3日目‐2
泣女山には湖が一つだけある。その名は乙女湖。謂われは幾つかあるらしい。けれど、ネネが聞いているのは、その昔、邪神に連れ去られた女たちが唯一抵抗出来た場所であるというもの。邪神に穢される前に、その身を投げいれることで逃れることが出来るのが此処だった。だから邪神はこの湖を厭い、攫った女が近づけぬようにと頭を使った。その為、湖は泣女川の源流であるにも関わらず、山の中でも非常に分かりにくい場所にあるそうだ。
そう、乙女湖に辿り着くのは困難。
だがそれも、人間である場合のみの話で、クチナ等鬼灯の者では違うのだろう。
ネネはそう思う事にして、かつて本で得た知識を引っ張るのを止めた。
雌鶏様の教えや文で得た知識など、実際の泣女山や乙女湖の姿を前にすれば何もかも霞んでしまうものだった。それくらい、泣女山の内部は悲哀と幻想に満ち溢れた色をしており、難なく辿り着いた乙女湖は言葉を失うほど見惚れてしまうものだった。
――綺麗。
泣女川を初めて見た昨日よりも更に大きな感動。辺に座り、そっと伸ばした手に水が触れると、その感触にネネは泣きそうになってしまった。
――綺麗だけれど、悲しい。
泣女川を治める竜神様はかつての罪を認め、この辺り一帯にただよう悲しみを慰めながら蛇穴の人々の生活を守っていると聞いている。ならば此処はいつまでも鎮魂の場所のままなのだろう。
竜神様が改心したのは大蛇様のお陰。
もしも大蛇様がいなければ、この山は今も悲鳴に満ちていたのだろう。そう思えば思うほど、ネネは女神が恋しくなった。
「湖に着いたことだし、今日はもう休もうか。影鬼達のせいで進み過ぎちゃったしね」
クチナはそう言うと、ネネの手を離した。
「お腹空いたでしょう。何か探してくるから、此処で待っていて。湖の傍も竜神様の領域だから、ケダモノも襲ってはこないはずだよ」
「……うん」
ネネは大人しく頷いた。
クチナの言う通り、今日は昨日よりも歩き通しだった。影鬼によって目が覚めたのはまだ昼間。それからずっと歩いてきたのだから、疲れていないわけがない。影鬼はあの後現れず、竜神様を恐れてか、アヤカシもケダモノも近づいては来なかったけれど、これ幸いとクチナが引っ張り続けるので、ネネの足はすっかり棒のようになってしまっていた。
これでは逃げようにも逃げられない。
仮に泣女川を沿って下流へ戻ろうとしても、あっという間にクチナに追いつかれてしまうだろう。それならいっそ諦めて、疲れを癒したかった。ネネはすっかり意気消沈して、湖を見つめながら横になった。
そんな彼女を見つめつつ、クチナも立ち去っていく。
――クチナ……。
声に出さず、ネネはその名を呟いた。
いまだ直接呼んだことはない。その名を聞いた時から、ネネは不思議な感覚を抱いていた。何処かで聞いたことがあるような名前だと思ったのだ。しかし、思い出そうとしても、それが何処だったかは思い出せない。夢の中だろうか。はたまた、産まれる前の記憶だとでもいうのだろうか。
ネネは不可思議な感情を抱えたまま、考え続けた。
黒の少女とは何だろう。赤の少女とどんな関係があるのだろう。言葉の響きはよく似ているけれど、その正体についてネネは聞かされたことなどなかった。
――雌鶏様は何か知っていたのかしら。
皆はクチナに敬意を払う。雌鶏様も、イヌ達もそうだった。クチナに暴言を吐いたのは何も知らなかったらしい守人くらいのものだった。それは何故か。クチナが一応は鬼灯の少女であるというだけのものなのか。
――黒の少女って、何?
