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3日目‐1

 目を覚ませば、まだ昼間であった。

 眠ったのは明け方。クチナの気が済むまで北を目指して歩み続けて暫く。かなり歩いたはずだけれど、泣女山まではまだ遠い。日の神が顔を出す前に二人は川沿いの林の茂みへと身を寄せ、そのまま眠りに就いたのだった。


 それから夢現を彷徨い続けて暫く経った今。

 眩しい太陽の光が木漏れ日となって頬を照らしてくる。そのまばらな明りに目を奪われながら、ネネはふと起きあがっているクチナに気付いた。


 どうしたの、と問おうとしたが、すぐに唇を結んだ。ぴりぴりとした緊張感を宿し、クチナが川を睨みつけていたからだ。その手は妖刀の鞘に触れている。いつでも立ち上がれるように音もなく体勢を整える彼女に、ネネも黙ったまま倣った。恐らく、彼女が敵視しているのはイヌ達ではないのだろう。緊張感に唾を飲み込んだその時、クチナがそっとネネの手を掴んで囁いた。


「……こっち」


 突如ぐいと引っ張られ、ネネは声をあげそうになった。しかし、その声が漏れる前に、クチナの手がネネの口を塞ぐ。息も苦しい中耐えて川辺を眺めてみれば、日の光を浴びながら何者かが歩んでいる様子が見えた。

 聞こえてくるのは、かつて牢の中でも聞いた笑い声。

 幼い童のはしゃぐ声が響き渡っていた。


 ――子供?


 しかし、その姿がはっきりと見えた時、ネネはぞっとした。

 人間の子供なんかではない。それは、雌鶏様がいつか教えてくれたアヤカシの一種。全身が黒く虚ろな目に光を宿す子供のようなアヤカシであった。


「……影鬼だ」


 蚊のなくような声でクチナが呟いた。

 影鬼。ネネもその存在を本で知ってはいた。見た目が不気味なだけではない。彼らは人間を食らう。力が無いようなふりをして、集団で人間を襲い、笑いながら捕食する。雌鶏様の教えでは、黄昏時より現れて、日の神様が顔を出す頃には何処へともなく消えてしまうものであるそうだが、日の光の下ではしゃぎながら走る彼らは違うようだった。違うけれど、同じ仲間であるだろうとネネは理解した。


 クチナは影鬼達を警戒し、見つめていた。

 密着する彼女の鼓動はネネにも伝わり、お互いに緊張感が高められてしまう。見つかったならば、戦うのか、逃げるのか。影鬼など鬼灯の者ならば恐れるようなものではないだろう。だが、クチナは息を殺して身を潜めていた。


 見つかりたくない理由があるのだ。

 口を塞がれ、緊張しつつも、ネネはその理由を考えた。

 ただの影鬼だったなら、これまでのアヤカシのように斬り捨ててしまえばいい。どんなに数で不利でも、クチナはアヤカシに負ける様子を見せなかった。攫われて三日目だが、皆、クチナに全力で挑みながら、その力の半分も出しきっていないクチナにあっさりと斬り伏せられた。それも、命だけは留めてやるという手加減までしたクチナに。そんな彼女がただの影鬼を怖がるだろうか。

 怖がる理由は何処にあるのか。

 考えに考えて、やがてネネは一つの結論に辿り着いた。


 ――もしや、あれは大蛇様の迎え……!


 だが、暴れようとするのとほぼ同時に、ネネを拘束するクチナの力は強められた。微かな声でクチナはネネに囁く。


「よく分かったね。でも、行かせないよ」


 影鬼たちはネネ達に気付かずに走り去っていく。

 不気味で恐ろしいその形相。それでも、遠ざかっていくアヤカシの後ろ姿は、ネネにとって絶望の光景であった。


 ――待って、お願い……。


 口を塞がれながら声を出そうとするネネに、クチナはとうとう妖刀を抜いた。真っ白な刃をネネの身体に突きつけ、苛立ちを極力抑えたような声で彼女は更に囁く。


「死にたくなかったら、言う事を聞いて」


 その一言だけで、ネネは委縮した。

 抗うならば容赦なく斬ってしまうつもりだ。大蛇様の手に戻らなければいいということは、ネネの生き死になど関係ないのだろう。

 ネネは震えた。大蛇様以外のものに命を捧げることは大罪。命だけは生贄の儀まで守らねばならない操だと言われてきたネネにとって、命を曝されるほど恐ろしいことはなかった。それに、痛みを想像するのは怖かった。クチナの持つこの妖刀は、どれだけの悲鳴を産んできただろうか。

