25日目‐5
蛇斬の刃に倒れるということは、鬼灯にとって想像以上の苦痛を与えられるということであるという。
クチナはその痛みを知らずに育った。
蛇斬は主人と認めたクチナに牙を剥かない。クチナが敵と認識した相手のみを斬りつける妖刀である。だから、鬼灯は皆、蛇斬を持つクチナを恐れていた。
しかし、実際に蛇斬で斬られた鬼灯など殆どいないだろう。
罪を犯したことによって死罪となった鬼灯も、蛇斬で処刑されることはない。彼らを罰するのは大蛇様の所有する別の宝刀であり、蛇斬ではない。怪蛇を討伐した過去のある蛇斬は、命を奪うことよりも苦しめることに特化しているからだ。
命を奪われる以上に、蛇斬で斬られた蛇は苦しむことになる。止めはその苦痛からの救済のための一撃。命を奪う事こそが慈悲であると言われるほど、蛇斬が敵とみなした蛇のアヤカシにもたらす害は深刻なものだった。生かしたまま救える者がいるとすれば、大蛇様だけであろう。
クチナはそれをよく聞かされて蛇斬と付き合ってきた。
大蛇様はかつてこの力を利用して泣女山の怪蛇をこらしめた。命を奪わず、苦しませ続け、人間たちを虐げないと約束させてから、もう一つの宝刀昇り竜によって怪蛇より邪心を退け、竜神にしてしまったのだ。
蛇斬は頑固な者の心を変えてしまうほどの苦痛を生みだすもの。蛇のアヤカシである限り、その苦痛からは逃れられない。そんな知識を思い出しながら、それでもクチナは目の前で苦しむ八番目マムシの姿に戸惑いを覚えていた。
「く……うぐ……ああ……馬鹿な。そんな……大蛇様」
床に這いつくばり、マムシはもがく。
クチナが斬ったのはほんの僅かである。それでも、刃にあたり傷を作った部位はすぐさまマムシを苦しめ始めた。泡を吐きながらその場に崩れるマムシの姿を目の当たりにすれば、兄の仇などという勇ましい思いもかき消えてしまった。その怯えに戸惑いながらも、クチナはどうにか気を引き締め、苦しむマムシの身体を飛び越えて廊下へと出た。
「待て……くそ……身体が……」
背後よりマムシの悲痛な声が聞こえてくる。
だが、クチナは振り返らずに辺りを見渡した。階段は廊下の真ん中あたり。階段を過ぎた向こう側は元筆頭のナバリたちの部屋へと繋がっている。この物音が聞こえていないはずもなく、既に母と共にこの場所に閉じ込められている幼い子供達が部屋のあちこちからクチナ達を怖々覗いていた。そんな我が子達を慌てて部屋に引き留めながら、身重のナバリ達は嘆き始める。
「ど、どうかお気をお鎮めください、クチナ様」
「八番目様が……ああ、なんてこと」
「大蛇様に知られたら大変な事ですよ! クチナ様、どうぞお部屋にお戻りください」
母達の必死な叫びに幼い子供達たちが恐れて泣き始める。その声に煽られる形で、クチナは走り出した。
――騒ぎを聞きつけて誰かが来てしまう。
ナバリ達が悲鳴を上げて部屋に戻る中、目指すのはただ一つ階段であった。ネネを背負ったまま、身重で戦えないナバリを無視する形で地上を目指した。
知られるのは時間の問題であった。せめてその間に出来る限り逃げるのみ。
だが、階段を見上げたクチナは、そのまま固まってしまった。ネネもまた震えながらクチナにしがみ付く。行く手を阻んでいたのは、また別の八人衆。七番目であった。
――また戦わなければ。
蛇斬を構えるクチナを前に、七番目はゆっくりと階段を降りてきた。その姿に、ナバリ達がほっと息を吐いた。
「七番目様、八番目様が蛇斬に……」
ナバリの一人の証言に、七番目は冷静に頷いた。
「そのようだね。可哀そうに、あれを手当てできるのは大蛇様だけだ。だが、報せに行く前にやらねばならぬことがあるようだ」
「お前も同じようにされたいか、七番目!」
警戒と敵意を露わにしながらクチナが言うと、七番目は微かに笑みを漏らした。黒霧を呼びだす事もなく、彼はただクチナに向かって手を伸ばす。
「七番目様! お気を付けください!」
