネが再び目を覚ましてみれば、すでに山を降りたところだった。
泣女山は背後に聳え、クチナはただ一心に森林を突き進んでいる。その果ては常に見えていた。木々の境の向こうでは平原が広がり、美しい花々が一面に咲いている様子が月明かりに照らされて浮かび上がるように見えたのだ。
ネネはクチナの背でその光景を茫然と見つめていた。だが、しばらくして囁くような奇妙な声が聞こえてきたのに気付いてはっとした。
「また来た。アヤカシだ」
クチナが呟く。
「アヤカシ……」
ネネもまた繰り返した。
それを聞いて、クチナがはっとネネを見つめた。
「やあ、起きたんだね。これで五匹目だよ。水辺を離れたらすぐこれだ。皆、大蛇様とか関係なく君を欲しがっている。どいつもこいつも弱っちいからまだいいけれど、正直うんざりするね」
「戦うの?」
ネネが不安げに訊ねてみれば、クチナは苦笑を浮かべた。
「面倒だ。このまま逃げてみよう」
そう言ってクチナが走り出すと、後ろから人影が追いかけてくるのが見えた。人語で何かを囁いているようだが、その言葉はよく聞きとれない。だが、あれもアヤカシであり、ネネを狙っているのだとしたら、目的は一つ。
――内臓を狙っている。
そう言われたのを思い出して、ネネはぞっとした。捕まれば酷い死に方をするのだろうと思うと、恐ろしくて仕方なかった。
喰い殺されるという恐怖は想像でしか知らない。ネネは雌鶏様の下で傷一つ負わぬように育てられて来たのだ。身体を食いちぎられることは勿論、切り傷一つの痛みだって本当はよく知らないのだ。それでも、牢の中で転んだことはあるし、ぶつけたことくらいならある。擦り傷で血を流して大人たちにそれとなく叱られた事だってあった。だが、叱られた事よりも、痛みの方が強かったのをネネは忘れてはいない。
あれよりもずっとずっと痛くて苦しい思いをすることになるのだ。
「全く、これだから下位のアヤカシは困るんだ」
逃げながらクチナは悪態を吐いた。
「大蛇様をちっとも恐れやしないで君を欲しがる。本当に面倒な奴らだ」
人影はまだ追ってきている。ゆらゆらとしたその動きでどうやってクチナについて来ているのかは見ているだけでは分からない。だが、誰かが見たと噂する亡霊のように、その影はついてきていた。
その全貌が、月の神によって暴かれる。
――女の人みたい……。
のっぺりとした白い姿。黒髪を伸ばし、水に濡れた女のようなその姿。目元は隠れ、真っ赤な口元だけが見えている。人語のような言葉をぶつぶつと呟きながら、逃げるクチナをしつこく追っている。
下位のアヤカシだというその生き物。元は人間だったのだろうか。ネネがそう思ってしまうくらい、人間に非常に近い姿をしている。散々逃げ続け、見えているけれどまだまだ遠い花畑を目指していたクチナだが、とうとう痺れを切らしてその足を止めた。
「もう我慢ならない」
くるりと振り返ると、その手はもう妖刀へと伸びていた。片手でネネを支えたまま、クチナは易々と重たそうな妖刀をもう片手で抜いて構える。そして、女の亡霊のようなアヤカシが接近するのを待たずに、飛び掛かっていった。
勇猛果敢なクチナの行動に、ネネは緊張を高めた。
必死に背中にしがみ付いて、恐ろしいアヤカシとの接近に覚悟を決める。だが、ネネがその恐怖に浸りきる前に、決着はついたのだった。刃が追手の身体に触れると、あっという間に生温かい水が弾け飛んだ。直後響くのは女の悲鳴。泣き叫ぶようなその不気味な声にも、ネネは耐えしのびながらクチナに身を寄せた。
「しつこいんだよ、泣女」
だが、クチナはそんな吐き捨てるように言うと、さっと妖刀の水気を払って鞘に収めたのだった。勝ったのだ。斬られたアヤカシは水となって消えてしまった。地面に沁み込んでいくその水気を眺めながら、ネネはそっとクチナを窺った。
「泣女って……」
