28日目‐1
幼い頃からクチナの真の味方は兄であり、姉であった。兄ニシキの方が気安く接してくれたものだが、少なくとも姉ミズチがいつでも冷たかったわけではない。深手を負わせて行く手を阻んだのはミズチ。だが、あの時の姉はもう何処にもいない。肌に感じるミズチの温もりを味わいながら、クチナはつくづくそう思った。
別れの時が訪れていた。
舟を渡すのはかつてここから逃れる時に手伝ってくれた少年の父親。傷つき倒れた息子と同じく、彼もまたクチナを未来の女神として信じてくれた。彼が導く舟は今も水面で時を待っている。
いつでも準備は出来ていた。
だが、急かす者など何処にもいなかった。
見送りは多数いる。
ミズチは勿論、共に戦ったジャノメ、トグロとリンの兄弟姉妹。その母でありクチナの師でもあったジャバラに、一番目や七番目もいる。そして、蛇姫や蛇彦を含む名も知らぬ味方達。誰もが静かに見守っていた。
クチナが望んだのはミズチの抱擁。ここまで強き味方として頼ってきた守護者も、これからは鬼灯の混乱を治めるために剣を振るう。兄との再会が望めぬ今、クチナの過去もろともと今一度の別れを共用してくれるのは、この姉が一番であった。
そして、その隣には、顔を合わせるのも緊張する人物が立っている。
ミズチからようやく離れると、クチナはその人物を見つめた。
背格好は思っていたよりも小さい。その年齢は思っていたよりも若い。ミズチをそのまま老けさせたような容姿。かつては筆頭代理だったというが、今やその面影は少しばかり残るだけで、あとは殆ど幼い蛇姫、蛇彦達のかけがえのない母としての姿をしている。
ジャバラのように勇ましい母とも違う、とても穏やかで優しそうな姿だった。
「母さん」
黙ったままの泣き出しそうなその顔に、クチナはやっと自分から口を開いた。
勇気を出して、話しかける。
「会いたかった」
その胸に飛び込めば、母はしっかりと受け止めてくれた。
「――カガチ」
言いかけ、母は首を振る。
「いいえ、クチナだったわね。大きくなった。本当に、話に聞いていたよりもずっと立派で……ずっと……」
そこまで言うと、母は泣きだしてしまった。
「……母さんも、ずっと会いたかったわ。御社から里帰りしてくれるお姉ちゃんの御話をいつもいつも心待ちにしていたのよ。ああ、クチナ。わたしの娘。会えて嬉しい。……でも、お別れのようね」
「……母さん」
言葉が出ない。不思議なくらい詰まる。話したいことがいっぱいあったはずだったのに、クチナは今やこうして母の香りを胸一杯に吸い込むことしか出来なかった。一目会えただけでも幸せなことなのだ。黒の少女というものは、実母などいないと教えられてきた。先代までの少女達から見れば、恵まれ過ぎているくらいだろう。
だから、もう十分だ。
「どうか……母さん。いつまでもお元気でいてください」
涙を流しながら、クチナは言った。
「わたしが再び此処へと戻る日に、また会ってくれると約束して欲しい。我がままなわたしの願いをどうか聞き入れてください」
「ええ、勿論よ。クチナ」
そっと微笑むその姿は、姉ミズチによく似ていた。
「だから、安心して行きなさい。あなたの守りたい人と共に」
その言葉を受けて、クチナはしっかりと頷いた。
急かすことなくじっと待っているネネ。彼女さえいればいい。クチナのその想いは変わらない。血を分けた家族が大事であっても、ネネには代えられない。代わり等いないのだ。
「どうか、御無事で」
呟くように願うクチナに、ミズチが答える。
「何も心配はいらない。母さんは私が守る。だからクチナ。お前はこの先も気を抜かず、ネネ様と二人で生き延びることを考えなさい。全てがまとまったら、私が呼びに行く。それまでどうか、待っていて欲しい……」
ミズチの言葉に続いて、七番目が念を押すように言った。
「たとえあなた方が少女でなくなるほど時間がかかったとしても、僕たちは鬼灯をまとめ次第、再びあなた方を迎え入れます。だから、どうか待っていて」
これが此処に居る者たちの総意であるようだった。
新しい鬼灯をまとめるために、戦いが始まろうとしている。クチナとネネはしっかりと手を繋ぐと、その言葉を噛みしめ、頷いた。
「名残惜しいがもう時間だ」
ミズチが言うと、トグロやリンを始めとした鬼灯の子供達がクチナとネネに群がった。各々が別れを惜しむべく二人に触れていくと、やがて一番目が子供らごとクチナとネネを諭すように優しく声をかけたのだった。
「さあ、お二人とも。舟へと乗りなさいな」
促されてしまえば、あとは従うだけ。
大人しく振り向けば、ずっと黙って待っていた船乗の男がきっと姿勢を正した。何処となくあの少年に似ている。クチナはふとそう思い、そして思いを寄せた。すべてはその少年の協力から始まったのだ。それを忘れてはならない。
「おいで、ネネ」
その手を引いて乗船を手伝うと、いよいよ別れの時は訪れた。
「さようなら、クチナ様、ネネ様」
声を潜めながら見送る鬼灯たちを眺めれば、クチナの目からは再び涙が零れてきそうだった。何もかも見飽きたと思ってきた景色が、心を引っ張ってきたからだ。そして味方として背中を押してくれた人々の姿もまた、今となって別れが心苦しく感じたのだ。
それでも、クチナは手を振った。
「さよなら……皆」
進むべきはネネと共に過ごせる場所。
家族を信じて、仲間を信じて、そして蛇神大蛇を信じて、ただ時を待つことが出来る新天地を目指すのみ。鬼灯が再びまとまるその日を待ちわびながら、外の世界を見て行こう。たぶん、ネネと二人きりで。
存分に手を振ってしまうと、クチナはそっとネネの手を握った。
「おっこちないよう気を付けてくださいよぉ、姫様方」
船乗の男は言った。
「うちの坊の舟渡はいかがでしたか? まだまだ奴ぁ、半人前でね。怪我が治ったならばすぐにでも特訓させまさぁ」
やたら上機嫌に舟を漕ぐ彼に、クチナはそっと窺った。
「あの子はどんな様子ですか? わたしのせいで、酷い怪我を負う羽目になってしまって、本当に申し訳ない」
「おやまあ、未来の女神様に心配されるとはぁ、奴も幸せ者でさぁ。なあに、心配いりません。奴はあたしの息子。ちょっと殴られたくらいじゃ、くたばりませんぜ」
笑い飛ばすその父親の姿に、クチナは少しだけ安心した。
次に戻ってくる時には、あの少年にも再会できるだろうか。もしそれが叶ったならば、今度は直接、感謝と謝罪を述べよう。新しく産まれた未来への予定にクチナは少しだけ気持ちがほっとした。
鬼灯の混乱はすぐには治まらないだろう。けれど、そんなに先の事ではないと信じている。鬼灯でありながら大蛇様の言葉が少しも響かない者なんていないだろうから。大蛇様は約束してくれたのだ。契約があろうと、一度決めた約束をそう簡単に反故にしたりはしないはず。そう信じていたからこそ、クチナは希望を持つことが出来た。
その明るさはネネの表情にも浮かんでいた。
戦う力の殆どない船乗と三人で進む水面の道。邪魔する者の気配すらない。振り返っても、鬼灯の里を抱える火の小島の立派な頂きが見えるばかりで、追手が乗った船らしきものなど何処にも見当たらなかった。
ゆらゆらと揺れる舟の中で、クチナはほんの少しだけかつての緊張感を思い出して、味わっていた。




