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25日目‐4

 ――来た。


 クチナはすぐさま身を起こした。

 香って来るのは抗えないほど美味しそうな香りと、嗅ぎ慣れた金木犀の香りだった。蟲たちがざわめいているのが伝わってくる。

 ネネだ。クチナにはすぐに分かった。身体が求めている。扉を開けようとしている彼女を食べたくて仕方なかった。

 だが、ネネの香りには金木犀の香りが混ざっている。蟲たちが喜ぶ香りだ。しかし、それだけではない。


 ――あの香り……。


 蛇斬の香りだと分かったそのとき、混乱していたクチナの心に少しだけ冷静さが戻った。


 ――蛇斬……わたしを咎めている?


 威圧的で恐ろしいものがネネと共にいる。蛇に苦痛を与えるその刀の暴力的な力が、自分に向けられているような気がして、クチナは怖くなった。

 その恐怖が、クチナをずっと支えてきた想いを甦らせた。


 ――八花に……。


 だが、身体はすっかりネネを受け入れる準備を整えている。心だけがついていかない中、クチナは必死に身をよじり、身体を動かそうともがいた。

 そうこうしている内に、とうとう扉は開かれた。

 現れたのは、ずっとクチナが会いたかった少女。


 ――ネネ……。


 現れた途端、驚きを隠せない様子でネネはクチナの姿を見ていた。その手には蛇斬が握られている。灯りの乏しい部屋の中で、クチナの姿をよく見ようと一歩近づくのが見えた瞬間、クチナは恐れを膨らまして逃れた。

 だが、逃げ場など無い。暗闇など無い。灯りは乏しくても、その全身をネネの視界に曝してしまう。恐ろしい蛇の姿をした自分を、ネネは驚いた様子で見つめている。それにも関わらず、また一歩近づいてこようとした。


「来ないで」


 反射的にクチナは威嚇した。

 その声に、ネネは反応を示したのだった。


「クチナ!」


 どんなに拒んでもネネの足は止まらない。声でクチナの事が分かった途端、ネネは飛び込むようにクチナの身体へと抱きついてきた。恐ろしい欲望に取り付かれているとも知らずに、その美味しそうな身体を寄せてくる。


「クチナでしょう? クチナなのよね?」


 その温もりと吐息、身体の香りがクチナの心を刺激した。


 ――ああ、なんて美味しそうなんだ。


 身をよじりながら、クチナはそれでもかつての願いを思い出しながら言った。


「お願い、離れて。わたしを見ないで!」


 言葉は通じている。こんな身体になっても、ネネに訴える事は出来ている。けれど、その意図はなかなか通じなかった。泣き叫ぶように訴えても、ネネは逃げることもなくクチナに寄り添った。


「ああ、クチナ。会いたかった」


 その感触が恐ろしかった。


 ――早く食べたい。


(我慢しなくていいの)


 ――もっと傍に寄って。


(巻きついてしまいなさい)


 ――駄目だ、ネネ!


 暴れながらクチナはネネに訴えた。


「わたしは敗れてしまった。化け物になってしまった。今はもう君を食べたくて仕方がないんだ。お願い、此処から逃げて。わたしから逃げて。君を食べたくないのに……食べたくないのに、丸のみにしたくて堪らないんだ」


 必死に訴えても、ネネには通じない。


「落ち着いてクチナ。あなたは化け物なんかじゃない」


 蛇の鱗に優しく触れるその感触が、あまりに心地よかった。


「あなたはわたしの友達。わたしと一緒に八花に行く友達でしょう?」

「ネネ……」


 涙があふれ出しそうだった。

 ネネは信じているのだ。自分を信じて、傍を離れないのだ。それなのに、クチナの心はネネを食べたいと言う気持ちから解放されない。情けなさに身を震わせていれば、ネネはその顔に手を当てる。その手から感じるのは、好ましい気の感触だった。


(この力をあなたのものに)


 少女の幻影が語りかける。


「ああ……なんで」


 ネネの身体に身を預け、クチナは少しずつその身体に巻きついていった。もう我慢が出来ない。早くその血肉が欲しかった。恐ろしい形相と欲望に身を任せて見つめるクチナを前に、ネネは覚悟を決めたように瞼を閉じた。


「なんで逃げてくれなかったの……」


 全身に力が籠る。ネネを逃がしたくない思いが強まり、絞め殺してしまいそうだった。それでも、ネネは悲鳴を上げずに、自らその蛇の身体を抱きしめたのだった。


「細石であなたを迎えに行ったあの日の事、覚えている?」


 目を開けてネネは円らな瞳をクチナに向ける。


「あの時、あなたはわたしに御礼を考えていてと言ったわね」

「ネネ……ごめん……!」


 あと少し欲望が勝れば、今にも大口を開いて頭から食べてしまうだろう。そんな切羽詰まった状況下で、ネネは叫んだ。


「わたしの願いはあなたにしか叶えられない。お願い、クチナ。わたしを八花まで――未来まで連れて行って!」


 その途端、クチナは茫然とした。

 ネネの言葉に反応して、蛇斬が鞘の中で強く輝いた。金木犀の香りは強まり、ネネの香りと共にクチナの身体に沁み込んでいった。強い刺激はネネのもたらす気によるものだろう。その刺激はただクチナの心を騒ぎ立てているだけではなかった。解けぬ縄によって自由を奪われていた身体が急に解放されたように軽くなった。


