27日目-5
視界が晴れるより先に、クチナに届いたのは無念の思いであった。
体中が痛み、その反面でどうしようもなく心地がいい。ずっと目を閉じて眠っていようかと思うほどの安堵は、何処からくるものなのだろうか。
温もりがそれを教えてくれた。
鬼灯の誰よりも温いその手が誰のものなのか、目を開けるより先にクチナは分かってしまったのだ。
「……大蛇様」
言葉は出た。忘却から取り戻すかのようにたどたどしくその名を呼べば、すぐ傍でやさしく応じる吐息が漏れた。その香りは金木犀のもの。蛇斬と同じもの。沖を経た異世界より賜れた魔を封じるその香りは、クチナの傷によく沁みた。
「起きたか、クチナ」
クチナの思い描く母親像のように語りかけ、大蛇様はその額を撫でていく。
「――ここは」
薄っすら目を開けても、色形はおぼろげで何も分からない。
「妾の寝間よ」
大蛇様が答えた。
「お前はまた敗北し、妾の手に戻ってきたのだ。その意味が分かるな、クチナ」
「……ああ……そんな」
青ざめるクチナを優しく支え、大蛇様はそっと告げた。
「お前は妾そのもの。いかに隠れようとも、この里にいる限りは無駄だ。浅はかな我が子らめ。子供まで密偵に使いよって。捕まった子供らがどんな目に合うか分かっていただろうに」
囁く声にクチナは震えた。捕食される前の恐怖だろうか。蛇斬が側にあるというのに、はっきりと拒むことも出来ないまま、クチナは怯えていた。
「だが、それも仕方のないこと。ウワバミは手ごわかっただろう。蛇斬が効かず驚いただろう。あの男の志願で妾がこの血を与えたのだから当然のことよ。結果、取り戻せたのはお前のみだが、それでもいい。妾の命を受けた者たちも随分と傷ついたが、ウワバミの活躍で光が見えた」
溜め息をつき、大蛇様は含みのある笑みを浮かべる。
「妾は詫びとして、戦う者たちにはこの血を授けることにした。鬼灯の呪いを解く血。蛇の傷を癒す血だ。どんなに抗おうと無意味なこと。一番目、七番目、ミズチにジャノメ、そしてジャバラをはじめとした身分あるナバリども。奴らを捕えた時には、どう裁くべきだろうか。お前の意見も少しは窺うとしよう」
「……大蛇様」
「怖いか。だが安心せよ、クチナ。体を奪われようとお前は消えぬ。これからは妾が護ってやろう。妾の情動の一つとして存在するがいい」
冷や水のようなその言葉に、眠気はすっと引いていった。
怯えるクチナを見つめるのは面のように表情の動かぬ大蛇様の端麗な顔であった。その手が温いことが嘘のように、彼女の目に浮かぶ色は冷ややかなものであった。だが、はたしてかつてのような怒りはその身に宿っているのだろうか。
異様な雰囲気に包まれて戸惑うクチナを、大蛇様はそっと抱きしめた。その瞬間、怯えは何処へともなく失せ、意識の狭間で感じたような心地よさが生じたのをクチナは感じた。
「分かるか、クチナ。妾の魂が一つになろうとしておる」
大蛇様は言った。
「時は既に満ちておるのだ。一番目どもがお前を取り戻そうと攻め込んで来る。ネネがお前にまた会おうと乗りこんで来る。だが、もう間に合わぬ。お前と妾は一つになり、何も知らずにのこのこ現れるネネを喰い殺す。どうだ、楽しみだろう」
「……大蛇様、どうか」
強張る身体は不思議と上手く動かず、蛇を前に生涯を閉じる蛙のようにクチナは震えていた。そんなクチナに大蛇様は告げる。
「戯れは此処まで」
「どうか、わたしの話を」
素肌を這う大蛇様の指が、まるで他人のものではないかのよう。
クチナは茫然とその感覚を受け入れた。
「妾を受け入れよ。お前は今、我が名をもって蛇穴の婢へと――」
だが、大蛇様がそこまで言った時のこと。飾らぬ神事を邪魔する光が放たれたのだ。その正体は蛇斬。怪蛇を斬り、大蛇様を助けたその刀の放つ光が、クチナを捕えようとする女神の手を強く拒んだ。
