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4日目‐1

 目が覚めて見れば、やはり今日も真っ昼間であった。

 ネネは目を擦りながらふと周囲を見渡した。突如、目が覚めたのは起こす者がいたからである。クチナだろうと思いこんでそれに応じたネネは、視界がはっきりとした瞬間、驚いて飛び起きてしまった。


 狼の面。

 見知らぬ者達が数名。ネネを取り囲んでいた。

 知っている者はいないかもしれないが、彼らが何者なのか一瞬で分かった。


 ――イヌの御方々……。


「ネネ様、ご無事で何よりです」


 声を押し殺してイヌの一人が言った。


「さあ、我々と共に……」


 女であるらしい。そっとネネの身体を支え、音もなく立ち上がらせる。ネネは静かに従いながら、周囲をもう一度確認した。クチナはいない。何処へ行ったのだろう。間違いなく眠る前に居た湖であるけれど、周囲に居るのはイヌ達ばかりだ。

 しかし、ネネは怖かった。

 何処へ行っていたとしても、今にクチナは戻って来るだろう。そうなれば、思い出すのはあの光景。前に迎えに来たイヌ達の全滅と言う絶望的な光景だ。


 ――ああ、大蛇様。


 ネネは願った。


 ――どうかお守りください。


 沈黙と共にイヌ達に従うこと暫く。湖を離れ、川沿いを下ろうとしていたイヌ達だったが、次第にその軌道はずれ始めていった。

 荒々しい気配。その緊張感は共に進むネネにも伝わった。


「気付かれたようです」


 イヌの一人――こちらは青年――が、慌ただしく報告する。何が追ってきているのかなんて、考えなくても分かった。イヌの一人に背負われて、ネネは必死に縋りついた。川沿いでは争いは起こらない。竜神様の逆鱗に触れるから、諍いを起こしてはいけないのだ。そう言ったのは他ならぬクチナだ。ここ数日、その信仰を利用して進んできたのだ。

 しかし、当のクチナはあっという間に追いついた。

 妖刀を隠すことなく構え、血を流すことなく逃れようとするイヌたちの行く手を阻み、その進行方向をどんどんずらし続けたのだ。気付けば、イヌ達は川沿いからも離れ、竜神様の領域から大きくずれた場所へと迷い込んでしまっていた。

 背負うイヌにしがみ付き、ネネは必死に願い続けた。


 ――どうか、大蛇様……。


「逃がさない」


 しかし、願いは届かなかった。

 ネネを背負うイヌの足が斬られ、放り出されてしまったのだ。慌てて別のイヌがネネを受け止めに行こうとしたが、その前に、ネネの身体は別の者に受け止められた。クチナであった。逃げようとするネネを力で抑え、クチナは妖刀をイヌたちに向けた。


「残念だったね。わたしを誘き出した囮の人たちなら、もう全部斬っちゃったよ」


 嘲るように笑うクチナに、イヌたちはうろたえつつも短刀を構え始めた。


「水辺に留まれば斬られることもなかったのに。そんなにわたしが怖かった?」


 挑発するように妖刀を揺らし、クチナは続ける。


「でも、わたしごと捕まえたら、君たちは皆、蛇穴の英雄だろうね。もしかしたら大蛇様にも子々孫々まで特別視されるかもしれない」


 舐めたその態度にイヌ達が怒りを覚えている。その一方で、クチナを確かに恐れているようだとネネにも分かった。非常に戸惑っているといってもいい。川も湖も遠い今、躊躇いなく飛び掛かる事は出来るはずなのに、どう動けばいいかも迷っているようだったのだ。

 それを分かっているからなのか、クチナは余裕さを失わなかった。


「斬られたい奴から来いよ」


 吐き捨てるようにクチナが言った時、ようやく数名が走り出した。それにつられて他の者たちも動きだす。翻弄するようにクチナを取り囲み、一斉に襲いだした。その攻撃的な姿にネネは怯えた。そんなネネをクチナは抱き寄せ、全ての恐怖から守るようにしっかりと支えてから妖刀を一気に振るった。その一撃は絶大なものだった。


 出来るだけ命を奪わぬようにとクチナは戦う。だがそれはとても残酷な事なのかもしれないとネネは震えながら感じていた。さっきまで聞こえていたのは怒声。そして今聞こえてくるのは悲鳴と呻き声。鼻をつくような血の匂いで山の大地は穢されている。もしも水辺だったなら、間違いなく竜神様は怒り、川の災害が起こっていただろう。そのくらいの穢れがクチナとネネの周りを取り囲んでいた。


「まだいるね」


 クチナは鋭い声で言い、周囲を睨みつけた。


「おいでよ」


 しかし、木陰に潜んでいると思われる他のイヌ達は、誰もつられたりしなかった。皆、一瞬で斬られた仲間を見ているのだろう。ネネは静かに納得した。イヌではクチナを止められない。どんなに勇猛で、どんなに身体能力が高くても、人間では敵わない。アヤカシにはアヤカシ。クチナを止められるのは、もはや大蛇様の仕向けた迎えだけだろう。

 十分、ネネは思い知った。

 だから、もうイヌの犠牲は見たくなかった。


「来ないの? じゃあ、君たちの御頭に伝えてくれるかな」


 クチナは妖刀を構えたまま言った。


「この子は帰さない。わたしも帰らない。今からゆっくり大蛇様に頼らない暮らし方を考えておきなよ。蛇穴が女神と共についえてしまわぬように、蛇穴がこれ以上女神の御心を蝕むことがないように、独立の仕方でも考えたらどうだい?」


