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25日目‐1

 大蛇様が去ってからどのくらいの時間が経っているのか分からない。

 簪で傷つけられた傷は塞がり、血の跡だけが床を汚している。

 大きな蛇の姿のまま、クチナは床の上に寝そべっていた。時折沸き起こるのは苛立ち。ネネの姿を少しでも思い浮かべれば、満たされぬ欲望が胸を締め上げ、尾を床に何度も叩きつけねば気が済まなかった。

 今会ってしまえば、あっという間に喰い殺してしまう自信があった。

 それをまだ恐ろしいと思えているだけましなのだと、クチナは自覚していた。


 ――そのうち、この躊躇いすらもなくなってしまうのかな。


 蟲の感覚は分からない。あんなに話しかけてきていた面の少女の声も聞こえない。あるのはただ、ネネへの欲望だけ。気がつけばネネを食べたいと考えており、その度に、それが叶わないという現実に腹を立てている。

 下女が運んだ食事も、これまでとは違うものだった。

 調理されたものではなく、半分は生きているであろうものが差し出され、躊躇いもなくそれを食らう自分がいる。クチナは段々と今までの感覚が薄れていくのを自覚していた。こうしてまで食欲を満たそうとしても、満たされない。腹は膨れても、心は疼いたまま。もはや理性というものは襤褸切れとなっていた。


 それでも、クチナはまだ時折思い出せていた。

 ネネと共に旅した日々のこと。共に語り合った未来への憧れと、期待のこと。蛇斬に願いを託して歩んだ道のりは、嘘でも幻でもなく、確かにあった過去の話なのだと。


「いやだ」


 人語すら忘れかける意識の中で、クチナは葛藤をどうにか言葉にした。


「このまま負けてしまうのは嫌だ」


 閉じられない瞼でただ前を見つめながら、クチナは呟いた。

 だが、身体は元に戻らない。一度自覚した欲望もまた今更抑えきるのは不可能だった。意識を遠ざけて行けば、妄想の世界でネネを絞め殺している自分がいる。布一つ纏わぬその姿は御馳走にしか思えない。

 友になるなど程遠い。

 妄想の世界の中にいるネネは自分の為に美味しく育った生贄以外の何物でもなかった。


「それでも、忘れては駄目」


 ネネは死にたがってなどいない。

 はっきりとその口で、死ぬのが怖いと言っていた。

 クチナに喰い殺されるのがネネにとっての幸せという都合のいい現実などあり得ない。欲に負けて訪れるのは裏切りという言葉。それをもって二人の関係は終わってしまう。

 心は手に入らない。

 命を手に入れたところで、ネネを手に入れたということにはならない。


「友達になりたい」


 肥大していく一方の欲望に心を押しつぶされそうになりながらも、クチナはかつて抱いていた純粋な願いを忘れない内に言葉にした。


「わたしも、ネネと友達になりたい」


 しかし、言葉にしたところで状況は変わらなかった。一度解放した妖力は、クチナの願いとは裏腹に、大蛇様を迎え入れる準備ばかり整えていく。

 赤の少女が黒の少女の為に生まれた存在ならば、黒の少女は大蛇様の為に生まれた存在。大蛇様を迎え入れると言う事は、クチナにとっての悦びであるということなのだろう。

 この姿で大蛇様に触れられた際の事を思い出してみれば、その刺激に身体が疼くのを確かに感じた。彼女の手が離れると、身体の底で何かが手を伸ばし、その別れを惜しんでいるような気がしていた。


 ――魂が一つに成りたがっている。


 分かれたものを再び一つに。

 その時が近づいているということなのだろう。

 全てを抗ってこの場を逃げだすには、それ相応の気力と体力が必要だ。けれど、それらは既に大蛇様によって奪われている。回復するのを待てば待つだけ、ネネへの食欲は肥大していき、姿を元に戻す余裕すらなくなる一方。

 どうしようもない、という言葉ばかりがクチナの頭を巡っていた。

 こんな状況下で、何が機会となるものか。

 絶望しかないままクチナは冷たい床の上に横たわっていた。

 そして動けぬまま、部屋の外より聞こえてくるナバリと思われる女たちの噂を耳にしたのだった。


「あの子も可哀そうなものね。引退しても大人しく過ごせば悪いようにはされないのに」


 その声にはクチナにも覚えがあった。恐らく元筆頭の女の一人だろう。この地下に潜れるのは、八人衆と筆頭の他は、聡明な下女か自由を与えられない元筆頭のナバリくらいのもの。固く閉ざされた部屋の隅でクチナに聞こえているとも知らずに、他には誰もいないのであろう寂しい廊下で語り合っているようだった。


