26日目‐2
ネネの目が覚めると、クチナ達はさっそく茂みを抜けだした。
ジャバラの助言があったため、迷うことなく船着き場へと向かう事が出来た。船乗の少年に直接会えないことが後ろめたかったが、その父親が待っていると聞いてクチナは気が急いていた。
早い所林を抜けてしまおう。
風呂敷を抱えて歩むネネを先導しながら、クチナは無駄に広い林を進んだ。船着き場までの道のりがやけに遠く感じるのは何故だろう。その理由はきっと背後から感じる不穏な風のせいだろう。林を抜けるか抜けないかという場所で、クチナはとうとう立ち止まった。
「どうしたの?」
ネネが不安そうに訊ねてくる。答える事は出来ないままその背後を見つめ、クチナは蛇斬を鞘から抜いた。そう待たずして不吉な風の正体は姿を現した。
鬼灯の男が三人。
その姿を見て、ネネもまた小さく悲鳴を上げてクチナの後ろへと隠れる。クチナもまた現れた男達の恰好をみた瞬間に逃げたくなった。どの男も見覚えのある者だった。そのいずれもが今まで見たこともないほど険しい顔でクチナを睨んでいる。
手に持っているのは黒霧。
ナバリ等ではない。現役の八人衆の六番目、三番目、そして二番目という位置に居る男達がクチナを牽制するように黒霧を見せつけていた。
「出来れば戦いは避けたいものですな、クチナ様」
そう言ったのは二番目であった。
「船着き場はすでに四番目以下が制圧しております。このまま御逃げになったところで無駄ですよ」
聞きたくもなかった事実にクチナはやや動揺した。
船着き場はたった一つ。ジャバラが言っていた船乗も四番目の制圧には逆らえないだろう。ならば事が落ち着くまで何処かに身を潜めるしかない。だが、それをこの男たちが許してくれるはずもなかった。
しかし警戒と闘志をあらわにするクチナに対し、二番目は不敵に笑みながら言った。
「何、悪いようには致しません。ただ、あなたには選んで貰わねばならない事があります。身を隠すならばどうぞご自由に。ただしそうなればあなたの代わりに罪を被る者がおります。誰だかお分かりでしょう。約束された未来を蹴ってまでネネ様の拘束を解いてしまった哀れなあの女ですよ」
その言葉にネネがはっとした。
風呂敷をぎゅっと抱きしめながら、彼女は二番目を見つめる。
「まさか、ミズチ様が――」
「姉さん……?」
クチナもまた動揺を更に深めた。
蟲を与えられるのはその立場を守るためだと大蛇様は言っていたはずだ。それなのに、この男達は何を言っているのだろう。徐々に状況が理解出来てくるや否や、蛇斬を持つ手も震えていった。
その様子に満悦した様子で二番目は頷いた。
「その通り。ミズチの事を思うのなら、どうぞお戻りください。でなければ、あの女は存在を消されることになるでしょう。優秀な血は貴重なもの。けれど、あなたはもっと貴重なのです。その為になら消費出来る存在に過ぎない。さてさて、戻りたくないならばどうぞご自由に。鬼灯殺しは生贄の儀に等しい。恐怖しようが蟲を与えられてはあの女も逃げられぬ。今回の事で現をぬかす不誠実な鬼灯たちも、ミズチが捧げられれば目を覚ますことだろうとも」
そう言って背を向ける二番目を見て、クチナは思わず一歩踏み込んだ。その動きに三番目と六番目が警戒を露わにする。だが、その二人よりもクチナを振るわせたのは、そっと振り返り、真っ赤な眼光で睨みつけてくる二番目一人だった。
「蛇斬をぶつければどうなるかお分かりでしょうな」
その一言でクチナは辛うじて踏みとどまった。
冷静さを欠いたまま混乱する心が落ち着かぬうちに、二番目は目を細め、再び背を向けて歩みだした。
「それでいいのです」