ナバリの一人が悲鳴染みた声をあげるが、七番目は気にせずクチナとネネにだけ言った。
「御二人とも、どうぞ私と来てくれませんか。此処で戦うのは少々狭すぎる。幼い子供も見ている前であるし、奥様方の御心身にもよくない。それに、そこで伸びている奴の手当てを大蛇様にお願いせねばならない。放っておけば死んでしまうかもしれないからね」
「ふざけるな。大蛇様に突き出されるくらいなら、お前もあの男と同じようにしてやる!」
吠えるクチナを見つめ、七番目は目を細めた。そしてクチナとネネにしか聞こえないほど小声で彼は言ったのだった。
「正直な事を言えば、私も奴は嫌いだ。ニシキの無念を晴らしてくれたのは感謝したいほど。でも、殺してしまうのは気分が悪い、そうは思いませんか?」
その一言で、クチナははっとした。伸ばされる手に腕を掴まれたが、抵抗する気は起こらなかった。そんなクチナの様子を見ると、七番目はほっとしたようにナバリの女たちに向かって告げた。
「騒がせてすまない。奥様方、そこに倒れている奴には触れてはなりませんよ、子どもたちにもよくよく言い聞かせください。その傷は蛇斬によるもの。お身体に障ります」
丁寧にそう忠告すると、七番目はクチナとネネへと視線を移し、優しげな声で言った。
「さ、行きましょうか。お互い無益な争いは避けたいところですからね」
不安そうなネネの視線を感じつつも、クチナは大人しくその言葉に頷いた。
ナバリの女たちは緊張を露わに七番目とクチナのやり取りを見守っていた。だが、自分たちに出来る事はないと判断したのか、見送りきらない内に各々我が子を連れて部屋へと戻って行った。七番目はそんな彼らに安心したのかクチナから手を放し、足早に階段を上がり始めた。クチナはネネを床に下ろし、手を繋いで七番目の後を追った。警戒するに越したことはない。だが、この七番目の青年はどうも只の傀儡ではないようだ。
階段を上がり切れば、久々に見る外への扉が真っ先にクチナの目に入った。その方向を見つめたまま、七番目は立ち止まった。クチナとネネを振り返ることもなく、彼は告げた。
「今なら廊下に誰もいない」
ほんの少し赤く染めた双眸で閉じ切った扉の向こうを眺めたまま黒霧を呼び出してそのまま床へと向ける。
「大蛇様はまだミズチの元。他の者たちも、今はまだうろついてはいない。後のことは気にせず、行きなさい」
その姿にクチナは不穏を覚えた。すまし顔の七番目を見上げ、そっと窺う。
「どうして逃がしてくれるの?」
ネネの手を掴んだまま問いかけてみれば、七番目はほんの少しだけ笑みを浮かべた。悦びなど含まれていない笑み。その奥にほんの少し残されているのは悲しみ。クチナにもよく分かるほど、彼は悲しみを背負っていた。
「私はミズチと親しい。それに、あなたの兄であるニシキも親しい友でした」
黒霧を向けることもなく、七番目は淡々と答えた。
「お互い八人衆となった以上、こうなる可能性も考えなくてはならなかった。分かってはいたのですが、やはり耐えられない。ニシキはいつも妹であるあなたを気にかけていました。私も同じです。あなたは次代の女神。ならば、あなたの反感もまた大蛇様のものに変わりない。そう思えてならないのです」
その目は潤んでいるように見えたが、涙を流す気配はない。とうに流れきってしまったのだろう。彼の姿の端々に死んでしまった兄が見えるような気がして、クチナもまた悲しさを覚えた。そんなクチナの手に温もりが与えられる。ネネの気が少しでも悲しみを和らげようとクチナを優しく包み込んでいた。
「さあ、お行きなさい。幾時も待てません。私が声を張り上げるまで、出来るだけ遠くへお逃げ下さい」
追い立てられるように黒霧を構えられ、クチナは短く頷いた。
恐らくすぐにでも彼は人を呼ぶだろう。その前に、せめて御社から逃れることが出来たら。
