26日目‐5
北の通路を守るのは四番目。
彼はニシキと仲が良かった男。だが、だからと言って安直に説得が通じるとは思わない方がいいだろう。
それでもクチナはトグロに言われた言葉をしっかりと心に留めていた。
蛇斬は仲間を斬るために使うのではない。ネネを取り返すために使うのだ。蛇斬が黒霧とは比べ物にならない苦痛を鬼灯にもたらすというのなら、トグロの言葉はしっかりと胸に留めておくべきだろう。
それでもいざ戦いに身を投じるとなれば、クチナは異様に緊張を覚えた。
西側には多くの同志がいる。一番目に七番目、ジャノメ以下のオニや若人、リンなど見習い子等の多数が西側へと別れた。一方、北側は少数だった。ミズチ、そしてジャバラなど戦えるナバリ等がクチナと共に居た。
合図は混乱。北を見張る鬼灯達が動揺を示し、見張りが崩れた時こそ、クチナ達の動く時であった。あわよくば、見張りの数名を援護に送るかもしれない。それを願いながら、クチナは時を待った。
そうしてそう遠くない場所から怒声は聞こえてきた。
首尾よく暴れているのだろう。争う声は更に酷くなり、剣戟の響きも聞こえてくる。異様な事態を把握して、見張り達は互いに顔を見合わせていた。
息を殺しながらクチナはミズチやジャバラらと共に物影に身を隠しながら様子を窺う。見張り達は騒動を聞くなり、緊張を深めた。やがて、四番目が顔を出し、外を見張るオニ達に何かを告げる。数名が頷くと、あっさりと駆けだしていった。向かうはきっと北であろう。残ったのはオニが数名と若人、そして筆頭代理の女であった。
構えるクチナに、ミズチはそっと囁く。
「待て」
その目はじっと筆頭代理に向いていた。
「四番目だけでも面倒だが、あれも厄介な力を持つ妹分だ。もう暫く待て」
渋々従いながら、クチナは更に様子を窺った。
暫く経つと、先に何処かへ行ったオニの一人が戻ってきた。顔を出した四番目と何やら話すと、見張りを行う数名と話をし、苦い表情で何かを命じた。解せない様子のまま、筆頭代理もまた戻ってきたオニと共に姿を消した。
残るはオニが二人と若人、四番目のみ。
四番目が渋い顔のまま通路の奥へと引っ込んでいく。その背をちらほらとオニや若人たちが見送っていた。
「今ね」
ジャバラが目を光らせ、ミズチもそれに頷く。
黒霧を手に二人が真っ先に飛び出して行った。
不意をつかれたオニや若人たちが目を丸くして応戦する。だが、黒霧を相手に戦うのはさすがに辛いのだろう。二人と共に来たナバリ達の攻撃までもは受け切れず、すぐに悲鳴と怒声はあがった。慌てて顔を出した四番目がその光景に恐れを抱く。そんな彼の怯みに乗じて、クチナは走った。
蛇斬の煌めきを鬼灯が恐れないわけはない。
いかに八人衆の四番目へと上り詰めた男であっても、本能的な恐怖はとっさに出てきてしまうものであるようだ。黒霧を構えて防御姿勢を取るのに必死な彼のすぐ脇をすり抜けることは、元よりすばしっこいクチナにとってさほど苦労しない事だった。
四番目はクチナを一人通してしまった事に気付いて慌てて振り返ろうとするも、そこへミズチが容赦なく攻め込んだ。黒霧同士をぶつけあい、四番目は御社中に響き渡るかという声で叫んだ。
「クチナ様だ! クチナ様がいらしたぞ!」
吠えるようなその声から逃れるように、クチナは大蛇様がネネと共に待っているはずの御座敷を目指した。
「大蛇様の御膝元に向かわれた! 誰か!」
南や東を守っている者たちにも聞こえているかもしれない。
だが、聞こえていたとしても、間に合わないだろう。
クチナは真っ直ぐ大蛇様の御座敷を目指し、そして到達した。引き戸を乱暴に開けて、蛇斬と共に獣のように踏み込んでいった。
「大蛇っ!」
目を真っ赤にしてそう叫べば、御座敷にて優雅に座り込む大蛇様が澄まし顔でクチナを迎えた。脇には紐で縛られたネネが座らされている。
敬称などもはや何処かへ飛んでいた。猛々しさが暴走し、クチナの心には大蛇様への怒りしか宿っていなかった。
そんなクチナの姿に大蛇様は微笑みを浮かべる。
「随分と逞しいこと。妾を呼び捨てるとはお前も立派になったものよの」
その手に握られているのは、神刀。蛇斬の代わりに大蛇様が日頃手にしている刀であった。クチナが器となれば、蛇斬と対を成して大蛇様を守る事となる代物。蛇斬とは違い、いついかなる時もその傍を離れることはない格の高い刀である。
蛇斬と同様、こぼれることも知らずに存在し続けるその輝きを目にした途端、クチナの闘志がやや切り取られた。見慣れないわけでは決してない神刀だが、いざ一対一でぶつかり合うと思えば、多少の怖さは生じたのだ。
それでも、大蛇様の隣に縛られて怯えているネネの姿が視界に入る限り、新たな闘志は怒りと共に沸き起こった。
