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2日目‐2

 泣女川は透明な蛇穴の血脈。蛇穴の中部に聳える泣女山なきめやまより陸を縦に割るように流れ、そのまま湾へと続いている。泣女川には青龍――竜神様がいると言われていた。

 清い水を血潮のように流し続け、山林の鮮度を保っている。


 竜神様にその役目を与えたのは蛇神大蛇だとネネは聞いているが、その真偽は定かではない。ただ、竜神様がいるのは確かなようで、人間だけではなくアヤカシやケモノまでもが泣女川を汚すまいと心がけて暮らしているそうだ。


 だから、泣女川は美しい。

 ネネはその事を常識として既に知っていた。


 だが、実際に泣女川の姿を見てみれば、その常識も忘れてしまうほど見惚れてしまった。その光景はまるで青い大蛇だいじゃが透き通るような美しい鱗を輝かせて寝そべっているかのようだ。流れていく水の音は、ネネが牢より聞いていた溝を流れる雨音なんかとは比べ物にならないほど心穏やかなもの。そしてその水気を含んだ空気の味は、疲れたネネの喉を潤す癒しであった。


 ――綺麗。


 改めて、ネネはその感動に浸った。

 言葉や絵では想像出来ないほどの美しさがそこにはあった。眼に宿すまで、ネネはその本質を知らなかったのだとよく理解した。実際に見てやっと、本に書いてあった素晴らしさが伝わった気がした。


 ――でも、まさかこんなに綺麗だなんて。


「見惚れているね」


 ふと、隣でクチナが言った。

 ネネが慌ててその顔を見てみれば、クチナもまた泣女川の水を瞳に映したまま微笑んでいる。彼女もまた、水に見惚れているようだった。


「わたしも初めて見た。綺麗だね。竜神様の鱗のようだ。これが蛇穴の血潮なんだね。穢すのは大罪。やってはいけないこと。どんなに狂ったケダモノでも、泣女川をわざと汚すような者はいないだろうね」


 そう言って、クチナはそっとネネから手を離し、川のほとりにしゃがみ込んだ。そっと手をつけると、何処までも清らかな水を掬い、その香りを嗅ぐ。


「大丈夫みたい」


 そう言って喉を潤すと、ネネを見上げた。


「喉が渇いたんじゃない? 起きてから何も食べてないどころか、水すら飲んでいないもんね」

「……うん」


 ぎこちなく頷いて、ネネも隣にしゃがみ込んだ。

 クチナに倣って恐る恐る水に触れてみた。非常に冷たくて、ぴりぴりとした感触がネネにもたらされる。だが、掬いあげられた水の味は、それまで渇いていたことをやっと気付かせてくれるくらい、研ぎ澄まされた味がした。