「どうやら今宵のようよ。下女がそう言っていた。祝い酒などではなく、クチナ様がされたように直接蟲を入れられてしまうみたい。クチナ様と違ってあの子は私たちと同じくただの女。そんな事をされればただでは済まないはず。残念だけれど、今後あの子と人並みに会話出来ることはないでしょうね。心を完全に潰されてしまうわ」

「それほどまでにクチナ様を気にかけていたのでしょうね」


 もう一人も同じく元筆頭。クチナにはその声にも覚えがあった。幼い頃によく稽古をしてくれていた元筆頭の女性。ミズチに筆頭の座を譲ってからは、ナバリとして大蛇様を支えていたことをクチナも覚えていた。子を宿したと分かるとすぐにこの場所に閉じ込められてしまった姉貴分である。

 二人の噂の的となっているのはミズチだろう。

 蛇の姿のまま、クチナは尾で床を軽く叩いた。じっとしながら、ナバリの女たちの声を更に拾う。


「あの子の御母上はもっと可哀そうだわ。息子を最愛の人と同じ状況で失ったばかりだというのに、娘にまでもう二度と会うことも出来ないのよ。心を壊されれば里帰りの許しを乞う事すら出来ないでしょうから。それにあの御母上が此処まで会いに来るのは不可能。ああ、なんて馬鹿な事をしたのでしょうね」

「……でも、私はミズチの気持ちが少しだけ分かる気がするのです。クチナ様の待遇のことを思えば」


 片方がそっとそう言った瞬間、もう片方のナバリが慌ててその声を咎める。


「これ、御止めなさい。大蛇様が見ていますよ。お前にとってミズチやクチナ様がいくら可愛い妹分だったとしても、今はあなたも子の母親なのよ。産まれてくるその子の幸せを想うのなら、余計な事は考えては駄目。あなたも私もミズチの事は決して他人事とはいえないのよ」

「……申し訳ありません、姉様あねさま。肝に銘じておきます」


 姿も見えぬ二人のナバリの会話をクチナはぼんやりと聞いていた。

 元筆頭のナバリ達の中で子を孕んだ者もまた、子を産み落とすその日までこの地下の何処かで過ごしている。そんな彼女たちの会話を立ち聞きする事はよくある事ではあった。だが、こんなにもはっきりと聞こうと思った事はなかった。

 聞いている間、少しは気が紛れたのをクチナは気付いていた。

 他に気を逸らし、そちらに集中する事で、今の状況から目を離す事が出来た。苦痛から解放されることであった。

 だが、聞こえてきた会話の内容は、決して息を吐けるようなものではない。


 ――姉さん……。


 いよいよ心を潰されてしまうらしい。

 その時が来る事をクチナは分かっていた。ミズチもまた覚悟はしていただろう。それにしても即急なものだ。この事をミズチ自身は知っているのだろうか。


 ――知っていたとしても、わたしにはもうどうする事も出来ない。


 姉を頼ることはもうできない。圧倒的な力で筆頭の座に登り詰めた逸材だったとしても、同じかそれ以上の力を誇っていた元筆頭の女たちは皆、大蛇様に逆らえずにいるのだ。何をするつもりであっても、ミズチが出来る事はほんの少しの事だろう。それさえも、大蛇様は阻んでしまう力がある。


 ――期待してはいけなかったんだ。


 クチナは思い知った。


 ――わたしが馬鹿だった……御免なさい、姉さん。


 助けなど求めなければ、ミズチまで苦しめる事はなかったはずなのに。


「そう待たずして、あの子もこの場所に閉じ込められてしまうのでしょう。せめて、私たちは同じ境遇の者としてあの子の傍に寄り添いましょう。私とあなたに出来るのはそのくらいのことよ」

「……はい」


 語り合うナバリの女たちの声が、じわりじわりとクチナの身体に沁み込んだ。

 動くことも気だるい中でクチナが感じるのは、虚しい程の罪悪感だった。もしも自分が助けてくれと言わなければ、こんな事にはならなかったのではないかという思いが、毒にでもやられるようにじわじわとクチナの心を蝕んでいた。


