60日目‐1
色んな事があった。
蛇穴の騒動はアヤカシのものであるだけだろうか。イヌたちが駆けまわることはあっても、それはクチナとネネとは別件の人間同士の何かであるようだ。蛇穴を治める城下もまた、アヤカシとは無縁の何かで慌ただしいだけだった。
狐尾町ではキツたちに追い回された。司の代理と名乗るキツは口走った。動けぬ大蛇様の代わりに長老たちが蛇穴の人間やキツを始めとしたアヤカシに伝令を送っているらしい。オニは来ない。影鬼もいない。それでもキツは厄介であるし、戦う意味のない今となってはクチナも極力彼らを傷つけたくはない。その為、呑気に見物とはいかず、さっさと細石へと行くしかなかった。
細石の混乱はすっかり治まっていた。物影から窺う限り、双子熊の容体はすっかりよくなっており、大鴉たちの保護の下で平穏に過ごしていた。きっといつかは母親のように立派な山の主となるのだろう。大鴉達も姿こそ見るけれども特に緊張はなく、千代鶴が飛び交うこともなくなっていた。人々の暮らしもまた以前白鬼騒動で見られなかった分、見る事が出来た。小石が連なりやがては巌のように。そう言われていた通り、細々と里が点在し、段々とそのまとまりが強くなったかと思えば、目を丸くしてしまうくらいの都が見えてきた。ここが天翔や、ここ火山大島の王と呼ばれる火の大山を共有する湯花という国に近い場所である。
都の小高い丘にそびえる城を眺めながら、神鳥がいるとしたら何処に居るのだろうかとクチナは考えた。城は人間の為のものだ。しかし、神鳥と人間との交流の為の場所でもあるのだろうか。ともかく、城の石垣は遠目でも美しく、見惚れるほどのものであった。だがここも神鳥の地域。キツたちにいらぬ伝令が言っていた以上、神鳥のもとにもまた同じような事になる可能性だってある。そんな理由で、クチナとネネはすぐに細石とも別れを告げて、新たな国天翔へと入った。
天翔。そこは蛇穴や細石とは違い、人間の為の人間の国であった。崇拝しているものは細石と同じく神鳥様であるが、アヤカシの姿はさほど見ない。それどころか、同じ人間であるはずの歌鳥が物珍しいアヤカシとして売られているような世界であった。蛇穴や細石にはなかったような立派な屋敷が距離を取っていくつも建っており、それぞれに殿とでも呼ぶべきかという支配者たちが君臨している。国の長は都に居るはずだが、城に住まう者たちはその周辺の土地の小作人達にとって、神にも等しいとまで言われるほどの権威あるものだった。
クチナにとっては不可思議なくらい、土地は枯れていた。蛇穴が恵まれていると言われていたのはこういうことだろう。天候に恵まれぬ年が続き、国の端々では神鳥の名を唱えて天に助けを求めるものや、年貢への不満をお偉方に聞こえぬように漏らしている者が多かった。そんな中で、一見して余所者と分かるクチナとネネに構う者はおらず、時折話しかけてくる兵や町人も、ただ物珍しがって近づいて来るだけであった。誰も、クチナを鬼灯どころかアヤカシだと気付く者はおらず、ましてやネネが生贄であったのだと知るものなんていなかった。
天翔を行き交うアヤカシは、一見してアヤカシだと分からぬ限りは見抜かれない。大鴉ならばどんなにアヤカシを嫌う者であっても大人しくなる。しかし、日ごろアヤカシになれてはいないこの国の者たちにとって、アヤカシが現れたということは大混乱を招く事なのだとクチナは聞いていた。だから、神鳥の子供たちである大鴉でさえも身分を隠すべく人間の振りをするそうだ。その逸話がよく理解できるほど、天翔と言う場所はアヤカシとは無縁の世界であった。
それにしても、きな臭いとクチナは感じた。蛇穴や細石ではあまり見なかった銃というものを携えた兵がちらほらと見える。その姿や意味をクチナもネネも軽くだが教わった事があった。戦乱などが一度起これば、銃は活躍するらしい。また、猟師に狩られる獣たちもその怖さをよく知っているそうだ。何に使うつもりだろう。何にせよ、長居してはいけないということだけはクチナにもネネにも理解出来た。
それに長くとどまっている理由など無かった。
天翔の隣は八花。八花なのだ。一日で抜けられる距離ではないが、すぐそこにかねがね目指してきた理想の大地があるのだ。入り口となっているのは十六夜町という場所。八花の八番目の花神が祀られている温泉街とクチナは聞いている。人間が多いが、アヤカシもいくらか住んでいるのだとか。ただし、魂を食らう魂喰い獣というケダモノばかりであるので、夜道はあまり歩かないほうがいいとも親切な天翔人が教えてくれた。それでも、魂喰い獣など蛇斬の前では無力。それに、十六夜町さえも超えてしまえば、魂喰い獣の心配も薄い七花地方へと逃れられる。ネネを抱えていることもあって、クチナが目指しているのはそちらであった。
十六夜町に入ってしまえば、長老たちの声が届くことも殆どないだろう。あるとすれば、混乱が治まったと告げに来る姉の使いか姉自身の姿だけ。
「いよいよ、だね」
明るくなりつつある空を見上げながら、クチナは寄り添うネネに語りかけた。
「ひと眠りして、起きたらすぐに向かおう。十六夜町はすぐそこだ。魂喰い獣が出迎えてくれたとしても、わたしが君を守るから大丈夫」
「いよいよ、なのね」
蛇穴に細石に天翔。三つの国を通り過ぎるのは二人が思っていた以上の長旅となった。それでも、過ぎてしまえばあっという間のものであった。本当に、あっさりとしたものだ。だがそれが逆に夢のように感じられた。
夜明けが来る。眠気が広がる。寄り添って眠るのも、いつの間にか当り前のこととなっている。追手の心配も殆どないというのは、本当に有難かった。隣で眠りに誘われていくネネの姿を眺めながら、クチナはしみじみと思った。
物騒な天翔とも今日でお別れだ。今より昇っていく日の神が西の山の向こうへと去っていけば、その時はいやでも訪れる。
今は一度眠り、目覚めるだけ。睡魔に攫われていく感覚に浸りながら、クチナは意識の狭間へと至るまで、長く抱き続けた期待に心を弾ませていたのだった。