「ひっ」
茫然としたままのクチナをよそに、大蛇様は悲鳴を上げて怯んだ。蛇斬の光を怖がっているその姿。そんな女神を眺めながら、クチナは首を傾げた。主人のはずの彼女と、彼女の一部のはずのクチナとで、何故このような違いが生まれるのか。
驚いているのは、クチナだけではなかった。
「何故……何故だ」
震えながら大蛇様はクチナの姿を凝視した。
「蛇斬よ……何故、妾を拒んだ。妾はそなたの主ぞ。そなたと共に蛇斬に安穏をもたらし神蛇となった者。何故、その妾を拒む……」
「――蛇斬?」
魂は大蛇様のもののはず。それでも、彼女を拒んだ蛇斬の光がクチナに害を成すということは全くなかった。何故だろう。その理由はクチナには分からない。ただ、蛇斬が大蛇様に牙を剥くということは、すなわち、クチナの牙となるということだ。
視界ははっきりとした。意識も不思議と覚めている。
「蛇斬……そなた……」
震えた声で呟くのは大蛇様。
ゆっくりと立ち上がるクチナを前に、まるで鬼灯の里娘が始祖神を仰いでいるかのよう。だがやがて平常心を取り戻すと、大蛇様は部屋の外に向かって声を上げた。
「誰ぞ、おらぬか」
荒げることのないその声に下女の一人が顔を覗かせると、感情を殺した眼差しと共に大蛇様は静かに命じた。
「妾の剣――昇り竜を持ってこい。鬼灯の左を守る忠実な支えを」
その言葉に平伏すると、下女はすぐにその場を立ち去った。下女を見送ると、警戒するクチナの表情に苦く笑いかけ、大蛇様は言った。
「しばし待つがいい。それとも、このまま妾を斬るか? お前がそうしたいのなら、そうしたっていい。さすればはっきりするだろう。蛇斬が誰を主人と思っているのか、が」
「斬ればあなたはどうなるのです?」
睨みつけながら問うクチナに、大蛇様は冷静のまま答えた。
「それは分からぬ。蛇斬がどのくらい妾に害を成すのか。妾は滅ぶかもしれない。そうなれば、蛇穴の命運は全てお前に委ねられるだろう」
恐れている様子もなかった。滅べば大蛇様は契約から解放され、自由の身となるのだろう。そして重たい責任がクチナの肩に圧し掛かる。鬼灯は二度と一つには戻らず、クチナに味方した者の一部も袂を分かつこととなる。そんな未来は未熟な少女であるクチナにも容易く見通す事が可能であった。
「好きにするがいい、クチナ。妾はお前の選択に抗わぬ。抗う牙は下女が運んでいる最中だからね」
「神刀でわたしと戦うおつもりですか?」
「戦うのではない。確かめたいのだ。蛇斬が妾を拒んだ。これまでにないことじゃ。無視するようでは女神とは呼べぬ。蛇斬が訴えたいことがあるのだろう。妾は間違っておるのか。蛇斬がお前に惑わされているだけなのか。二つの剣をぶつけて確かめようぞ」
「確かめて、どうするのです?」
高揚する気持ちを抑える思いで訊ねるクチナに、大蛇様は無表情のまま淡々と答えた。
「この諍いに決着をつけよう。妾が勝てばお前は神の器となり、ネネと共に蛇穴の礎となる。しかしお前が勝てば耳を傾けよう。八花に行きたければ行くがいい。ネネを喰いたくなければ傍に置けばいい。それでも契りが守られるというのなら、妾もそれに従わざるを得ない。分かったか、クチナ」
「……ええ、大蛇様」
目眩がしそうな中で、クチナはしっかりと床を踏みしめた。
待ち望んでいた未来が見えてきた。この勝負に勝てばいい。勝てばいいだけ。今度は騙しているわけではない。妖力勝負などではなく、単純な剣術勝負だ。
勝てば大蛇様は約束を守るだろう。あとは時間が解決する。
鬼灯は葉脈のように複雑なもの。大蛇様一人が許したところで、蛇穴と鬼灯の未来に不安を覚える者たち集団の力は女神一人では制御出来ないほどの動きを見せるかもしれない。その独特な動きはクチナの願いを阻む力となることだってあり得る。だが、それならば逃げればいい。大蛇様の命によらぬ追手など、これまでと比べればずっと大したことのない勢力であることだろう。