「今の奴。この山によくいるんだって。かつて此処で殺された女たちの亡霊なのかアヤカシなのかも分からないらしいけれど、過去の亡霊なら、竜神様のお力で清められているはずだから、人を襲うわけもない。だからきっと下位のアヤカシなんだろうね」
ネネを背負いなおしながら、クチナは言う。
「五匹襲ってきた内の三匹が泣女だった。どいつもこいつもびっくりするくらい弱い。弱いからこそ、何も分からず君の香りに誘われて、立ち向かってしまうんだろうね」
そして、鳶色の落ち着いた眼差しで、地面に吸い込まれていった水飛沫の後を見つめた。
「弱い奴を斬ってしまうのはやっぱり可哀そうだと思ってしまう。でも、斬らないと君を奪われてしまうかもしれない。せめて話が通じればいいのに、それが出来るだけわたしに妖力はない。……それが何だか辛いような気もするんだ」
「クチナ」
悲しげな言葉。その表情からは感情が読みとりづらい。だが、きっとクチナは落ち込んでいるのだろう。そう感じたネネは、その名を呼んだ。呼ばずにはいられなかった。クチナの反応は薄いまま。それでもネネはクチナの背にくっついて、その金木犀のような香りに包まれながら言ったのだった。
「……守ってくれて有難う」
ネネは自覚していた。
自分の中で何かが変化している気がした。
これまで、クチナという少女はネネの中では罪人でしかなかった。身勝手な理由でネネを連れ出し、他人の気持ちも考えてはくれない。そんなクチナが憎らしくて、誰かに早く止められて、痛い目にでも遭えばいいのにとさえ思っていた。
しかし、昨日と今日、ネネはクチナの顔を更に知ってしまった。大蛇様への敬愛を示しつつも疑問を抱えて思い悩む姿。感情的になりながらもそれを自分で恐れる姿。そして、力泣き者へ哀れみを向ける姿。
傲慢な人。その印象はネネの中でも覆りにくいだろう。しかし、傲慢であるにも関わらず、ネネは段々とクチナに親しみのようなものを感じ始めていたのだ。
連れ去られて四日目。
たった数日でクチナが見せてくれたものだけでも、ネネの心は散々踊らされたものだった。大蛇様への信仰心。赤の少女としての責任感。雌鶏様への後ろめたさ。それらを全て忘れてしまえば、きっと外の世界の感動にひたすら打ちひしがれていただろう。
そして、その感動はネネの中で更なる好奇心を呼び醒ます。
もっと外を知ってみたいという純粋な好奇心を。
――いいえ、駄目よ。いけない。
ネネは慌てて否定した。浮かんできた願望を水底に沈めるために、必死に心を落ち着かせる。恐ろしいとネネは感じた。これまで抱いたことのない感覚に戸惑った。
――わたしは赤の少女なのに。
心の中で嘆きながら、ネネは改めてクチナという存在に恐怖を抱いた。この人がいなければ、この人が来なければ、ネネはこんな好奇心に混乱する事もなかっただろう。
そもそも、こんな事態も起こらなかった。雌鶏様との残り少ない時間を大切に出来たはずだったのだ。一年後、尊い御役目に身を捧げることが、恐怖だなんて思わずにいられたはずだったのだ。
――違う。怖くなんかない。
「ネネ?」
そっとクチナに窺われ、ネネは視線を逸らした。
無言のままにクチナの背を無理矢理降りると、自らの足で地面に立った。これ以上、クチナに密着しているのがそれだけ怖く感じたのだ。しまいには、赤の少女であるという自覚まで揺るがされそうで、恐ろしかったのだ。
クチナはそんなネネを窺いつつも、さり気なく手は繋いだ。背負われたくないという意志は守りつつも、そこだけは譲れなかったらしい。
目を合わそうとしない理由は訊ねない。訊ねないまま、クチナはネネの手を引っ張った。
「行こう。夜が明けてしまう」
引っ張られながら、ネネは大人しく従った。
――大蛇様に止められるまでの間よ。
言い訳がましくネネは心の中で呟いた。
大蛇様は今も見ているだろうか。ネネはふと想いを寄せた。
