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24日目‐2

 傷はなかなか治らなかった。

 黒の少女の取り柄は丈夫であることだ。どんなに深手を負っても、一晩二晩苦しめば、すぐに何事もなかったかのように治ってしまう。

 そんな事が当り前であったものだから、クチナは痛みに慣れてしまうほど怪我というものに無頓着であった。しかし、今回ばかりはそうでもなかった。簪にやられた太股の傷は少し動くだけですぐにまた開き、血が流れ出してしまう。

 歩く事は勿論、立つこともままならない。


 ――こんな事って……。


 横たわりながら、クチナはその痛みを堪え続けた。


「あなたがいけないのよ」


 面の少女の声がすぐ間近で聞こえてくる。視界に映るのは囚われている地下の床のはずだが、クチナの目には白っぽい何者かの足が見えていた。此処に居るはずのない者の足。面の少女が目の前に居るような感覚が、クチナを混乱させていた。


「あなたが蟲を拒み、わたし達の御役目を拒むから、その傷も治らない。苦しいでしょう、クチナ。早く解放されたいでしょう」


 ――来ないで。


 クチナのすぐ傍に座り込み、少女の手が触れる。

 そんな幻覚が見えた時、地下の扉は開かれた。


「……どうやら、妾が思っている以上にお前は愚かな子のようだ」


 そう言いながら入って来る大蛇様の姿を見る事さえも、クチナには辛かった。身体を動かす事自体が、今のクチナにとっては恐怖であった。

 逃げることも出来ないクチナの目の前に座り、大蛇様はその肩に触れた。


「蟲を嫌い、役目を拒み続けるのは、ミズチに何か吹き込まれたからかな?」


 姉の名を出され、クチナは少しだけ身体を震わせた。

 そんな十五の少女の背を撫でながら、大蛇様はわざとらしく囁いた。


「お前がこうして拒み続けても、状況は悪くなる一方。それにしても、ネネは日に日に美味しそうな子になっていくね。お前の代わりにその味を確かめてみたいくらいだよ」

「……やめて」


 自分でも驚くほど低い声でクチナはそう唸った。

 ネネを奪われる。それがただの脅しであると分かっていても、いざ言われれば耐えがたいほどの拒絶となってクチナの心を揺さぶった。

 赤の少女の存在が黒の少女の心の枷となるという言い伝えを、クチナはずっと半信半疑で覚えていた。しかし、ネネと出会い、共に旅をし、共に捕まってしまった今となっては疑う余地もなかった。

 ネネを抑えられている限り、ミズチがどんなに手伝ってくれても逃れられないだろう。


(だから、期待しては駄目)


 面の少女の声が微かに聞こえた。


「いい目をしておるな」


 大蛇様は手を伸ばし、クチナの頬に触れながら言った。


「妾を喰い殺そうと思っておる激しい心が感じられる。それでこそ、我が姫児。妾を殺してみるか? 主導権を握り、お前が女神となればいい。妾を好きに虐げながら、ネネを傍に置き、自分だけのものにすればいい。喰いたくないと言うのなら、蟲だけではなく妾に打ち勝ってみよ」

「……あなたに勝てば、ネネを食べなくてもいいというのですか」

「ああ、その通り。だが、負ければ悲惨じゃ。お前の心は妾に支配され、ネネを食らうのもお前の特権ではなくなる。お前の代わりに妾があの子の愛らしい悲鳴と温もりと、血と肉の味に浸るのだよ」


 大蛇様の手がクチナの首筋へと下がっていく。

 女神として君臨し続けるその眼差しは、自身の敗北など信じてやいない。それでも、掲げられた可能性は、満足に動くことも出来ず切羽詰まったクチナにとって非常に望ましい持ちかけにさえ思えたのだ。


(あなたなら、勝てるかもしれないわね)


 怪しげな少女の声が頭の中に響いた。


(黒の少女としての力を解き放てば、この状況も覆る。妖力を解放してみなさい。蛇斬などに頼らず、アヤカシとして抑え込んでいた力を解放するの)


 ――そうすれば、女神にだって勝てる。


 崖っぷちから飛び降りるかのような無謀さが、クチナの心に宿りはじめた。

 蟲達がざわめき、クチナの心身を不快にさせる。クチナの行動を咎めているのか、助長しているのか、クチナ自身にはもはや分からなかった。


「やる気のようだね、クチナ」


 大蛇様がにやりと笑い、手を離した。

 距離を取る彼女を睨みつけながら、クチナは床に手をついた。

 産まれてこの方、人間によく似たこの姿でしか過ごして来なかった。だが、鬼灯というものは蛇の子。妖力さえ操れば、本来の姿に戻ることだって可能であった。

 クチナもまた同じだった。

 幼い頃は青大将や蝮といった本物の蛇の姿を真似て遊ぶことだってあった。それから大人に近づくにつれ、変化で遊ぶ事は殆どなくなったが、なりかたまでも忘れているわけではない。ただ、ならなかったというだけのこと。


 ――やってやる。


 ざわざわと血が滾るような感覚が生まれた。


 ネネを傷つけないためには、大蛇様に勝つしかない。

 不思議な焦りがクチナの背中を押していた。大腿部の痛みも、それ以外の古傷の痛みも、怒りと攻撃性へと転じていく。手足などに頼らない蛇の姿へ。幼い頃とは比べ物にならないほど大きな蛇へと変わるべく、クチナは抑え込んでいた全ての力を解放した。