ネネをあのように囚われているのが悔しかった。
クチナは自覚していた。これは友を奪われたという怒りではない。きっと自分の為の生贄を没収された腹立たしさなのだ。相手が大蛇様であろうと何であろうと、八つ裂きにしてネネを取り返したい。そのくらいの暴力的な感情がクチナの心身から怯えを追いだしていた。この動機はいいものなのだろうか。
判断する間もなく、クチナは思いなおした。
心情が何であれ、いま大切な事は一つ。ネネを取り返さなければということだけなのだ。
「覚悟しろ、大蛇!」
走り出して襲いかかれば、大蛇様は容易くそれを受け流した。あまりに呆気なく封じられ、クチナは一瞬だけ動揺した。だが、すぐに気を取り直して二、三と攻撃を続けた。だが、大蛇様は冷静だった。
「そのような戯れで妾に覚悟を問うとは」
諦めずに蛇斬で攻め続けるクチナを真っ赤な目で睨みつけると、一撃を受け止め、笑みを含んだ囁くような声で大蛇様は言った。
「甘いぞ、クチナ」
力強い振り払いにクチナの身が仰け反った。その大きな隙を見逃すはずもない。あっという間に大蛇様は詰め寄り、蛇斬を持つクチナの手を掴みあげた。神刀で腹部を抑え、刃を当たるか当たらぬかの瀬戸際でさまよわせながらにやりと笑う。
「自ら妾の元に飛び込んで来るとは嬉しいものよ。さて、クチナ。お前は妾を怒らせ続けた。もう言い逃れは聞かぬ。ネネは妾が頂こう。その前に、お前自身からだ」
「クチナ! クチナっ!」
縛られたネネの悲鳴が聞こえる中、大蛇様の手はゆっくりと動いた。汗が首筋を伝い、背中を流れて行くのを感じながら、クチナはかすれ声で拒絶した。
「や、やめ……」
直後、堪えがたい痛みが彼女の身に与えられた。
簪とは比べ物にならない痛みは、神刀によるもの。刃を当てられた傍から血は流れだし、反対にぞわぞわとした何かが入りこんでいく。そしてその感触と連動するようにクチナの視界は端々から蟲に喰われていった。
(哀れな人)
その耳に届くのは、聞きなれた声。
(大蛇様に逆らい続けて、苦しみ続けるなんて)
その姿は見えずともクチナには分かった。蟲と共に自分の心を支配しようとする者がいる。痛みと幻惑にうろたえるクチナを、大蛇様は遠慮なく組み敷いていった。
「駄目……やめて!」
ネネの声は遠くで聞こえているようだった。
(大丈夫)
代わりに近くで聞こえるのは、先代の黒の少女の声。
(怖くなんてないわ。大蛇様に身を委ねなさい)
温かく包みこむようなその声にクチナの意識が揺らいでいく。床に寝かされたまま、定まらない視界の中で大蛇様の真っ赤な目を見つめたまま、クチナはただ身体の中で蟲たちが侵攻していくのを感じていた。
――いけない。
蛇斬を持つ手が震えている。ネネを触れない中、それでも全身が敗北を拒んでいる。
――このままでは、いけない。
(いけなくなんかない)
大蛇様の接吻が傷に沁み込んでいく。それでもクチナの心は痛みよりも懐古に囚われていた。初めての感触なのに、まるで大昔にも味わったかのよう。クチナにとって奇妙でしかなかった。
(これが自然な事。あなたが素直になれば、蛇穴は安定する)
蛇斬を持つ手の力が抜けていく。その手首を握りしめる大蛇様の手は異様なほど熱を持っていた。
(今によくなる。わたしとあなたは一つになる。心配しなくていい。あなたに惑わされた子たちも悪いようにはしない。大蛇様だって分かっていらっしゃるのよ)
――心配しなくていい。
(ええ、そうよ。安心なさい)
ネネの声が遠い。クチナには遥か遠くに感じた。何を言っているかも分からない。そのうちに、声が聞こえていることも分からなくなるのだろう。だが、どうでもいいと感じてしまった。待っていれば向こうから来てくれるのだからと。
――どうして。来てくれるんだっけ。
その時ふとクチナは自分の意識が遠ざかっていることを自覚した。今がどういう状況なのかを思い出し、即座に大蛇様を拒もうとして、腹部の激痛に呻いた。
(何も考えちゃ駄目。痛いのは嫌でしょう?)
透かさず少女の声が諭した。
(あなたに待っているのは不幸ではないわ。ここはあなたにとってもネネにとっても幸せな場所のはず)
だが、痛みはクチナの心を守っていた。
――違う。そんなわけない。
自覚は覚醒へと変わる。
「そんなわけない!」
激痛を覚悟して大蛇様の身体を全力で押し返せば、不思議なくらいの力は生まれた。組み敷かれていた体勢も一気に崩すことが出来た。蛇斬が妙に強い金木犀の香りを放つ。
「こんなの、幸せなわけないんだ!」
クチナの叫びに共鳴するように蛇斬が輝いた。
その刃が狙うのは、大蛇様の身体のみ。かつて怪蛇を裁いた煌めきが、蛇穴を守る女神へと襲いかかった。