小枝を踏みつぶしながら、彼は仲間を連れだって去っていく。
「よくよく考えて行動なさい。クチナ様」
黒霧を見せながら去っていく彼ら三人に、斬りかかる事なんてもう出来なかった。
三人の姿が見えなくなってしまうと、ネネがその場に座り込む音が聞こえた。傍に寄れば、ネネは震えの止まらぬ片手でクチナに縋りついた。目線を合わせてその背を支えれば、ネネは目を閉じ、震える唇より言葉を漏らした。
「わたしを逃がしてくれたのは、あなたのお姉さまなの」
そう言って潤んだ瞳でクチナを見上げる。
「あなたのお姉さまの協力がなければ、わたしは逃げられなかった。ああ……今度会った時は逃げなさいとそう仰っていたのに……」
「わたしもそう聞いていた。希望を捨てるなと姉さんはわたしに言った。蟲を与えられるのなら、大蛇様は悪いようにしないだろうと。かつての大蛇様ならば信じられない。蟲を与えるのは姉さんのためだと言っていたあの方が、こんな真似をするなんて……」
どんなに虚しい幻想であったのか、クチナは思い知った。
身体に付けられたあらゆる傷は、ネネの気と生まれ持った丈夫さですっかり治してしっまっていた。だから、忘れてしまっていたのだろう。クチナを労わるような声はうわべだけ。大蛇様の頭には契約のことしかない。古の約束通り、この蛇穴を守るためにと大義を掲げれば、我が子だと愛する子孫たちさえもぞんざいに扱えるのが大蛇様であるのだということを。
蛇斬を手に持ったまま、クチナは両目を閉じた。
このまま逃げ隠れすれば機会は訪れる。隙を見て船乗に頼めば――或いは脅せば、この火の小島の脱出も出来るだろう。
けれど、クチナは鎖にでも縛られたように身体の重たさを感じていた。このまま引き返さなければ、姉ミズチがどうなってしまうのか、分かっていた。八人衆がいったことは脅しなんかではないだろう。大蛇様さえそう命じれば、本当に見せしめにされてしまう。特に今の大蛇様ならば、そんな冷酷さに酔い痴れてしまう可能性だってないわけではないとクチナは気付いてしまった。
クチナが悩んでいると、ネネがふとその手を握った。
「クチナ、戻りたいのでしょう?」
震えた声に、クチナも震える。敗北を認めるなんて嫌だった。それでも姉を見捨てる事が出来ない。葛藤のあまり返事の出来ないクチナにネネは縋りついた。
「戻ったっていい。わたしだってミズチ様を見捨てたくないもの」
「ああ……ネネ……御免。不安にさせて御免。でも、諦めるわけじゃない。諦めてなるものか」
そう言ってクチナはネネに言った。
「姉さんを助けに戻りたい。ネネは安全な場所に――」
「いいえ、わたしも行く。あなたの力になりたい。もしも怪我をしても、どうかわたしの気を使えば癒せる。お姉さんに蟲が与えられていたとしても、わたしならば祓うことだってきっとできる」
ネネは強い眼差しでそう言った。
「わたしも連れて行って。お願い」
それはクチナもまた頼りたかった言葉であった。
ネネには特別な力がある。蟲はネネの気を厭い、力を失くす。欲望を膨らまし、大蛇様の思うままとなりかけたクチナの心を元に戻してくれるくらいの力がある。この力があれば、蟲を直接与えられた姉も救えるだろうとクチナは強く信じていた。
ネネが力を貸してくれるというのなら、喜んで甘えたい。だが、クチナは理解していた。これは目に見えた罠。姉を囮に身柄を抑えるべく、大蛇様側も準備をしていることだろう。
気を引き締めなくては。ネネを守り、助けてくれた姉を今度は助けに行くのだ。
「有難う、ネネ」
クチナはネネを抱きしめて言った。
「どうか私から離れないで」
不安しかない戻りの道であった。
しかし、二人に躊躇いなどなかった。