 ――最初から抵抗などするべきではなかったんだ……。


 純粋な子供として抱いた未来への夢は砕け散った。

 少女の姿にすら戻れぬまま、クチナはそう遠くない過去を懐かしみ、力無くのた打ち回って床に身体を擦りつけた。


 ――諦める事が大人になると言う事。


 そして、認めるということで苦しみからは解放される。


「……認めてしまえば簡単な事」


 クチナは自分に言い聞かせた。


「ネネを食べて、大蛇様になる。悪い事ではない……ネネをわたしだけのものにして、大蛇様の中でずっと幸せに……幸せに……」


 意識も朦朧としてくる中、自分が言っているのかすらも曖昧な状況でクチナが呟いていると、扉の外でふと別の声が聞こえてきた。


「お前たち、そのような場所で油を売っては体に毒だ。部屋に戻るがいい」

「……かしこまりました」


 控え目な声が聞こえるや否や、扉は開かれた。

 予想通り、大蛇様の澄ました顔がクチナの蛇の目に映っていた。ゆっくりと近づき、目の前に座る女神の姿をぼんやりと見つめながら、その手に触れられればクチナは妙な安心感さえ覚えていた。


 ――何故だろう。冷えた心が温められているみたい。とても心地いい。


 ネネと触れあった時とはまた違うものをクチナはじっと味わっていた。


「やけに素直になったね、クチナ」


 優しげに鼻先を撫でながら、大蛇様は言った。


「いい子だ。我が魂がお前の魂と惹かれあっておる。こうしていると落ち着くだろう? 妾とお前は本来一つのもの。一つに戻ることもまた、我らの悦びとなるだろう」

「よろこび……」

「ああ、ネネを食べたくて仕方ないその欲望が無事に解消された時と同じくらいの悦楽が妾と一つになる際にも生じる。その感覚を想像出来るか? こうして触れているだけでも、お前は悦びを感じているはず」


 言葉を殺してクチナは耐えるしかなかった。大蛇様の言っている事が本当のことであったからだ。もっと触れて欲しい。もっと身を寄せて欲しい。そんな願望は確かにクチナの中に生じていた。

 大蛇様の器になることこそ、黒の少女の幸せ。

 その言葉は嘘などではないのだろうとクチナは思い知った。


「お前が望むのなら、妾とこのまま一つになってもいいのだ。だが、その前にお前を悩ます最大の願望を叶えてやりたい。それが妾からお前に捧げる契りの証。全てを満たして妾の器になるがいい、可愛いクチナ」

「ネネを……食べていいの?」

「ああ、あの子をゆっくりと食べさせてやろう。お前の為に大切に預かってきた子。お前が欲しいのならすぐにでも此処へ来させよう。後は好きにするとよい。ネネもお前に会いたがっているのだよ。お前に喰われるのなら本望のはず。それが赤の少女というものなのだから」

「ネネが食べられたがっている……」


 恍惚としたままそう繰り返し、クチナはふと我に返った。


「……違う。違う。ネネは食べられたくないんだ。死にたくないって言っていた。言っていたんです、大蛇様」


 蛇の姿のまま必死にそう叫べば、大蛇様の表情は途端に冷たいものになった。

 軽くその手で鼻先を叩いて、大蛇様はクチナに言う。


「そんなもの、信じるな。ネネとて心の底ではお前に喰われたがっているはず。今は自覚がなくとも、いざお前に襲われれば恐怖よりもその欲求が勝るだろう。お前がネネを捕食したいと思うだけ、ネネもお前に捕食されたいと思うもの。それがお前たちの全てなのじゃ。これまでだってそうだった」

「違う……違うのです。ネネは言っていた。未来を生きるのだって。……それは欲求とは別の願いなのです。欲求に負ければ、叶えられない。それは……悲しい事」

「ええい、黙れ」


 鱗に爪を立てて、大蛇様は唸った。


「口答えなどいらぬ。お前はただ従えばいい。せっかく悦びを与えるのだから黙って受け取れ。受け取れ、妾の分身よ」


 そのおぞましい程の暴力的な愛撫に、クチナは呻いた。

 鱗は傷つき、血が流れるほど爪を立てられている。痛みが生じているほどなのに、それでも大蛇様に触れられる悦びが混ざり合い、クチナの心をかき乱したのだ。

 屈辱と恐怖と恍惚との狭間で息も詰まりそうになりながら、クチナはしきりに尾で床を叩いた。だが暴れようにも、大蛇様から完全に逃れられるだけの力は出せなかった。


「身の程をわきまえるがいい、クチナ。どうせ、この状況は覆らぬぞ。お前たちに味方する者はすぐにいなくなるのだから」


 散々、期待を膨らましておいて、大蛇様はあっさりとその手を放してしまった。

 沸き起こる不満を自覚しながら、クチナは情けなさに震えていた。心はもうすでに襤褸切れのようにされている。


 ――此処へネネが来てしまったら。


 その状況を想い浮かべるだけで、クチナの蛇の顔にも笑みすら漏れてしまいそうなくらいであった。崩壊はすぐそこまで迫っていた。

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