24日目‐1
翌朝、ミズチはクチナの元へと再び訪問した。
だが、クチナは殆ど喋れなかった。クチナの心を捉えていたのは幻覚と幻聴。苦痛は一晩で膨れ上がり、紐で縛られていた時よりも酷く心を削っていた。
そんな妹の姿に、ミズチは絶句していた。
「クチナ……」
いつでも会っていいと許可を出したのは大蛇様であった。
今朝がた面会を促したのも大蛇様の使いであったはず。わざわざこの姿を見せる流れにしたのはきっと反応を見るためだとミズチもまた分かっているだろう。しかし、分かっていても動揺せざるを得なかったようだ。
苦しむクチナに触れながら、ミズチは嘆いた。
「ああ……なんてこと。傷がこんなに……クチナ、大丈夫か?」
その様子にクチナは痛みを少し忘れた。
――姉さんがこんな事を言うなんて……。
蟲がそれだけ弱まっているという事だろうか。逃げだしたクチナを追いかけ、手を抜くこともせずに痛めつけた事なんて忘れてしまったかのように、ミズチは弱ったクチナを抱きしめて労わるようにその背を撫でた。クチナはそれを静かに受け止め、弱々しくだが姉の姿をしっかりと見つめた。
「更に蟲を入れられたのか。私の事が分かるか?」
その問いにどうにか頷くとミズチは感嘆の声を漏らした。
「そうか。お前は強い子だ。やはり私の妹ではなく、黒の少女なのだね。大蛇様の言う通り、私などとは全く違う」
力無くそう言われ、クチナは必死に首を振った。
声はあまり出ない。視界もぐらつき、時折、姉の姿がぼやけて見える。頭の中では常にざわざわとした雑音が流れており、今にでも面の少女の声が響きそうで落ち着かなかった。だが、そんな中でも、クチナはミズチの姿を見つめてか細い声で言ったのだった。
「わたしは……姉さんと兄さんの妹」
縋るようにその手を握り、クチナは確かめるように言ったのだった。
「同じ父さんを持ち、同じ母さんから生まれてきた妹……それを忘れないで……」
「クチナ!」
蟲がざわめき、身体は熱いまま。
クチナはそれでも意識さえ失えずに呻き続けていた。
楽な方へと意識を傾ければ、そのまま取り返しのつかないことになってしまいそうで怖かった。面の少女に言われるままに心を手放してしまえば、あっという間に大蛇様の思惑通りに事が運ぶのだろう。それが、クチナは嫌だった。反発と抵抗だけでここまで耐えしのんで来たのだ。
だが、それも限界が近づいていた。
「姉さん……助けて……」
クチナは縋るしかなかった。
自分より強いはずの姉へ。力でねじ伏せ、此処まで連れてきたのは蟲の働きの所為。その働きが弱った今、心おきなく頼りたい存在となっていた。
「苦しいの……助けて……ネネを食べたくない……食べたくないんだ」
(本当はこんなに食べたいと思っているくせに)
面の少女の声が響く度に、クチナは重石で頭を殴られるような苦痛を感じた。だんだんと少女の言葉を否定することもあやしくなっていた。
美味しそうと思っていたのは本当の事。食べてはいけないと思っていたのも本当の事。どちらに傾くかで全ては決まる。食べてしまえば後悔すると分かっているのに、面の少女の言葉は重たく、欲望を留める理性を傷つけていくのだ。
その上、クチナに囁くのは面の少女だけではない。
(あの子は食べられたいと思っているはず)
ネネによく似た声が今度は響く。
(黒の少女に食べられるために、わたし達は生まれてきたのよ)
今まで犠牲になった赤の少女の声。
それが本物なのかまやかしなのか、クチナにはどうだってよかった。どちらであるにせよ、これほど強い動揺を産むものもなかった。
――ネネが本当に食べられたいと思っているとしたら。
そんな期待がすぐさま浮かび、慌てて消さなくてはならなくなる。
苦痛の狭間で混乱し、涙を流すクチナを抱きしめながら、ミズチもまた悲痛な面持ちで高まる心を必死に抑えていた。
