25日目‐3
幻は幻。
本物の先代は赤の少女も黒の少女も死んでしまっている。
大蛇様にしてみれば彼女たちは死んでいないのだろうけれど、自由に出歩けず、身体さえ奪われて大蛇様の中に留まり二度と逃れられないと言うのなら、それは死に攫われたも同じことだとクチナは思っていた。
それでも、大蛇となったクチナは恍惚の果てに感じていた。
百年も昔に黒の少女に喰い殺された赤の少女の残留思念は、驚くくらい美味なものであるのだと。いないと言われても信じられないほど、赤の少女の肉体は与えられてきた食べ物とそう変わらない。変わるとすればその味。今まで食べたことのないような美味がクチナの体内に広がり、脳髄を溶かすかのように狂わせていた。
ゆっくりと呑み込んでいく最中、幻影の少女があげた小さな悲鳴もまたクチナの心を刺激した。美味は増す一方。自分の身体の中で少女の幻影が少しずつ溶けていく感覚が、喜ばしくて仕方なかった。
――ネネはこれよりもずっと美味しいんだ……。
誰にも渡すことなく、自分だけのものとなる。
幻などではなく、本当にそれが起こるのだ。
そんな感動に身を浸らせ床に這いつくばるクチナの頭を、面を外した黒の少女の幻影が撫でていった。
「鱗の艶がいい。わたしの生贄の味、どうだった?」
優しげに語りかけ、クチナの額に頬をつける。
「とても美味しかったでしょう? でもこれは、ほんの一部。百年前にわたしが味わったのは、こんなものじゃない。自分だけのものになるということはね、とても素晴らしいことなのよ。もうあなたにも分かるでしょう? 今宵はネネを好きにしていいのよ」
――ああ……。
少女の声に刺激され、クチナは全身を伸ばした。
待ち遠しいという言葉ばかりが浮かんでくる。幻影では飽き足らない身体が、本物の赤の少女としてこの世に唯一存在しているネネを心から欲している。
「あなたの中で溶けて行くあの子も、とても嬉しそう」
黒の少女の幻影がクチナに囁いた。
「赤の少女は食べられなければこの幸せを知ることが出来ない。わたし達がネネにも教えてあげましょう。ねえ、クチナ」
妖しげな声で少女はクチナを唆す。大蛇様によく似た声と姿。その全てを委ねてしまった先代の様子は、まさにすぐそこまで迫っているクチナ自身の未来の姿であった。
「ああ……ネネ……」
反発心はもう起こりそうになかった。
赤の少女の幻影。その捕食がもたらしたのは、どうしようもないほどの欲求への自覚。身体の中で少女の幻影が溶けていくことを実感すればするほど、その想いはネネへと向けられていく。
――食べたい。食べてしまいたい。ネネ、早く来て。早くわたしの傍に。
疼く身体に理性は残らず、今しがた与えられた生贄の感触ばかりが想起される。
真に満たされるには、ネネを同じようにして食べるしかない。そんな光景を予想するだけで、クチナは気が狂ってしまいそうなくらい愉しみだった。
――わたしは化け物になってしまったんだ。
涙があふれ出すが、心に宿るのは後悔でも罪悪感でもなく、開放感と悦楽だった。その開き直りが、これまでずっと重たかったクチナの心を軽いものにしている。
震えるクチナに身を寄せたまま、黒の少女の幻影は慰めるように鱗を撫でた。
「いいえ、あなたは化け物じゃないわ。女神様になるの。美味しいものをゆっくり味わって、蛇穴のためにその身を御捧げするの。礎となれば多くの人間に感謝されるわ。たくさんの人の暮らしが守られる。これは尊い事なのよ」
――これは尊い事なのよ。
ふと、クチナはネネの言葉を思い出した。
初めて出会った夜のこと。攫いにいったその先で、ネネは寂しい牢の中で一人きりで震えていた。不安に押し潰されそうな心を守るように自分を抱きしめて、ひたすら自分に言い聞かせていたのだ。
赤の少女として生まれた疑問と理不尽さを必死に誤魔化していたあの姿。同情と共感だけではなく、強い意思が宿ったはずだった。
まるで、遠い昔に立てた誓いを思い出したかのように。
――ネネを未来に連れて行ってあげたい。
「忘れましょう、クチナ」
クチナの心を柔らかく抑えこむように少女は言った。
「何もかも忘れて、一緒に大蛇様になりましょう。魂を御返ししても、わたし達は消えない。このまま一つになるの。一つになって、赤の少女を味わい続けましょう」
「……ネネを味わい続ける」
「今宵、全てが変わるわ。ネネは逃げないでしょう。あなたを救えると信じて此処に来るけれど、いざあなたに巻きつかれれば気持ちもすぐに変わるわ。それが赤の少女というもの。所詮、あの子達はわたし達のもの。この世がなくならない限り、その決まりは変わらない。これがあなた達の絆の形。喰らい喰われる事があなた達の幸福なの」
それはクチナにとって非常に喜ばしい言葉だった。
欲望のままにネネを口にすることで、少女はお互いに幸せになれる。蛇穴は守られ、大蛇様の力は回復し、たくさんの人間や鬼灯が助かる。決して無理な事を強いられているのではなく、本能的に組み込まれた欲望がそれを叶えてくれるのだ。
ネネを食べてしまえばいいだけ。
欲望に身を任せればいいだけ。
「もうすぐよ。もうすぐ、その時は来る。愉しみね、クチナ」
「……愉しみ」
ネネの足音はいつ聞こえるだろう。
クチナはもはや感情の流れに抵抗しなかった。この場所に辿り着くと大蛇様が言うのならば、そうなのだろう。何らかの導きを受けながら、或いは、大蛇様本人に誘われながら、何も知らない無垢な人間の少女はのこのことやってくる。
――愉しみ。ああ、楽しみだ。ネネ、早くおいでよ。
さほど待たせはしなかった。
クチナが退屈しない内に、約束の時は訪れた。