「後悔しても知らないよ……女神様」


 勝てるはずもないという当り前のことすら忘れて。


 身体が膨らみ伸びていく。手も足もなくなり、幼い頃に戯れになってみた蛇とは比べ物にならないほど大きな蛇へとクチナは変わった。十五の少女など何処にも居ない。人一人を呑みこめるほど大きな蛇の姿となったクチナは、恍惚としていた。

 蟲による苦痛が、不思議なくらい消えてしまった。


 ――なんて、心地いいのだろう。


 自分より小さな存在となった大蛇様を見下ろしながら、その神性すら感じられぬまま、鎌首をもたげ顔を近づけた。


「クチナ」


 大蛇様は人間の近い姿のままで、そんなクチナを見つめていた。


「ああ、すっかり成長したものよ。ついこの間まで、糸切れのような蛇にしかなれなかったというのに」


 その手を蛇となったクチナの頭に乗せて、目を細める。


「妖力が溢れ出ておる。可哀想に、蟲たちが震えておるな。その姿を曝せたのなら、傷も今に治るだろう。だが、クチナ。本当によかったのか? その姿を鏡で見せてやろうか。今のお前はもはや妾そのもの。黒の少女の本来のもの。ネネを思い出してみよ。その声、その姿、その温もりを思い出してみよ。今のお前は何を感じる?」


 そう言われ、クチナは我に返った。

 蟲達が沈黙している。面の少女の声も聞こえそうにない。代わりに沸き起こるのは、ネネに会いたいという気持ち。だが、その気持ちは純粋なものではない。今すぐにネネの悲鳴を聞きたかった。身体が欲しているのは、大蛇様の血と肉ではない。ネネの身体に今すぐに巻きついて、呑み込んでしまいたい。


 ――わたしは……。


 後悔しようとする先から、新たな欲望は沸き起こる。

 大蛇様を呑みこむどころではなく、クチナは欲求不満に戸惑った。尾で床を叩きながら、ネネがこの場に居ないことへの苛立ちを感じ始めていた。

 それは何故か。クチナは混乱しながら、大蛇様を見つめた。


「哀れなものよの、クチナ。妖力というものはただじゃない。お前自身の黒の少女としての欲望こそが、妖力の源だ。欲望に身を預けた以上、お前はもう後戻りできぬ。今すぐにでもネネを連れて来てやろうか。あの美味しそうな姿を前に、お前は耐えられるか?」


 ――わたしは……。


 恍惚の果てに、クチナは絶望していた。

 妖力を使いすぎることへの注意は促されたことがあった。子供の時分ならばその身を蛇に変えても少々の代償ですむだろう。しかし、大人になりつつある鬼灯が人の姿を捨てて本来の蛇に近づくことは、禁忌とされていた。それは何故か。当たり前すぎて忘れていたことを、クチナは今更思い出していた。


 高位アヤカシとして、知性ある者でありたいならば、必要以上に妖力を解放させてはならない。


 ――わたしは、なんて事を……。


 大きな蛇の姿で絶望を深めるクチナに追い打ちをかけるように、大蛇様はその胴に簪を突き刺した。人ならざる声で悲鳴を上げ暴れるクチナの鱗をその手で撫でながら、ケダモノを手懐けるように大蛇様は微笑みを浮かべる。


「痛いか? だが、こんな傷もすぐに治るぞ。ああ、なんと美しい鱗。お前はもうすっかり器として完成している。来年まで待たずとも、妾を受け入れるのに相応しい身体をしている。素晴らしいことよ。あとはネネを食わせるだけ」

「……駄目」


 辛うじて思い出した人語でクチナは拒んだ。


「連れてこないで……」


 刺さったままの簪の傍で流れ出す血と痛みを感じながら、クチナは息苦しさと共に大蛇様へと訴える。蟲たちのざわつきが、クチナの意思を蝕んでいく。


「……食べてしまう。……あの子を……あの子を、食べた……い……」


 朦朧とする蛇の鼻先を撫でながら、大蛇様は優しげに言った。


「そうだね。お腹が空いたね、クチナ。明日まで我慢できるかえ? 特別な夜にしてやろう。ネネを好きにしていいのだぞ。長老共は困惑するかも知れぬが、妾は咎めぬ。神事など形だけでよい。大切な事は、お前がその欲を満たし、妾を受け入れること」

「欲を……満たす……」

「そうだよ。怖がらなくていい。これも蛇穴の為。仕方のないことだ。堂々と食ってしまえ。それに、お前に喰われることこそ、ネネにとっての真の幸福なのだ。心配はいらぬ」

「ネネが……求めている……わたし……を」


 わたしを食べてと言った赤の少女の幻影が、クチナの脳裏にちらついた。

 思い出せば思い出すほど食欲が刺激された。今すぐ口に含みたい。呑み込んでしまいたい。そんな思いが溢れだし、涙が流れてしまいそうだった。

 だが、そんな中、クチナはふと思い出したのだった。


 ――八花に行けば、あなたとも友達になれるの?


 そう言ったネネの姿が脳裏に浮かんだのだ。


 ――ああ、ネネ……!


 駄目だ。食べてはいけない。

 自制心が復活し、身体が再び揺れた。苛立ちが長い胴をくねらせ、床を叩きつけさせる。解消されない欲への苛立ちと、解消はいけないという焦りがぶつかり合い、クチナの心を八つ裂きにしようとしている。

 そんなクチナを前に、大蛇様は勝ち誇ったように笑みを深めたのだった。


「全ての答えは明日。運命がどちらを選ぶのか試してみようじゃないか、なあ、クチナ」


 意地悪なその声は、恐ろしい宣告となってクチナの身体を締め上げた。

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