どうしてクチナは教えてくれないのだろう。どうして彼女は蛇穴を逃げ出したいのだろう。そして、どうして自分が必要なのだろう。
何一つ分からず、ネネは困惑した。
「羨ましいって、どういうことかしら」
呟くと同時に、何かがネネの肩にぶつかった。ふと見れば、ころころと朱色の果実が転がっている。千鳥梨だった。
「また考え事してるの? 好きだねえ」
クチナであった。
二、三個の千鳥梨を抱えつつ、彼女はふわりと舞うようにネネの隣へと戻ってきた。起きあがるネネの隣に持ってきた千鳥梨の全てを置くと、溜め息混じりに乙女湖を眺めて頬杖をつきはじめた。
「木から貰って来た。全部食べて。わたしはいらないから」
湖から目を離さずにクチナは言う。無感情なその横顔をそっと窺いながら、ネネは恐る恐る訊ねてみた。
「一個くらい食べなくていいの? 何も食べてないんじゃないの?」
「食べてないと言えば食べてない気もするし、食べていると言えば食べている気もする」
「どういうこと?」
要領を得ないその返事にネネが困惑していると、クチナは微笑みをそっと浮かべて言ったのだった。
「君が気にする必要はないってこと。大丈夫だから、全部食べて」
やはり特に問題はないらしい。
そう思う事にしてネネは千鳥梨に齧りついた。アヤカシの実とも呼ばれるその果実は、素っ気ない味の割に、ネネの知るどの果物よりも栄養価が高い。価値はそれほど高くはないらしいが、誰もが簡単に手に入れられるものでもない。ただの人間が千鳥梨の生る木に触れようとしたところで、木は怒って人間を追い払うだろう。しかし、クチナは鬼灯の少女であるためか、大丈夫であるらしい。
貰って来たと言っている通り、穏便に得る事が出来るのだろう。
「明日は山を越えて更に北へ行く。しばらく花畑が広がっていてね、その先は深い森林になっているんだ。そして、果てしなく進めば細石との国境だ」
クチナの言葉にネネは黙りこんだ。
もはや反論しても無駄だと分かっていたけれど、気が進むわけもない。細石に辿り着く前に誰かがクチナを止めてくれやしないだろうか。そう思いつつも、酷くやられたイヌたちの姿が頭を過ぎって、どうしようもなかった。
「細石ってどんなところだろうね」
ふとクチナが呟いた。
「文献では、石ころのように集落が連なっていて、その中央に巌のような都があるそうだよ。都には昔大きな卵があってね、そこから鳥神様が孵ったのだって」
「……知っているわ。わたしも習ったもの。その鳥神様もまたやがて卵を残し、孵った大鴉様が細石とお隣の天翔のアヤカシたちに力を示し、そこで暮らす人々を導かれた。鳥神様は大蛇様と親しい御方。だから細石とも天翔とも上手く付き合って行けるのだって」
「同じ文献かな。正直、学び舎は大嫌いだったけれど、真面目ないい子を演じていた分、覚えてしまっているみたいだ」
「あなたも結構学びを受けてきたのね。鬼灯の里から逃げ出すまで、あなたもわたしと同じように過ごしていたの?」
ネネはそっと訊ねた。
黒の少女について訊ねるよりも、まずはクチナの生い立ちについて聞く方が賢明だと思ったからだ。少しでも彼女のことが分かれば、疑問が少しは解消されるかもしれない。その意図がクチナに伝わっているのかいないのか。クチナはくすりと笑ってから、伸びをして、寝そべり始めた。
「君よりは自由だったかな。それに、多分君とは違って、学ぶ範囲も広かった。剣術なんて学ばなかったでしょう?」
「うん。その術を教えてくれたのは、大蛇様?」
「……そうだね。厳密に言えば、大蛇様の命を受けた里の大人だよ。大蛇様も剣術はご存知のはずだけれど、わたしに教える余裕なんてなかったからね。教えてくれた人は、厳しいけれど優しい人だった。あまりに優しくて心が痛くなるくらいだった……」
そう言いながら里を想い始めたのか、クチナはぼんやりと空を仰いだ。その横顔が妙に切ないものに感じられて、ネネはふと疑問を口にした。
「あなたは、里が恋しくないの?」
それは単純でいて、非常に気になる問いかけだった。
クチナは空より目を逸らさず、ふうと息を吐いた。
「君は恋しい?」
逆に問い返され、ネネは頷いた。
「恋しい。雌鶏様に会いたい。生贄に捧げられるまでの間、もっと甘えたかったもの。雌鶏様はわたしにとってお母様のようなものなの。だから、大蛇様の元に行くまでは、もっと傍にいたかった……」
「そっか。じゃあ、わたしは極悪人だね」
自虐気味にそう言ってから、クチナは答える。
「わたしは分からない。恋しい気もするし、清々している気もする。里には家族がいる。父は死んでしまったらしいけれど、母は一応生きているし、兄弟姉妹だっている。特に、身近だった姉さんや兄さんのことを想うと恋しいかもね。でも、どんなに二人が恋しくても、絶対に帰りたくはない」
「どうして?」
ネネは心から訊ねた。
身近に家族がいるのなら尚更だった。
ネネの家族は集落の何処に住んでいて、どんな顔をしているのか、その名前ですら分からないのだ。それに引き換え、クチナは身近な兄と姉がいるというではないか。恋しく思うというのに、どうして帰りたいとは思わないのだろう。