 思い出すだけで怖かった。

 動けなくなるネネを抱きしめたまま、クチナは優しげに告げる。


「いい子だ。そのままじっとしていて」


 柔らかいけれども逆らえば簡単に覆るだろう。それが分かるだけに、ネネは震えながらじっとしていることしか出来なかった。影鬼たちのものと思われる童の笑い合うような声は次第に消えていく。川辺より漂ってくる冷気も去り、辺りは先程よりもっと明るくなってきた。クチナはその様子を十分過ぎるほどに確認してから、やがて力を抜いた。


「行ってしまったね」


 ほっとしたその様子に、ネネは窺いつつ訊ねる。


「あれは……大蛇様のお使いなの?」

「うん、そうだよ。大蛇様の可愛がっている影鬼たちさ。太陽の下で動ける影鬼は全て大蛇様の愛玩だ。手を出せばたちまちのうちに天罰が下ると言われている。それに、彼らに見つかったら面倒だからね」

「面倒って?」


 聞きだそうとするネネを、クチナはそっと見つめる。鳶色の目は人間のものによく似ているが、その瞳の形はやや縦長で、きつい印象をネネに与えた。だが、いつまでも怖気づいて言いなりになるのもネネは悔しかったのだ。せめて答えるまでと、ネネもまた睨むように視線を返す。すると、クチナは苦笑を浮かべて目を逸らした。


「面倒事は、面倒事だよ。ただ、面倒なだけで問題なわけじゃない。君を傷つけずに進むにはこうするのが一番ってだけさ」

「傷つけずに……?」


 恐る恐る窺うネネをクチナは流し目で見つめる。


「奴らに見つかって面倒なことになったら、わたしは君を盾にする。冷たい刃で君のやわ肌を抑えて、大蛇様の使い共を脅す。そうしてでも、逃げ道は作るつもりだ」

「そんな――」

「それが嫌なら、奴らの前で騒がないで。声をあげず、わたしの手から離れない。その約束が守れるのなら、わたしもそんな乱暴な事はしないと約束するよ」


 面と向かって言われ、ネネは戸惑った。

 頷くのも躊躇われたのは、帰りたいという気持ちを拭えないからであるだろう。クチナと約束すれば、何もかもクチナの願う通りに事が運んでしまう。それは、大蛇様に対する背徳行為であり、蛇穴全体への裏切り行為でもある。

 何のために守られ、何のために養われてきたのか。

 ネネはそのことをよく知っていた。他国と比べても大蛇様の恩恵もあって豊かである蛇穴にあっても、生まれる人間の中には飢えや病で死んでしまうような者もいる。それなのに、ネネは産まれてこの方ずっと大事にされてきた。それは何故なのか、分かっているだけに、ネネは辛かったのだ。


 ――御免なさい。


 ネネは心の中で呟いた。


 ――御免なさい、雌鶏様。御免なさい、大蛇様。


 黙りこむネネの手を、クチナは引っ張った。


「奴らに謝る必要はないよ」


 突如、心を見透かしたように言われ、ネネは震えた。

 クチナは冷めた表情のまま驚くネネを見つめている。


「赤の少女なんていなくたっていいんだ。大蛇様の力を得て楽をしたいが為に、年端もいかぬ少女の命を犠牲にするなんて。そんなの、泣女山に絶望を振りまいた邪神――竜神様のかつての姿と同じじゃないか」

「いいえ、同じじゃないわ……」


 ネネは慌てて反論した。


「大蛇様とはぜんぜん違う。だって、赤の少女はいつの世もわたしだけなのよ。昨日まで平和に暮らしていた人を連れ去った邪神なんかとは全然違う。皆の生活を守るためにわたしの犠牲は必要なの」