――そうだ。勝てばいい。勝てばいいのだ。
緊張が増すばかりの状況。それでも、これまでの真っ暗な世界と比べれば、じめじめとしたこの寝間も白昼の下にあるかのようだった。期待と意気込みに胸を潰されそうな中で、クチナは素直に頭を下げた。
「待ちましょう」
大蛇様に向かって、一度は失いかけた敬意を示しながら、かつてはとても優しかった女神を頭に思い浮かべながら、言ったのだった。
「宝刀があなたの手に納まるまで待ちましょう。未来を賭けた勝負です。よもや女神ともあろう御方が約束を違えるはずもない。ああ、大蛇様、これまでどんなにこの瞬間を待ちわびたことか……」
感極まって泣きそうになるクチナに、大蛇様は釘を刺した。
「泣くなら勝敗が決まってからの方がよかろう。妾とてわざと負けようとは思わぬ。どちらが蛇穴の為になるのか。どちらが契約に忠実なのか。天啓が剣を介して妾を導くだろう。その結果次第で、悦びか或いは悲しみの涙を流すがいい」
語りかけるようなその言葉に、クチナは黙って頭を下げた。
そこへ下女は戻ってきた。渡されるのは美しい装飾の施された刀。泣女川の主人竜神を生みだした誉高い刀であり、鬼灯にとっては安らかな死をもたらす首切り刀でもある大蛇様の爪と牙。クチナがクチナのまま触れる事は決してない大きく重たそうな刀の鞘を抜くと、大蛇様は長い刀身をクチナに見せて冷たいままの目で呟いた。
「さあ、昇り竜、そして蛇斬よ」
蛇斬と対照的な外見の剣が、目を覚ますように光り輝く。
「かつてない時じゃ。偽りなき心で踊り狂うがいい。そなたらのぶつかり合いが、今後を決めるであろう。時代の転機か、はたまた単なるまやかしか、矮小な見聞に囚われる醜い妾の心に教えておくれ」
愛し人を口説くような妖艶な眼差しに、昇り竜が答えるようにくぐもった音を産む。蛇斬とクチナよりもずっと、意思疎通をはかっているようだった。
宝刀と女神。そろった二つの相手に勝てるのか、否か。
だが、クチナに宿るのは恐れではなかった。
この時をどれだけ待っていただろう。言葉をぶつけるだけでよかったのならばこの上ない。しかし、現実は複雑なもの。二つ返事で分かってくれるほど大蛇様の立場は甘くない。ならば、どうすればいいのか。契約に縛られ自力では動けない大蛇様にどうすれば分かってもらえるのか。クチナにとって答えとなる過程は、端から一本道でしかなかった。
大蛇様は実在する女神。もとより蛇穴を守るために生まれたのではなく、怪蛇を倒し、蛇穴を統一したことでその責任として人間たちと契約を交わしたアヤカシの女王。清らかな水も、肥えた土壌も、穏やかな風も、安寧の火の血脈も、すべて大蛇様が大地の婢という大きな柱となることで約束された。柱を支えるのは歴代の少女達。これまで幾人の少女達がその身を捧げてきたのだろう。その命の数だけ、大蛇様は誓いを深めていった。
赤は約束の色。その色を宿した昇り竜を携え、大蛇様はクチナを睥睨した。今はまだ答えはもたらされない。はっきりとした決着がつくまでは、クチナが逆賊であることは変わらない。蛇斬がどういうつもりなのか、どうして自分を拒む光を放ったのか、その全てがこの一戦で分かる。
「クチナ」
大蛇様は言った。
「来い。妾にその全てをぶつけるのじゃ」
女神の強い一言が、クチナの闘志を激しく燃やした。
そして、戦いは始まった。
走り出すクチナ。その身体は異様に軽かった。蛇斬に引っ張られるかのように大蛇様の身体めがけて突っ込み、持てる力の全てを放出する勢いで力いっぱい蛇斬に身体を委ねる。そんなクチナを正々堂々真正面から迎え撃つ姿勢で、大蛇様はほんの少しだけ目を赤く染める。
「手加減はせぬぞ」
その言葉通りの抵抗が加わり、クチナをやや怯ませた。