 それはネネにとって、何処までも傲慢な言葉だった。

 傲慢でいて、何よりも素直な言葉だった。

 言いたい事を告げてしまうとクチナはあっという間にその場を去った。彼女に抱かれるままにネネは、倒れ伏すイヌ達とも、木々の影より此方を見つめ続けるイヌ達とも、別れるしかなかった。


 風のように走り続け、やがて泣女山の山頂付近の崖まで辿り着いてしまうと、クチナはようやく立ち止まり、ネネを地面に下ろして息を吐いた。断崖の向こうでは日の神が世界を去ろうとしている。ならばあちらは西だろうとネネは静かに考えた。


「随分と素直について行ったね」


 突如そう言われ、ネネはぎくりとした。

 冷ややかな眼差し。妖刀は鞘におさめられているとはいえ、いつまた抜かれるか分かったものではない。答えに答えられずに俯くネネを、クチナは睨みつける。


「痛いのが嫌なら従って。わたし、そう言ったよね」


 頭上より刺さるように向けられているその赤い視線を、ネネは受け切れなかった。だが、そんなネネの顎をクチナは掴む。無理矢理顔を合わせ、クチナはその瞳を覗きこむ。


「もしまた、大蛇様の迎えについて行ったら、今度こそ君の足を引き千切る。君の尊厳もそこまでだ。わたしなしでは生きていけない身体にしてやるよ」

「……やめて。そんな事、言わないで」


 ネネは涙を浮かべて懇願した。


「クチナ……!」


 恐怖のあまり、ネネはその名をやっと口にした。

 怒りに満ちたクチナの目はそれだけ怖かった。強いアヤカシであるためなのか、これが黒の少女と呼ばれる者の本性なのか。荒々しいその姿にネネは怯えた。そして、悲しかった。脅されれば脅されるほど、今の自分が不幸な気がして悔しかったのだ。


 しかし、恐怖はそこまでだった。名前を呼ばれたクチナが涙を浮かべるネネの姿を見つめ、そのまま固まってしまったのだ。真っ赤だった目の色も段々と変わっていく。血のような色も、あっという間に人間のような鳶色へと戻っていった。やがて、完全に色が戻ると、クチナははっと我に返り、慌ててネネを抱きしめてきた。


「……御免、ネネ」


 必死な様子でクチナは言った。


「酷い事を言ったね。そんな乱暴な事しないよ。しないって約束する」


 一体どうしたと言うのだろう。ネネはきょとんとしたままクチナに抱きしめられ、やがて、その背中にそっと手を触れた。震えているのはクチナの方だった。先程までの荒々しさはもう何処にもない。代わりにクチナに抱擁されながら金木犀のような香りに包まれて、次第に力が抜けていった。


「だから、お願い。わたしを嫌わないで」


 悲痛な叫びがかすれ声となってネネの耳に届いた。震えているのは何故だろう。

 ネネは不思議に思いながら、クチナを抱き返した。先程まであんなに怖かったのに、可哀そうに思えてきたのだ。不思議な香りは鬼灯の者の香りだろうか。その全てを抱きしめながら、ネネは慰めるように答えた。


「……分かった。大蛇様に止められるまでは傍に居てあげる」


 その言葉に、クチナは息を吐いた。きっと安堵からの溜め息なのだろう。泣いているようにも思えたが、その顔はネネからは見えなかった。


 日の神が地平線の向こうへと消えていく。

 その明りを浴びながら、クチナとネネはしばしそのまま互いの感触を確かめあっていた。やがて、夜が空を包む頃になると、やっとクチナはネネから離れたのだった。


「ありがとう、少し落ち着いた」


 そう言って立ち上がるクチナに続こうとしたが、どういうわけかネネはすぐに立ち上がれなかった。それを見て、クチナは言った。


「今日は背負ってあげるよ。君からちょっと貰い過ぎたみたい」

「貰い過ぎたって……何を?」


 訊ねつつクチナの背に負ぶられると、ネネは奇妙な安心感を覚えた。

 先程のイヌの背中よりも落ち着くのは何故だろう。大蛇様への信仰心と反抗心。どう考えてもイヌの背中の方が安全なはずなのに。そんな事を想いながら、ネネはクチナの背中にくっつきながら答えを待った。


「『気』とでも言えばいいのかな。君は美味しい気を持っていてね。触れるだけで心身に癒しが貰える。だから、何も食べなくてもわたしは平気でいられるんだ。その力こそが、赤の少女としての素質なのだろうね」

「赤の少女の素質……」


 ネネには自覚が無かった。けれど、クチナが言うのだからそうなのだろうと思う事にした。同時に、クチナが何故物を食べずにこられたのかが分かった。攫われたあの日から、クチナがネネに触れなかった日はない。その度に、少しずつ気を奪われていたのだろう。だとしても、別に嫌な気はしなかった。奪われたという自覚もないし、不快な思いもしなかった為だろう。


「しばらく寝ていて。何かあったら起こすから」


 優しく囁かれて、ネネは気付いた。

 瞼が閉じかけていた。クチナに気を奪われて眠気が生じたのだろう。抗うこともままならず、ネネは言われるままに目を閉じていった。

 動くクチナの背中の振動が、ネネの眠気を更に増幅させていく。


 ――おやすみなさい。


 心の中でネネはクチナにそう言った。

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