「そうやって雌鶏に洗脳されてきたんだね、君は」

「洗脳……?」


 その言葉にネネは眉を顰めた。不愉快だった。これまで赤の少女で居続けることこそが存在意義だと信じてきたネネにとって、クチナの無責任な言葉はあまりにも勝手で、自分本位でしかないように思えたのだ。それが他ならぬ女神の系譜である鬼灯の少女の発言だなんて、ネネは信じられなかった。

 しかし、どんなにネネが不快を露わにしてもクチナは全く気にしなかった。


「洗脳だよ。君を逃がさない為に周りを固めているだけ。雌鶏だって同じだ。自由な生き方を封じられて、生涯大蛇様の為にその身を捧げる」

「いいえ、雌鶏様は尊い御方なの。わたしがいなくなってどれだけ嘆いていることかしら。尊い誓いの元で大蛇様にお仕えしているあの人の為にも早く帰らなくては駄目なのよ」

「馬鹿みたい。一生の一度の誓いなのなら自分の為に使えばいいものを、大蛇様なんかに捧げたりしてさ。大蛇様も大蛇様だ。生贄が必要になるくらいその身を使い果たすこともないのに。そんなに女神の力は必要? 全ての災厄から守ってあげなきゃならないくらい、人間ってどうしようもない生き物なの?」

「あなたって人は――」


 大蛇様の慈悲を馬鹿にしている。

 そう感じたネネはクチナの事を心底軽蔑した。


 大蛇様が鬼灯の一族と共に暮らす鬼灯の里とは、蛇穴を南から斬り込むように存在する湾に浮かぶ火山島に存在する。本土より船ですぐに辿りつけるその場所は、古くより火の神が山を怒らせるとして有名だった。かつては蛇穴本土にも被害をもたらしたらしい。

 だが、大蛇様がこの地に君臨し、邪を引き受けるようになって以来、山の溜めこむ怒りは、鼓動のように呼吸のように小さな噴火をするだけで癒されるようになった。おかげで、山の怒りによって蛇穴に厄がもたらされることもなくなった。それだけではなく、竜神様に任せている川はともかく、大雨も、嵐も、地震も、大蛇様が邪を引き受けることによって全て最小限のものに留められているのだ。


 その力は尋常ならざるもの。だからこそ、大蛇様は生贄を癒しとして欲した。百年に一度の生贄。その血肉がもたらす癒しによって、大蛇様は再び邪を引き受けることが出来る。

 それをクチナは馬鹿にしているのだ。


「大蛇様のお陰でどれだけの人が平穏に暮らせているか分かっているの?」


 ネネは怒った。


「あなたのせいでもしも大蛇様が力を失ったら、どんなことになるのか――」

「分かっていないのは君の方だよ、ネネ」


 冷たい声でクチナは答えた。


「女神の力はたしかに偉大だ。大蛇様だって人間たちを思うあまりこんな風習を産んでしまったのだろう。でも、それでいいの? 君は本当にそれでいいの? 蛇穴の人たちが楽をする為に、これから先に過ごすはずだった時間を全て奪われても、君は許せるの?」


 嫌がるネネを引っ張りながら、クチナは問いただす。

 目指しているのはやはり北なのだろう。川沿いが見えるぎりぎりの林の道なき道を踏みしめながら、クチナは荒々しく先を目指す。


「許せるとか、そういうのじゃない」


 引っ張られながらネネは必死に反論した。


「だって、それが赤の少女だもの。その為にわたしは産まれたの。尊い御役目のために育ってきた。これはとても名誉な事なのよ!」


 ネネが叫ぶ声が、林に響き渡った。

 クチナはぴたりと立ち止まる。長い黒髪をゆらりと揺らし、ゆっくりとネネを振り返ると、何処までも冷たい視線でネネの顔を見つめた。


「尊い御役目、名誉な事、か」


 吐き捨てるようにそう言ってから、再び前を向き直り、クチナは深く溜め息を吐いたのだった。


「素直にそう思える君が、正直羨ましいよ」


 ぼそりとそう言ったかと思うと、またしてもネネを無理矢理引っ張って歩きだしてしまった。そうして、クチナは唇を結んでしまった。背中越しにその雰囲気を感じたネネは、それ以上、口を開かずに引っ張られるままに歩み続けた。


 ――羨ましい?


 黙ったまま従い続け、ネネは疑問を浮かべた。


 ――どういうこと……。


 分からないまま時は過ぎていく。

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