昇り竜は蛇斬と同等の力を持つ刀。ぶつかり合う両者の勝敗が傾くとすれば、それは使い手の差であるだろう。
それでも、相手は相手で万全ではない。来年に儀式を経て身体を新しくするつもりでこの百年を過ごしてきたということは、それだけ無理の祟った身体であるということ。クチナが何度か幻想の中で会話した先代の黒の少女の身体は、そして、思い出したくもないほどの美味をクチナに授けた先代の赤の少女の気力は、この百年で蛇穴の為に酷使され、限界を迎えようとしているだろう。その二つの支えでどうにか立っている女神大蛇。それがどういうことなのか、戦ううちにクチナも段々と分かってきた。
――大蛇様……。
女神は何も言わない。手加減はしないという言葉通りに抵抗し、クチナの動きを止めようと阻んでくる。そして、確かめるという言葉通りに攻撃し、クチナの心に答える蛇斬と同等以上の力で昇り竜を導き、導かれている。
しかし、何度妨げられても、クチナの心は潰れたりしなかった。阻まれても、阻まれても、希望の灯まで吹き消されてしまうようなことはなく、もう一度立ち上がって飛び込む勇気は枯渇の気配すら見せたりしない。
そんなクチナの姿を見つめるうちに、大蛇様の頑なだった表情は段々と綻びを見せていった。
「……ああ、そなたは」
決着はすぐそこで待っていた。
「そなたはまるで……かつての――」
その影が消えてしまわぬうちに、クチナは手を伸ばした。
「かつての妾の姿……」
蛇斬が昇り竜を弾き飛ばす。勢い余って刃は、この蛇穴で長きに渡って傷つけてはならなかったはずの女神の身体を僅かにだが斬りつけてしまっていた。
床を染める尊い血の色。少量ではあったが、傷つけた本人たるクチナを怯ませるには十分な量であった。血を見つめ、口から漏れだすのは微かな吐息と声のみ。
「……あ」
飛ばされた昇り竜が床にぶつかり音を立てる。ほぼ同時に、大蛇様の身体は力を失い、ぐらりと倒れてしまった。
「ぐうう……」
苦しそうに呻くその姿を目の当たりにして、クチナは慌ててその身体に触れようとした。けれど、その半ばで汗ばむ大蛇様の眼差しが留めた。
「……よい。もう……もうよく分かった……クチナ」
手を伸ばし、大蛇様は壁に阻まれた廊下を指差した。
「蛇斬は妾をやぶった……妾は従おう……従うしかない」
苦しそうなその姿に寄り添いたくとも、大蛇様はそれを許さなかった。
「もうすぐ……もうすぐ、お前の迎えが来よう。……妾が命じたところで、この混乱は治まらぬ」
荒い吐息を少しずつ鎮めながら、大蛇様は小声で呟いた。
「お前たちが生みだした恨みと呪いは信仰心を歪める。傷つき倒れた妾の言葉等では鬼灯はまとめられぬ。クチナよ。お前が望むのならば、妾の傷が癒えるまで……鬼灯が再びまとまるまで、八花なり何なり逃れるがいい。お前の……お前の『友』と一緒に」
「……大蛇様」
そこでようやくクチナの目からは涙が流れた。
「大蛇様、わたしは――」
「クチナ。お前は妾の一部。それは変わらぬ。お前が手に入れたのは猶予とわずかな自由。ゆくゆくは妾と一つにならねばならぬ。それでも妾とお前は、かつてのように、支配し、支配される関係ではなくなるだろう。その証がネネじゃ。あの子はお前の自由。喰いたくないのなら、もう喰わなくともよい」
「わたしは……」
自分でも驚くほど言葉に詰まった。しとしとと小雨が降るように涙は零れ落ち、勝利の感動をじわじわと教えてくれる。いつまでも浸り続けることは出来ない。そうは分かっていても、涙と震えは次第に大きくなっていく一方だった。
そんなクチナに、大蛇様は微かに笑んだ。
「行け。もう行くがいい。混乱に呻く我が子らを必要以上に苦しめぬうちに行け。そして待っていてくれ。愚かな妾をどうか信じておくれ」
その目からはすでに、血のような赤色は消え失せていた。