それがとても不思議だった。
不思議であって、贅沢に思えた。
「君が受け入れた事を、わたしは受け入れられないから」
クチナははっきりと答えた。
「我がままだって思われてもいい。わたしはもっと自由に生きたいんだ。黒の少女としてではなく、ただのアヤカシの少女として過ごしたい。だから、大蛇様にはとても悪いとは思うけれど、もっともっと遠い地に行きたいんだ」
そう言いきってから、クチナは両手で顔を覆う。切実なものを抱える彼女の姿に、ネネは今一度勇気を振り絞った。
「……ねえ」
慎重に、そしてゆっくりと彼女はクチナに訊ねたのだった。
「黒の少女って、何なの?」
けれどやはり、クチナは沈黙を守るばかりだった。
――また、黙りなのね。
心の中で悪態を吐いて、ネネもまた横になる。千鳥梨は尽きてしまった。この理不尽な想いを晴らしてくれそうな仄かな甘みももうない。
徒に星を眺めながらぼんやりとしていると、クチナがやがて沈黙を破った。
「……星」
ばつの悪そうなその声。ネネの質問を無視する形で、クチナは話題を変える。
「綺麗だよね。宝石みたい。あの星々にも神様が住んでいるのだって大蛇様は教えてくださったけれど、本当かな」
「大蛇様が仰せられたのなら、本当の話なんじゃない?」
「君は随分と信仰深いね。赤の少女からこれほどまでに信頼されていると大蛇様が知ったらきっと心より喜ばれるよ」
からかい気味なクチナに、ネネはむすっとした。
そんなネネに気付いたのか、クチナはふと視線を送ると、しばし考え込んでからもう一度口を開いた。
「大蛇様はね、実在する女神様なんだ」
クチナの言葉にネネもまたふとその顔を見つめた。鳶色をしているその目に吸い込まれそうになりながらも、ネネはその心を探っていく。そんなネネの手をクチナはそっと握りながら、語りかけるように言った。
「うんと昔から蛇穴を守ってきてね、自分の血を継ぐ一族の生き死にもたくさん見てきた。もちろん、歴代の赤の少女の死に様も。でも、あの方は飽く迄も蛇穴の女神。世界各地を知っているわけではないんだよ」
「どうして、あなたにそれが分かるの?」
「わたしの方が君よりも大蛇様の近くで育ったから。大蛇様という御方を傍で見て触れて、感じて育ってきた。わたしを含めた全ての血族の母であるあの方。たしかに蛇穴の人間たちを守ろうとする意志は御強くて、他に神と名乗る資格のある人がいても真似できないほどだろう。でもね、大蛇様は全知全能じゃない。全知全能だったら、君の犠牲なんて必要ないのだから」
「それは……そうかもしれないわね」
ネネはまた反論しそうになった。けれど、その直前で考えは改まった。
常々、思ってきたことでもあったからだ。生贄にされるとは命を奪われること。怖くないと言い切ってしまうのは簡単だが、不安の全てを拭えたわけではない。神通力で国を守るためには仕方のない事なのだと自分に言い聞かせる事しか出来なかったネネは、大蛇様の弱さも分かっているつもりだった。
「でも、全知全能じゃないからって、大蛇様が尊くないわけじゃないわ」
「勿論。わたしだって大蛇様が心から憎いわけじゃない。尊敬すべき方であるし、幼いわたしを守り養ってくださった恩も感じてはいる。でも、わたしは知ってるんだ。大蛇様の決めた事。それは全て正しいわけじゃない。大蛇様が間違ったとしても、正してくれる人はいない。じゃあ、どうしたら分かってもらえるのか」
「……分かってもらうために、あなたは反抗しているの?」
「うん。それだけじゃないけれど、それも理由の一つ」
大蛇様を敬愛しつつも、何処かで反発する少女。ネネはほんの少しだけクチナの心を窺えた気がした。
我がままというだけではないのかもしれない。しかし、それでもネネにはクチナの考えは傲慢に思えた。大蛇様が正しいのかどうか、それをクチナが一人で判断していいはずもない。況してやその結果、多くの人々を困らせてまで赤の少女である自分を誘拐してしまったのだ。許されるはずもない。
――変わった人。
そうは思ったが、ネネはもう何も言わなかった。クチナを理解しようとしても、邪魔をするのは「黒の少女」という言葉。自分で口走りながらも、頑なに説明しようとしないその言葉が、ネネとクチナの間を塞ぐ壁となっていた。
――こうして手を繋いでいても、遠くにいるみたい。
クチナの手から伝わるひやりとした感触。
ネネはその存在感に奇妙な安心感を覚えつつも、どんなに引き寄せても近づけないような心細さも同時に感じていた。そんなネネの心情を何処まで読みとっているだろう。クチナはじっとネネの瞳を見つめたまま、指でそっとネネの手の甲を撫でた。
「そろそろ寝ようか。夜も明けてしまうから」
優しい声でそう言われ、ネネは黙って頷いた。
そんなネネにクチナは囁く。
「おやすみ、ネネ」
そしてネネも答えた。
「……おやすみなさい」
眠気と共に交わされるその言葉は、闇に吸い込まれるようだった。