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25日目‐2

 ネネはきっと来るのだろう。

 クチナは床に伏したままぼんやりとその時を待っていた。大蛇様は立ち去り、一人きりにされたまま。ナバリ達の立ち話も聞こえず、沈黙ばかりがクチナを包みこんでいる。そんな状況下にいれば、瞼を閉じられぬ目に映り込む景色はだんだんと歪んでいき、覚醒していながら夢を見ているような心地がクチナの意識を包みこみ始めた。

 ネネが来てしまったらどうなるのだろう。

 分かりきった答えを何度も考え、憂鬱さが増していく。

 そんなクチナの目の前に、いつの間にか白っぽい人の足が現れた。面の少女の幻影だろうかと力無く見上げるクチナが目にしたのは、記憶の片隅にずっと残っていた大切な人物の顔であった。


「兄さん……?」


 クチナは目が覚める思いでその人物を見つめた。

 そこにいたのは兄ニシキ。死んだはずの兄であった。今より少しだけ幼い姿で、兄ニシキは立っていた。蛇の姿で力無く身体を横たえるクチナを見下ろし、ついさっき大蛇様がそうしたように手を伸ばしてきた。

 触れた手は異様に温かかいものであった。


「クチナ。可哀そうに」


 やけに響く声ではあったが、それは確かにニシキの声。クチナは息の詰まる思いでその声を聞き、心で泣いた。


「兄さん、本当に兄さんなの?」

「御免ね、クチナ」


 短く詫びるその姿は、ニシキ以外の何者でもなかった。

 これは幻。もしくは亡霊。ニシキは本当に死んでしまっているのだ。その亡骸にすらクチナは会えていない。葬られた場所すら、知らされていない。クチナが出来たのはただ、その死を悼むことだけであった。


「どうして」


 クチナは兄に向けて訴えた。


「どうして死んでしまったの? 兄さんが死んでしまって、姉さんは辛そうなんだ。わたしも辛い。悲しい。あの男に復讐してやりたいくらい」


 クチナの心の中で燃え盛るのは新八番目マムシへの憎しみだった。

 死んだ者は生き返らない。たとえ、大蛇様であったとしても、訪れた死を取り消す事は出来ないのだ。ニシキは甦らない。恨みは消えない。そうなれば、怒りと悲しみの矛先はニシキの命を奪ったマムシへ向けられるのみ。


 ――大蛇様になれば、兄さんの仇をとれるかもしれない。


 大好きな兄だった。

 その死を目の当たりにしていないクチナにとっては、いまだ現実味を帯びない話である。それでも、ニシキは以前のようにクチナの元に訪れてくれなかった。誰もが死んだとクチナに告げる以上、認めるしかない。

 それが辛かった。納得も出来なかった。


 ――大蛇様になっていれば、兄さんを失うこともなかったのかな……。


 後悔のようなものまでクチナの心に宿り始めた。


 ――でも、大蛇様になってしまうと言う事は……。


 迷いの原因は根深い。目を覚まして以来一度も姿を見ていないけれど、クチナの中にあるネネへの想いは強まる一方だった。殺したくない。殺してはいけない。生きたまま二人で過ごしたいという願いは、抑えられれば抑えられるほど、強いものへと変わっていく。

 兄ニシキの亡霊は優しげに微笑むのみ。蛇の姿のクチナの頭を撫でながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。


「可哀そうに」

「兄さん、わたしはどうしたらいいの?」


 微笑んだまま表情を変えない兄に向って、クチナは訊ねた。

 見つめる先のニシキの表情は全くもって変わらない。それでも、クチナの心には答えのようなものが浮かんでくるのだった。


(妹が黒の少女であるというのは誇りだった)


 ――兄さん。


(女神をお守りし、家に残した母さんを安心させてやりたい。死んだ父さんがあの世で自慢できる息子として俺も姉や妹のように誇り高くあらなければ)


 紛れもない兄の声で聞こえてくる言葉。


(やがて大蛇様となったクチナを守っていきたい)


 ニシキの幻影は口を開いていないが、クチナの耳にはしっかりと届いた。重たく、骨にまで沁みるような言葉であった。


 ――兄さん……。


「御免なさい、兄さん。御免なさい、我が侭な妹で御免なさい……」


 蛇の姿で謝り続けるクチナの心の中で、血潮がざわざわと音を立てていた。


 黒の少女として生まれたことは恨みでもあった。大蛇様がどのように紛らわそうとしても、クチナは他の少女たちと違う事に納得出来なかったのだ。どんなに崇められていても、クチナには身分の低いとされるオニの見習い少女たちの方がずっと楽しそうな日々を過ごしているように見えた。

 それは黒の少女と見習い少女だけの話ではない。八人衆や筆頭、さらには大蛇様ですら、鬼灯の下女下男よりも窮屈な生き方をしているようにしか見えなかったのだ。


 蛇穴にそこまでして身を投じるのはどうしてだろう。


 教養として与えられた文献のみならず、御役目で遠出をする兄ニシキや姉ミズチの土産話はとりわけクチナに多大な影響を及ぼした。

 きっと二人には自覚はなかったのだろう。しかし、そのことがクチナに脱走と言う大胆な罪を唆す事になったというのは、ミズチにとってもニシキにとっても、さらには引き離されて以来会う事すら許されていない実母の一族にとっても、非常に不味いことであったのだろう。