無言のままネネの手を引いて走り、クチナは締め切られた扉を開けた。七番目の言う通り、廊下には誰もいない。それを確認するや否や、クチナは外を目指して走り出した。
「誰ぞ、誰ぞ起きておらぬか!」
そうこうしている内に、七番目は人を呼び出した。
その声が鬼灯を呼んでしまわぬうちに、クチナはネネと共に逃れた。連れ戻されれば今度こそただでは済まないだろう。最後の機会であるだろうとクチナはしっかりと把握していた。
「クチナ様? ネネ様!」
七番目の声を聞きつけたのだろう。
御社に住み込む鬼灯たちが次々に顔を出しはじめ、クチナとネネを目撃した。騒ぎは次第に大きくなっていく。行く手を阻もうと動くものが現れるまでにそう時間はかからない。
人が集まってしまう前に、クチナは蛇斬を皆に見せつけた。
「道を開けろ! ついてくるな。蛇斬の呪いを恐れるのなら、わたし達の邪魔をするんじゃない!」
暴れまわりながらネネを引っ張るクチナの姿に、鬼灯たちは一瞬にして事態を飲み込んだ。
「なんてこと、クチナ様がご乱心だ!」
「誰か、筆頭代理を……いや、八人衆をお呼びするのだ!」
「大蛇様にもお伝えしなくては」
混乱する鬼灯たちの間を掻い潜り、クチナはネネを引き寄せて小声で告げた。
「傍によって」
――雨戸を壊すしかない。
しかし、それは叶わなかった。
雨戸は不思議なくらい硬く、蛇斬であっても壊すのは困難だった。そのうちに、騒ぎを聞きつけて見覚えのある女が姿を現した。名は忘れたが、筆頭代理の一人だとクチナはすぐに分かった。姉ミズチの跡を継ぐ可能性の高い厄介な人物だ。顔を見るなり逃れるクチナとそれに従ってついて行くネネに向かって、筆頭代理の女は悲鳴じみた声で叫んだ。
「クチナ様!」
振り返りそうになるネネを引っ張って、クチナは外に出る道を探した。しかし、見つからない。どこも固く閉ざされている。外から遠く感じるのは、大蛇様の力のなせる業なのだろうか。蛇斬さえも通さない雨戸は開くことも知らない石壁のようだった。いちいち開けている時間などない。
「お待ちなさい、クチナ様!」
名も知らぬ筆頭代理が追いかけてくる。
彼女の持つ刀は黒霧ではない。名のあるオニが持つに相応しい名刀ではあるが、黒霧ほどの脅威ではない。それでも、逃れる場所のない狭い廊下では毒でも含まれているかのような牙に思えた。
「皆、起きなさい! クチナ様を、ネネ様を、逃してはなりません!」
雨戸のない場所に逃れなければ。そのまま庭に飛び出せる渡り廊下に。だが、そんなクチナの魂胆など鬼灯の誰もが理解しているだろう。外に出られる場所を塞ぐ形で立ち尽くしているのは、八人衆に近い力を持つ若人たちだった。
一人ならまだ戦える。だが複数が相手となると話は別だ。
クチナはネネの手を引っ張って、段々と人気のない隅へと逃げていった。姿を晦まし、騒ぎが少しでも落ち着くのを待ちながら、じっくりと機会を窺う。そうこうしている内に大蛇様が現れてしまえばもっと状況は悪くなる。そう分かってはいたけれど、焦って突っ込めば取り押さえられてしまうだろう。
物陰に身を潜めながら焦りを抑えるクチナにネネはぴったりと身を寄せていた。暖かな気の流れが繋ぐ手を介してクチナにも伝わってくる。どうにか心を落ち着けようとしてくれているのだとクチナは理解し、その手を静かに握り返した。
そんな時だった。
「……クチナ様、ネネ様」
すぐそばに声をかけてくる者が現れ、クチナはすぐさま警戒した。
見つかってしまった。
蛇斬を構え、クチナは声のした場所を睨んだ。その者がいたのは廊下ではなく、物置として使われている一室。扉をほんの少しだけ開けて、覗いているのはクチナも覚えのある若人の少年であった。
「トグロだな? 見知った顔でもわたしは容赦しないぞ!」
敵意の混じった目で見つめるクチナの表情を、トグロは恐れたりしなかった。
「俺には戦う気なんてありません。どうか此方へ。そこは見つかってしまいます」
それは、七番目と同じような声かけだった。