女神である大蛇様に見渡せぬ場所はないと言われている。ただし自ら動く事は出来ないため、使いを送るしかないのだそう。その使いはまだクチナに追いついていない。影鬼たちは何処を捜しているのだろう。ネネが見たのは昨日の事。今日は結局、イヌ達しか見なかった。
――大蛇様はどうやって御止になるのかしら。
イヌ達はクチナに敵わなかった。無傷の者が複数いるだろうけれど、また立ち向かってくるかは分からない。人間の尊厳をかけてでも立ち向かってくるかもしれないけれど、ネネはあまり期待していなかった。
では、人間以外ならどうだろう。
影鬼達がネネたちを見つけたら、何が起こってしまうのだろう。
クチナは面倒事だと言っていた。大蛇様の使いを脅さなくてはとも言っていた。影鬼だけではきっとクチナには敵わない。だから、クチナに敵うような者たちを呼びだしてくるのだろうか。
――鬼灯には、鬼灯。
ネネの勘が正しかったとして、同じ鬼灯の者を相手にすればクチナは何処まで戦えるのだろうか。人間や他のアヤカシに対して強く出ているのは、クチナが女神の血を引いているからに過ぎないとネネは思っていた。では、同じ血を継ぐ者が相手ならば、クチナはどのくらい苦戦するのか。
しばし考え、ネネは戸惑った。
自分が何を望んでいるのか、分からなくなってしまっていたのだ。
望むのはクチナの敗北なのか、勝利なのか。
「ネネ」
突如、名を呼ばれ、ネネはハッと我に返った。
引っ張られるままに歩き続けて暫く。いつの間にか、あんなに遠いと思っていた距離も歩んでしまっていたらしい。
目の前に広がるのは月の神の照らす平原。
何処を見渡しても、色とりどりの花が咲き乱れる花畑であった。その香りと、光景に、ネネは茫然とした。崖の上より望んだ光景と、こうして間近に寄って目の当たりにする光景とでは、受け取る感動も全く違う。それは、泣女川や乙女湖とも違う種類の美しさであった。
「此処からは身を隠す場所もないね。でもまあ、なんとかなるかな」
そう言ってクチナが先に足を踏み入れる。
その手に誘われてネネもまた幻想的な大地を踏みしめた。ふわりと夜風が舞い、ネネとクチナの二人を迎え入れる。いつか夢で見たようなその景色があまりに魅惑的で、ネネは夢見心地のまま歩むしかなかった。
だが、そんな幻惑の時間は突如終わった。
ネネを引っ張って先を歩んでいたクチナが、急に立ち止まり、目を真っ赤にさせて後方を睨み始めたからだ。
「……クチナ?」
「また来た。アヤカシじゃない」
妖刀をすぐに抜いて、クチナはネネを引っ張った。
「後ろに」
素っ気ないその言葉に従いつつ、ネネはクチナの睨む方向を見つめた。
アヤカシではないとクチナは言った。そう、アヤカシではなかった。月明かりの似合うそれは、狼の面をつけたイヌ達。まだ一度も斬られていない者たちが、性懲りもなくまた現れたのだ。
「君たちもめげないね。そんなに斬られたいの?」
クチナがからかうように問うと、イヌの一人が答える。
「我らは役目を果たすまで。それに、大蛇様は御冠です。とうとう、あなたを多少傷つけたとしても仕方ないと雌鶏様にお告げになったそうですよ」
その言葉にネネは寒気を感じた。
とうとうこの時が来た。女神に言われたのならば、イヌ達はもはや手加減もしないだろう。クチナがあれだけ暴れまわれたのだって、ひょっとしたら鬼灯であるからではなく、イヌ達が遠慮していたせいだったかもしれないのだ。
それに、ネネは単純に怖かった。相手は蛇穴をずっと守ってきた偉大な女神なのだ。そんな相手を怒らせるなんて、恐れない方がおかしいだろう。だが、クチナは全く恐れていないようだった。
「へえ。あの大蛇様がとうとう怒ったんだ」
面白そうにイヌ達を見つめると、けらけら笑いながら妖刀を振るった。
「そりゃあ怖いな。ますます帰りたくないよ」