 ――ああ……これは……。


 蛇斬の香りとネネの温もり。二つがクチナの全てを刺激し、優しく包みこんでいく。

 クチナが気付いた時には、大きな変化が起こっていた。ついさっきまで欲望に身を任せた蛇の姿であったはずなのに、ネネに抱きしめられる自分の身体は、まさしく人間によく似た少女の姿にもどっていたのだ。


 ――わたしの……からだ。


「クチナ……ああ、よかった!」


 茫然とするクチナの耳元でネネは泣き叫んでいた。


「わたしの気をもっと使って……」


 ネネに触れられれば触れられるほど、クチナの心は安らいでいった。

 茫然としているのは頭の中で何度も言葉が響くからである。

 八花まで――未来まで連れて行ってという願いは、蛇斬の香りと共にクチナの脳裏に深く浸透していた。

 じわじわと体中の傷が治っていく中で、クチナは実感した。蟲たちが弱まっていく。姉ミズチの蟲も弱らせた光が、ネネの身体からクチナの身体へと注がれていく。その実感は、クチナの頭をますます冴えさせた。


「……ネネ、わたしは」


 蛇斬の鞘に触れ、クチナは確信した。

 もう、ネネを食べようだなんて全く思わない。守られたものを確かに感じ、クチナは運命に身震いした。


 ――大蛇様の思惑通りにはならなかった。


(……嘘よ。嘘に決まっているわ)


 頭の中で先代の声が響く。しかし、とても弱くて遠い声だった。


(クチナ、思い出しなさい。あなたは食べたいはず。ネネを食べるのよ。今すぐに!)


 だが、その言葉は焦ってばかりで全く効力をもたらさないものだった。

 クチナは息を吐いて蛇斬を受け取った。ネネの身体を引き離し、手足がある有難みを実感しながら、心から告げた。


「有難う、ネネ。君のお陰だ」


 そうして、今度は自らネネの身体を抱きしめた。締めつけるのではなく、温かな抱擁。捕食などという禍々しいものはもう消えてしまった。感謝の心のみが今のクチナには宿っていた。ネネに頬を寄せて、クチナは言う。


「君のお陰だ。君には助けられてばかりだ。有難う、ネネ。また会えて、本当によかった」


 言葉を漏らせば漏らすほど、涙はどんどん溢れていった。

 暗い未来しかもうないのだと諦めていた。大蛇の姿になってしまった以上、元には戻れないのだと諦めかけていた。しかし、そうではなかった。ネネの気は、そして、蛇斬の香りは、クチナの欲望を抑え込んでしまった。

 未来を信じて近いあった逃亡の日々の記憶が、クチナの迷いを押さえ込んでしまったのだ。


(……そんなはずないわ。あなたは黒の少女。器として成熟した子。思い出しなさい。ネネの気に惑わされては駄目よ)


 ――惑わしているのは君の方だよ、先代。


 クチナは心の中で言った。


 ――わたしは君と同じ過ちは犯さない。


 動揺が心の中で深まっている。だが、クチナはそれを自分の動揺ではないと知っていた。

 先代の、そして消えようとしている蟲たちの惑いがまるで自分のもののように思えてしまう。きっと、これが彼らにとっての最後の足掻きなのだろう。クチナは冷静にそう判断し、その情動を静かに受け止めた。

 この変事はすぐに伝わるだろう。大蛇様は何処かで見ているはずだ。クチナはそう考えながら、ネネから蛇斬を受け取った。


「おいで。わたしと一緒に」


 ネネの手を握り、そっと立ち上がる。

 既に気配は感じていた。この場所を目指して荒々しく階段を降りてくる物音。只者ではないことはすぐに伝わった。


「行こう。此処から逃げよう!」


 ネネの手を引っ張って部屋を出ようとするも束の間、接近していた者はあっという間に到達した。扉は勢いよく開かれ、牽制するような物音と睨みが二人を襲った。傷一つでは済まされないだろう凶器がゆらゆらと揺れているのが見え、クチナは緊張を強めた。


 決して、知らない顔ではなかった。

 蛇斬を持つ手に力が籠り、ネネの手もつい強く握ってしまう。


「おやおや、クチナ様。どちらに向かわれるおつもりで?」


 そう言って一歩踏み込んできたのは、八人衆の八番目。クチナが今、この世で唯一憎んでいる青年マムシであった。手には黒霧が握られている。祝い酒を飲んだのだろう。となれば、そこにいるのは大蛇様の傀儡に間違いなかった。


 だが、恨みや嫌悪よりも先に、クチナは恐怖を覚えた。

 相手は八人衆。下っ端とは言え、兄ニシキを殺しただけの実力がある。有り物の名刀で黒霧を持っていたはずのニシキを破ったのだから、相当な実力のはずだ。幾ら蛇斬を持っているとはいえ、そんな者を相手に正々堂々と互角に戦えるほどクチナには自信がなかった。


