27日目-1
撤退は上手くいった。
味方の鬼灯は誰ひとり捕まることなく、クチナとネネと共に御社を離れて里の外れの小屋へと身を潜める事が出来た。あまり長く身を潜めたところで大蛇様の神力をもとに誰かが駆けつけてしまうことだろう。だが、少なくとも今は、身体を休める必要があった。
小屋は一番目の母方一族のものであった。母系の途絶えてきているその一族の所有小屋は、長く使われてはおらず、里からも忘れられかけているような建物であった。だが、今や決して少数ではない人数の鬼灯が隠れていた。
話し合われるのは、クチナとネネの今後。船着き場からこの小島を抜けだして湾を渡って本土へと向かわなくてはならない。舟渡の誰が協力出来るのかと言う事と、そこに至るまでの計画、そこで二人を舟に乗せるまでの計画であった。鬼灯達が出来るのは船に乗せるまで。それ以降は、クチナとネネだけでどうにか遠くへと逃げなくてはならない。
「堪忍くださいね、クチナ様」
若人の一人が言った。
「その代わり、我々は我々で残った仲間と剣で議論を続けますとも。クチナ様もネネ様も儀式を過ぎても遠くに居るとなれば、大蛇様も否応なく考えを改めなくてはならなくなるでしょう。大丈夫ですとも、我々をどうぞ御信用下さいな」
「勿論。……勿論です」
クチナは気持ちを上手く言葉に出来ないままだった。
鬼灯の里を飛び出してネネを連れ去った頃は、故郷の者全てが敵だと思っていた。大蛇様を崇拝して、多少の疑問も殺しながら暮らしている彼らにとって自分は異端児なのだと信じてきた。そんな彼らの複数が、異端児であるはずの自分に本気で味方してくれる未来等、クチナは思いもしなかったのだ。それも御社などで見知った者たちだけではなく、よく知らない里住まいの鬼灯も混じっている事がクチナは嬉しかった。
話し合いが進む中、ふと何処かへ行っていたミズチが戻ってきてクチナとネネの傍へと座りこんだ。傷一つないが、疲れているのか顔色が優れない。クチナが窺っていると、その眼差しに気付いてミズチは口を開いた。
「母さんに会ってきた」
クチナの目はミズチに釘付けになった。
「ニシキの死を……やっと告げられた。私の事も風の噂で聞いて、心配していたらしい。そして、クチナ、お前の事を聞いて会いたがっていたよ」
くらくらと目眩がした。
「……母さん……わたしの母さん?」
「クチナ」
ネネが心配そうに背を支えた。その温かな気に甘えながら、クチナは何度もその脳裏にまだ見ぬ母の姿を思い描いた。その姿はミズチによく似ている。
「ああ、私たちの母さんだ。お前を産んで数日間、私が嫉妬してしまうくらい可愛がっていた母さんだよ。大蛇様が来るまでの数日間、母さんはお前にカガチという名を与えた。父違いの妹達にはつけていない名だ。もしもこの先、私に娘が産まれたら、その名をつけようかと思っている」
「カガチ」
その名前を頭に刻んだ。クチナにとってはもはや他人の名前でしかない。それでも、そう名付けられた事実があるということは、クチナにとってこの上ない宝物であった。黒の少女と気付かれずに過ごした数日間。どれほど自分は幸せだったのだろうと。
今はもう他人の名前。いつか見るかもしれない姪の名前になるのだとしたら、その姿も見たいとクチナは強く思った。
「クチナのお母さんは何処にいるのですか?」
ネネが訊ねると、ミズチは静かに頷いた。
「今は家です。でも、大丈夫。立派に育った一番上の弟が母を守ると約束してくれた。それに、母さんの今の夫は一番目様だ。ジャバラ先生の前で恐縮だが、万が一のときの為に母と弟妹を此処へ誘導してもらう事になった」
「じゃあ……此処に居たら、会えるの?」
クチナは震えた声で訊ねた。
会いたかったのはずっと変わらない。物心ついた頃から大蛇様が母ではない事は分かっていた。だが、生みの母に会いたいと訴えれば大蛇様にそれとなく叱られた。母に会わずとも寂しい思いはさせないと優しく育ててくれたのは確かなこと。それでも、全くといっていいほど会わせて貰えない待遇は、不満でしかなかった。
クチナの想いはこの震えに現れていた。ミズチはそっと微笑みを浮かべた。
「ああ、会えるよ。お前を命がけで生んだ母さんだ。待っていなさい」
嬉しくて仕方なかった。
だが、その一方で怖くもあった。
実母の存在はクチナにとって長らく希薄なものだった。筆頭代理の身である故に懐妊したからと地下に閉じ込められることもなかったが、黒の少女の母となってからは、里の隅に追いやられ、御社に足を踏み入れることも許されなかった。母の話は兄や姉を通してでしかあまり触れることもなく、母の与える愛は全て大蛇様が与えてきた。
だから、兄や姉はともかく、母というものについてあまり深く考える事はなくクチナは逃亡していた。実際に会ったらどうなるだろう。どう感じるだろう。クチナは怖かった。母恋しく思うが故に里を離れるのが更に辛くなったりはしないだろうか。
しかし、暗い表情を気にしたネネがその手をそっと握った感触で、クチナは我に返った。
――わたしにはネネがいる。
母の事は一番目や姉のミズチが守ってくれるだろう。