 クチナにはまだそれが分かっていなかった。

 今になってその恐ろしさと危険を自覚したくらいだった。


 ――けれど。


 大蛇の姿で震え、クチナはひたすら兄の亡霊に詫び続けた。


「御免なさい、兄さん。御免なさい。そんな兄さんの言葉を聞いてもなお、此処から逃げ出したい。八花に行きたいという願いを捨てきれないわたしを、どうか許して」


 口にすれば罪悪感が透かさず頭を過ぎっていく。しかし、口にしただけ、その願いは強いものとなってクチナの脳裏に焼きついた。

 八花に行き、ネネと友人になる。

 その為だけに蛇穴を去り、細石まで足を踏み入れたのだ。白鬼という恐ろしい化け熊にも立ち向かい、殺されるかという今までにない危険を感じるはめにまでなった。結果、救い出され、連れ戻されてしまったのだ。

 それでも、クチナは諦められなかった。

 欲望は深まり、ネネを食べて大蛇様と一体化したいと思い始めても、八花に行って未来を掴みたいという願いをどうしても捨てられなかったのだ。

 その根底にはネネの言葉と表情があった。


 ――ネネは死にたくないと言っていたんだ。


 何度も思い出しては、その度に今の自分の姿に絶望する。


「馬鹿な子だね、クチナ」


 その時、クチナの鼻先に触れていた兄の温もりが急に変わった。

 目の前で兄の姿は変化していく。少しだけ幼かった少年の姿から、面を外した少女の姿へと変化していった。

 大蛇様によく似たその姿。

 幻想の世界の中で何度も会話した先代の黒の少女の姿がそこにあった。


「もう認めるしかないのよ。無駄に抵抗せずに、大人しく受け入れなさい。そうしなければ、あなたは苦しいまま。解放されることもなく、気が狂ってしまうわ。どちらにせよ、大蛇様に適うはずがないの。あなたはわたし達と同じ、黒の少女なのだから」


 少女の言葉が温もりと共にクチナの身体に伝わっていく。

 妙に馴染むその感触は、まるで少女自身も自分の身体の一部であるようだった。彼女は生きてはいない。彼女の体は大蛇様によって奪われてしまっているのだから。それでも、先代はクチナに強く訴えてくるのだ。


 ――諦めろ、と。


「そんなの嫌だ……」


 クチナは身動きせぬまま唸った。


「君たちが諦めた分、わたしは諦めたくない。ネネを食べてしまえば、わたしは永遠に後悔する。百年もの長い時を苦しむくらいなら、今ここで苦しんだ方がましだ」


 頑ななクチナの態度に、少女は悲しそうに溜め息を吐いた。


「あなたの姿が痛々しい。かつてのわたしのよう。あなたが特別なわけではないの。これまでの少女たちだって同じ。同じ思いをしながら、何処かで運命を受け入れてきたの。ネネも同じ。見て、クチナ」


 目の前で大蛇様に似た少女の姿が変わっていく。次に現れたのはネネに何処か似ている人間の少女の姿だった。


 ――先代の、赤の少女。


 古の赤い衣を身にまとう赤毛の少女。鬼灯の血を一切引かない純粋な人間の少女が、大蛇だいじゃの姿をしたクチナを恐れずに撫でていた。


「御捧げされたわたしがこうしてあなたに介入出来るのも、あなたがそれだけ大蛇様に近いものになったから。どんなに拒んでも、無駄な事だよ。ネネだって分かっている。あなたの囁きで今は迷ってしまっているけれど、あなたに食べられる時には受け入れるものなの。だって、わたし達はあなた達の為の生贄なのだもの」

「……信じない」


 クチナは唸った。


「そんなの、信じない。だって、君たちは全然幸せそうじゃないもの。大蛇様の中で、何処にも行けず、自由なんてない世界に閉じ込められてどうして幸せだって言えるの?」


 暴れ出せば、身体の中で何かが引き裂いてくるような違和感が生まれた。

 大人しく身体に馴染んでいた蟲達が、クチナの反発心を抑え込むように暴れ出したのだ。血が逆流してしまうかのような気持ちの悪さに耐えながら、それでもクチナは赤の少女の幻影を強く睨みつけていた。


 ――身体が熱い。


 込み上げてくる血の気が、クチナの視界を狂わせる。少女の幻影はそんなクチナの禍々しい蛇姿を恐れずに、身を寄せて囁いた。


「怒っていらっしゃるの? 頼もしい御方。妖力がただの人間のはずのわたしにも伝わってくる。ああ、なんて素晴らしいのでしょう。わたしの主様と同じ。この身を御捧げした日が昨日のように思い出せるわ」


 鱗を撫でていく少女の指使いが、クチナの心を刺激した。薄着の少女の身体から感じる匂いが、怒りに満ちたクチナの五感をくすぐってきた。沸き起こるものは、欲望。ネネに似た人間の少女に対して、強い欲望を抱きはじめていた。


 ――いけない。


 大口を開けそうになった自分の動きに気付き、クチナはすぐさま抑制した。少女に触れられれば触れられるほど、その吐息と温もり、匂いを感じれば感じるほど、クチナは食欲を増大させていった。

 焦るクチナに身を寄せて、少女はぽつりと言葉を漏らす。


「我慢しなくていいの。どうぞ、わたしを食べて御覧なさい。わたしは既に故人。幻。あなたの前世がわたしを奪っていったから、与えられるものは殆ど残ってないでしょう。それでも、心地いいはずよ。ネネを食べる時の一分いちぶほどの快楽があなたにもたらされるはず」

「……いや……駄目、離れて!」


 暴れる身体に力が入ろうと、幻影の少女を引き離す事など出来なかった。クチナは恐れていた。いかに幻と言っても、これ以上進めば元に戻れなくなってしまう。その上、自分が心から少女の身体を欲していると自覚すればするほど、クチナは恐ろしかった。

 欲望の崖っぷちに立つクチナの背を強く押すように、赤の少女の幻影はクチナの額に口づけをした。


 もう、限界だった。

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