「申し訳ないが、これも大蛇様の命令なのです。少し痛い目に遭って貰いましょう。ご安心ください。命を奪ったりはしませんよ。勝敗が決まったあかつきには、あなたがきちんと女神となっていくところを見守って差し上げます」


 にやりと笑うニシキの表情を、クチナは強く睨みつけた。

 煽られるままに飛び込むのでは叩きつぶされて終わるだろう。それでも、出口は一つしかないのだ。


「――ネネ。わたしの背中に」


 ネネがしがみつくのを感じると、クチナは片手で蛇斬を構えた。

 久しぶりに戻ってきた蛇斬は、妙に手に馴染む。かつて大蛇様と共に泣女山の怪蛇をこらしめたというその力の矛先が、暴れたくて仕方なさそうな鬼灯の青年へと向いている。

 蛇の手に馴染むこの刀は、いつだって蛇の血を欲している。


「引き返すのなら今だ」

「ミズチによく似た目だ。忌々しくも愛おしい。女神となったあなたの姿が今から楽しみだ」

「わたしがナバリにしてあげる。姉さんには他の男が相応しいと大蛇様が決断するほどに痛めつけてあげるよ、八番目!」


 ネネが震えているのを感じつつも、クチナは引き下がらなかった。

 これはクチナにとって機会だった。大蛇様が与えてくれた機会なのかもしれない。逃げるという機会ではない。怒りをぶつける機会だ。死んだ兄の仇を取りたい。この男こそがその仇であるのなら、逃してはならない契機であった。

 だが、契機であるのはマムシも同じようだった。ここでクチナ達を阻めば、それだけ株も上がるのだろう。


「そんな無理な体制で私に勝てるとでも? 随分と舐められたものだ。だが、構いません。あなたは所詮、十五の少女。大蛇様をその御身体に受け入れるまでは、何も知らない無垢な姫児。だから、少しずつ教えてあげましょう。あなたが、大蛇様の所有物に過ぎないということをね!」


 黒霧を手にマムシがクチナを挑発する。

 相手をしたくないと言ったところで、出口はたった一つのみ。その挑発に乗ってどうにか掻い潜らなくてはならない。


 クチナは蛇斬に願いを込めた。鬼灯としての力は鈍っているだろうか。それでも、蛇斬の威圧で切り抜けねば。まともに相手をする必要はない。その手から逃れるだけでいいのだ。

 ネネのしがみつく強さを感じながら、クチナは床を蹴って走り出した。マムシの動きを注意深く見つめ、蛇斬をぶつけながらどうにか出口を潜ろうと試みる。だが、マムシは手強かった。黒霧で呆気なくクチナの斬りつけを封じると、そのまま意図もたやすく弾き返したのだ。自身は扉の前から一歩も動かない。そのまま、弾かれたクチナを斬りつけようと黒霧を振るった。

 クチナはそれをどうにか避け、今一度距離を取った。


 ――斬られでもしたら、大変だ。


 ネネを背負っているからといって、その気をいつまでも貰う事なんて出来ない。無理な体制で持久戦になれば不利なのはクチナの方だ。だが、マムシとて余裕の態度でいられるわけではない。クチナが持っている刀は蛇斬。蛇に力を与え、蛇に毒を与える妖刀。マムシもまたその恐怖を薄々ながらも感じているのだろう。相手をしながら、クチナは気づいた。余裕のなさは、隠そうとも隠せるものではない。


「どうしました、クチナ様。俺を退かさねば通れませんぞ!」


 お互いに余裕はない。焦りは強まる一方だった。

 こうしている間にも大蛇様は来てしまうだろう。他の八人衆やナバリが来るかもしれない。この御社にいるのはクチナにとって脅威となる大人たちばかりだ。八番目が手古摺ったところで、クチナが有利になるわけではない。


 ――早く退かさないと……!


 蛇斬を握りしめた時、ふとクチナの背を温かなものが触れた。


「……ネネ?」


 傷を治してくれた時にもう十分な気は与えてしまっただろう。それでも、ネネは更にクチナに身を委ねていた。傷を癒し、力を与える。決してただではないその能力を、ネネは躊躇いもなくクチナに発揮した。


「……お願い、クチナ」


 声が震えている。ネネの身体より力は抜けていく。慌ててその身体を片手で支えた。その姿は振り返られずとも、クチナは存分に感じていた。ネネが自分を信じている。信じて気を与えてくれた。その事実がクチナの背中を思い切り押したのだった。


「覚悟しろ、マムシ!」


 怒声を上げて飛び掛かるクチナを、マムシは迎え討とうと構える。

 相手は数え十五の少女。妖刀は恐ろしいが扱う者は恐れるに足らぬ者。

 そんな思いがマムシに自信を与えていた。しかし、彼には分からなかった。赤の少女の恩恵を受けた黒の少女の力がどれほどのものなのかという事が。


 勝敗は一瞬で決した。

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