それだけで迷いは晴れた。
全ての話し合いが終わる頃、クチナはネネと共にひと眠りしていた。
いつの間にか、船着き場を再び制圧すべく、協力してくれる船乗と彼を護衛する若人たちが既に向かっていた。もう少し日が傾く頃に、彼らを追いかける形でナバリやオニたちが進軍し道を切り開き、彼らを囮にしつつミズチらと共にクチナとネネが向かうという事になっていた。一番目や七番目がどちらの組に入るかは、まだ決まっていない。決める前に、一番目に護衛された母が到着するとクチナは聞いていた。
眠る事は出来たが落ち着かなかった。里に逃れるより先に、母に会いたかった。うつらうつらしながらもその時をただ待っているのは辛いものだった。
ネネはすやすや眠っている。クチナも気付かない内に気を貰っているのだろう。ジャバラに貰った風呂敷にあった食べ物がネネの空腹を満たしたようだが、あまり無理をさせれば身体に毒だろう。
半分眠りながらクチナはその頬をそっと撫でた。
今すぐ食べてしまいたいという恐ろしい欲望はもうだいぶ抑えられるようになっていた。ただ可愛らしく、好ましいだけ。友達になる。家族になる。それらは未来を勝ち取ってから叶う関係であるだろう。だが、すでに仲間ではあるだろうとクチナは信じていた。
――絶対に八花に行かなきゃ。
クチナは自分に言い聞かせた。
二人きりで逃亡してきた時と状況はかなり変わっている。味方などいないとすら思っていた時の事が嘘のようだった。その上、もう絶対に会えないと思っていた母にまで会える。大蛇様のもとで諦めて運命を受け入れていれば叶わなかった事だろう。
何にせよ、あと少しのことだ。
あと少しで母に会い、そしてこの里を去る。
船で渡り、今度こそ八花を目指して走り続けよう。今度は姉ミズチも追ってはこない。細石を荒らしていた白鬼もいない。天翔では何が待ち受けているのか、八花に辿り着いた先に何が待っているか、クチナにはまだ分からない。それでも、クチナは自信があった。今度こそは大丈夫だ。今度こそは未来を掴みとれるのだと。
うつらうつら眠りながらそんな事を思っていると、ふと傍で休んでいたミズチが急に立ち上がった。じっと見つめる先は雨戸の閉め切られた縁側。その外を見つめている横顔に、クチナは少し期待した。一番目が戻ってきたのだろうか。つまり、母と一緒に。
だが、ミズチの表情に気付いて、その期待に陰りが生まれた。
「七番目様」
ミズチが声を潜めて呼んだ先で、七番目もすでに身構えていた。
気付けば、ジャバラなどナバリや、筆頭代理のジャノメ等も外を睨みつけていた。ただならぬその雰囲気に次々と鬼灯達が気付く。そして暫く経って、ようやくクチナにもその殺気を感じ取ることが出来た。
ざわめきはごくわずか。それでも、この小屋に迷うことなく近づいて来る鬼灯の気配がある。仲間であるなんて思えないのは、その荒々しい気配のせいだ。クチナは起きあがり、ネネにそっと声をかけた。
「……ネネ」
ぐっすりと寝てはいたが、その一声ですぐに起きた。周囲の様子に気付くとはっと起き上り、衣を手繰り寄せてクチナを窺う。そんな彼女を抱きしめて、クチナはそっと囁いた。
「傍に居て」
何が迫ってきているのだとしても、蛇斬にかけて負けるつもりなんて更々ない。この場に居る誰もがそうだろう。ミズチとジャノメが真っ先に小屋の扉へと向かい、外の気配を探り始めている。その動きを見切ったように、外からは騒がしい声が響き渡った。
「大蛇様のご命令である!」
張りのあるその声に、クチナもまた聞き覚えがあった。
「小屋に身を潜める者は全て外へと出でよ。さもなくば、少々手荒な真似をさせてもらわねばならぬ」
三番目――ネネを大蛇様の元まで連れ去ったあの男の声だ。
七番目がそっと周囲に告げた。
「一番目様がお戻りにならぬが、こうなっては仕方がない。このまま突破し、クチナ様を船着き場までお送りしよう。船乗が確保できているかは分からぬが、いざとなれば舟は残ったもので漕ぐしかあるまい」
そう言って黒霧を呼びだす七番目を見て、クチナもまた蛇斬を抜いた。
――ああ、なんてことだ。
内心、悲しかった。
もう待つことは出来ない。一番目も母も到着してはいないというのに、待つことは出来ない。会えるなどという期待は捨ててしまった方がいいだろう。会いたかった。少しだけでもいいから会いたかった。この悔しさを蛇斬に託し、ネネと共に船着き場を目指すしかないのだろう。
「おいで、ネネ」
仲間の鬼灯達がそれぞれ戦う準備を進める。下男下女でさえもそれぞれが戦える得物を確保する中、ネネは少々の荷物が入った風呂敷を背負っているだけ。戦わせることなど出来ない。ネネに相応しい得物も見当たらない。心細さが彼女の表情を翳らせているのだろう。だが、クチナはその手を握って引き寄せた。
「大丈夫。わたしが君を守る」
戦えぬのなら自分が牙になるまで。
緊張が緊張を呼ぶ中、いつ崩れてもおかしくない橋の上に立たされているかのような怯えが生じてしまいそうで、クチナは内心ひやひやしていた。
そして、ついにその時は訪れた。