「すまないクチナ。頼りない姉さんを許してくれ。大蛇様を恐れ、八人衆を恐れ、命じられるままに祝い酒を飲んだ姉さんを、どうか許してくれ」
震えながらそう言って、ミズチは汗ばむクチナの額をそっと撫でた。
「ニシキさえも守れなかった。その上、このままではお前も失ってしまう……ああ、クチナ……私はどうしたらいいんだ」
嘆き悲しむ姉の姿を見つめながら、クチナは押し黙ってしまった。
クチナは黒の少女だが、姉は違う。筆頭として長くオニをまとめてきただろうけれど、それだけで全ての心労を受け流す事が出来るほど強くはない。ミズチとてまだ二十歳と少しを越えたばかりの若い女なのだ。クチナから見れば遥かに大人に思えても、そう見せているだけに過ぎない。
(これ以上、巻き込むのはやめなさい)
少女の声がクチナの頭に響く。
(この人の幸せを願うのなら、助けを求めたりしないで)
――幸せを願うのなら……。
その幸せとは何なのだろうとクチナはぼんやりと考えた。
「……どうしたらいいも、ないか」
ミズチがふとそう呟いた。
「クチナ。耐えられるだけ耐えてみるんだ。私も動ける範囲でどうにかならないか確かめてみよう。私一人でお前を救う事は無理かもしれないが、糸口はきっと見つかる。だから、まだ諦めるな、クチナ」
――姉さん……。
強い眼差しで、ミズチは励ます。
「最後の足掻きだ。時間いっぱい足掻いてみよう。私たちから家族を奪った鬼灯の連中を、思いっきり困らせてやろうじゃないか。なあ、クチナ」
「姉さん……そんな事して……大丈夫なの?」
「私はいい。それでどんな罰を受けることになっても後悔はしない。今のお前を見放して、身代りにして、自分だけ恨みつらみを噛み殺して死人のように生き延びる方が後悔するだろう。だから、私の事は気にするな。お前がどうしたいかだけだ」
「……わたしは」
答えようとしたクチナを蟲達が咎める。
(駄目よクチナ。耳を貸しては駄目。この女の言葉は偽りとなる。どうせすぐにまた大蛇様の傀儡となるのよ。期待するだけ無駄なこと)
面の少女の言葉が響き、クチナは俯いた。
身体のあちこちが痛む。細かな傷口が割れて血が流れていくのを感じながら、クチナは静かに考えていた。
少女の言葉は尤もだろう。
ミズチの言葉がいくら真のものであったとしても、いつかは偽りとなり、その約束も泡のように消えていく。ミズチが「筆頭」という立場で管理されている以上、大蛇様はいつだって彼女に蟲を与えられる。
クチナは分かっていた。
それでも――。
「わたしは……助けて欲しい」
それでも、クチナはそう答えた。
「ネネを食べたくない。大蛇様になんてなりたくない。姉さんや兄さんの妹として……まだ会ったことない妹や弟の姉として大人になりたい。お願い、姉さん……力を貸して」
(ああ……なんて愚かなことを……)
クチナの頭の中で、面の少女は嘆いた。
だが、クチナの気持ちは変わらなかった。蟲たちが追い詰めれば追い詰めるほど、かえって大蛇様への抵抗ばかりが膨らんでいく。
弱々しいながらもしっかりとしたその眼差しを受け止めながら、ミズチはその手をぎゅっと握りしめた。
「わかった」
姉の言葉が耳に入るや否や、クチナの中で蟲達がさざめいた。
「残された時間で出来る限り、機会を生みだしてみせよう。すまない……今は耐えてくれ、クチナ」
強くありながらも心から励まし詫びるそのミズチの言葉が、クチナの心に強く響いた。
(駄目よ……信じては駄目だったら……)
蟲と共に面の少女の声が抵抗する。しかし、その言動は希望を抱いたクチナの心を縛り上げてしまうには、ほんの少し力不足であるようだ。
今はただ、姉の言葉を信じたい。
限界の淵に落とされる寸前で、クチナはどうにか留まっていた。
出来るだけ早く、そんな機会が訪れる事を願って。