そう言ったかと思えば、クチナはネネの手をさっと離し、夜風を斬り捨てるようにイヌ達へと迫っていった。獲物を捕える蛇のように素早い身のこなしで手当たり次第にイヌ達を襲い始める。二、三回防げれば大したもの。結局時間ももたず、あっさりと戦えるイヌの数は減らされる。
だが、イヌ達はイヌ達であまり焦ってはいないようだった。
ネネはその場に留まり、静かに戦いを見守った。見守りながら、漠然と考え続けた。自分はどちらを応援しているのだろう。どちらの勝利を信じているのだろう。一見すれば、クチナがイヌを殲滅するだけの戦いであったものの、そんなに単純なものではない。この光景にネネは不安を覚えていた。この不安は、何に対する不安なのか。
「……クチナ」
その名を呟きながら、ネネは固唾を飲んだ。
クチナは戦いながら敵の数を数えていた。斬れば減るのは当り前。だが、減ったところで楽になるわけでもない。斬られずに残るということはそれだけ力がある証拠。残りのイヌ達の相手に集中すべく、クチナは一旦彼らから距離を取ろうとした。
クチナが飛び退いた先の、その足元。
ネネの目は歪なものを捉えていた。
「クチナ!」
呼んだ時には既に、クチナの足はそれに触れていた。
地面にいつの間にか描かれた丸い印。その中に片足を突っ込んだクチナが、小さく悲鳴を上げる。直後、印より伸びたのは無数の糸。墨で描かれた蚯蚓のような糸が伸び、クチナの動きを止めたのだ。
「しまった――」
暴れるクチナをイヌ達が取り囲む。
その手に握られているのは短刀。動きを止めるだけではこの戦いは終わらないらしい。彼らを睨みながら、クチナは妖刀を構えようとした。しかし、墨の蚯蚓はそれすらも許さず、強い力でクチナを縛りつけた。
「これでもう動けますまい」
イヌの一人がクチナに言った。
「ですが、雌鶏様に言いつけられているのです。『くれぐれも気を抜くな』と。多少傷つけたところで、黒の少女は頑丈な御方。手足を引き千切らぬ限り、首を取らぬ限り、問題ないとの事です。誠に無礼ながら、あなたには覚悟を決めて貰いましょう」
その言葉を合図にイヌ達が一斉に短刀を構えだす。動けぬクチナと自由なイヌ達。いくら鬼灯相手と言え、抵抗する術すら糸で封じられているのならば、人間――それもイヌが苦戦するはずもないだろう。
――クチナが負けてしまう。
そう思った途端、ネネは走り出していた。
「駄目。お願い、やめて!」
――クチナが傷つけられてしまう。
異様なほど恐怖に思え、ネネは血生臭い戦場の真ん中――怪しげな印と糸に囚われるクチナの元へと飛び込んでしまった。クチナに抱きついて、ネネはイヌ達を睨みつける。気味の悪い墨の蚯蚓が新たに現れたネネに触れようとしたものの、戸惑っているようだ。
「ネネ様!」
動ける者も動けぬ者も、イヌ達は皆、ネネの行動に驚きを隠せない様子だった。口々にネネの名を呟き、やがて、一人がようやくネネに話しかけた。
「どういうおつもりですか、ネネ様。その者は罪人。身分高き御方とはいえ、事もあろうに大蛇様へ反抗心を示す御方」
冷静に叱られながらも、ネネは首を横に振った。
感情をうまく言葉に出来なかった。ただクチナが傷つけられると思った瞬間、身体が勝手に動いていた。その理由など、ネネにはまだ分からない。ただ、これだけはネネも気付いていた。自分はイヌ達の勝利ではなく、クチナの勝利を願っていたのだと。
「悪いね、人間たち」
クチナがぼそりと言った時、ネネはふと自分の身体から何かが吸い取られていくのを感じた。これがクチナの言っていた気というものなのだろう。微かに立ちくらみを覚えたかと思えば、ネネの手よりクチナはするりと抜けだした。彼女の身体を縛っていた墨の蚯蚓が切り捨てられる。
「せっかくの術も台無しだ」
笑いながらクチナは言って、イヌ達へと迫っていった。
自分の気がクチナに怪しげな術を破るほどの力を与えた。その感触をぼんやりと覚えながら、ネネは戦いを見守った。
勝敗はあっという間に決まってしまった。