「美味しい」


 ネネが一言だけ呟くと、クチナは微笑んだ。


「泣女川の水は初めて?」


 訊ねられ、ネネは前を見たまま頷いた。


「……うん。結構、冷たいんだね。泣女川っていう存在は知っていたけれど、触るのも見るのも初めて。……綺麗」


 思うままに答えながら、ネネはふと心に名も知らぬ一つの想いが宿ったのを覚えた。

 しかし、すぐにその想いを振り払った。


 クチナは誘拐犯だ。大蛇様への反逆や守人やイヌ達への暴力。これらは許されるべきものではない。鬼灯の少女でありながら、蛇穴の人間に手を出すなんて、信じられない。


 けれど、ネネは少しだけ感じたのだ。

 今のクチナとの会話が楽しく思えた。対等な立場で問いかけられ、自分の想いを答えただけなのに、その会話の成立が嬉しいもののように思えたのだ。


 ――いけない。わたしは赤の少女なのに。


 ネネは気持ちを落ち着かせ、川の水を再び口に含んだ。

 きっと疲れてしまったのだろう。そう思う事で、自分の気を紛らわせた。


「疲れた? 歩き通しだったし、当り前か。少し休もうか」


 そう言いつつも立ち上がるクチナを見て、ネネは思わずその手を握った。


「……何処に行くの?」


 不安になったのだ。

 昨日、連れ出されたばかりの時のネネは、クチナが離れてくれないのが忌々しかったというのに、今ではすっかりクチナが傍に居ないと怖いと感じるようになってしまっていた。

 理由は勿論、アヤカシだ。それに、獰猛なケダモノも同じ。今日だって既に何度も襲われた。皆、ネネの内臓を狙っているのだとクチナは言った。そう言われて、どうして安心出来るだろう。クチナの刃だけが頼りである今、置いて行かれるのは恐怖でしかなかった。


 しかし、クチナは言った。


「君は待っていて。この場所を離れなければ大丈夫。皆、竜神様を恐れているからね。人間共もすぐには追って来られないみたいだし、大人しく此処で待っていてよ」

「……でも」


 言いかけるネネを無視する形で、クチナはあっさりと何処かへ行ってしまった。

 美しい川のほとりに一人残されて、ネネは震えた。本当に大丈夫なのだろうか。いくら竜神様が怖くても、この世界には大蛇様でさえ怖がらずに欲に溺れるような輩がいるのだ。信用できるはずもない。

 けれど、クチナは行ってしまった。

 怖がるネネを一人置いて。


 ――なんて勝手な子なの……。


 一人嘆きながらネネは泣女川を見つめた。


 この目で見るのは初めてだが、泣女川というものは蛇穴に暮らす者の殆どにとっては身近なものであるということは知っていた。ネネは赤の少女。いつか大蛇様に捧げられるのならば、それに相応しい姫であらねばならないと、雌鶏様を始めとした教養ある大人たちによって、蛇穴についての常識を丁寧に学ばされたからである。


 泣女川。泣女山に存在する唯一の湖――乙女湖おつめこが源流だと聞いている。かつてそこでは大蛇様ではない邪神に捧げるべく人間の女たちが犠牲になった歴史がある。その女たちはネネとは違い、少女もいれば既婚の女性もいた。普通に育てられ、普通に暮らしていた者が、ある日突然邪神の使いに呼ばれ、無理矢理家族と引き離されて贄として山に囚われたのだ。

 攫われた女たちは邪神に喰い殺されるか、乙女湖に身投げをするかの選択を迫られ、各々が各々の方法で死んでいったらしい。その為、山では女たちの悲鳴や泣き叫ぶ声がたびたび聞こえ、何百年経ってもその嘆きは山を取り囲んでいるのだとして、泣女山と呼ばれ、泣女川の水は女たちの流した涙で出来ているのだと信じられていた。


 ネネは知識でしか聞いて来なかったその話を思い出しながら、今一度、泣女川の水に触れてみた。とても冷たくて、心細い。だが、その何処かで安心する清らかさがあった。


 かつて泣女山を支配していた邪神はもういないとネネは聞いている。邪神の正体は怪蛇かいじゃであり、同じ蛇として戦った大蛇様に敗れた後は、心改め竜神となり、泣女川の主として君臨した。かつての行いを反省し、今後は死の穢れをもたらさぬ者として振る舞おうと決め、泣女山に宿る悲しみを慰めながら、蛇穴全体の清めを行っているらしい。


 ――竜神様はここにいるのかしら。


 いるとすれば、今、ネネをどのように見つめているだろう。

 竜神様は大蛇様に従うもの。ならば、大蛇様に反旗を翻すクチナをよく思っていなくたって不思議ではない。それだけではなく、抗う術も分からずにただついて行くしかないネネのことだって、よく思っていないかもしれない。


「大蛇様……竜神様……どうかお許しください……」


 呟きながらネネは空を見上げた。

 月の綺麗な夜空。今までになく開放的に見える空は息を飲むほど美しいが、今はその美しさに浸る気にもなれない。月の位置ではどちらが雌鶏様の待っている里で、どちらがクチナの故郷であるはずの鬼灯の里なのか分からなかった。何処に存在したとしても、きっと果てしなく遠いのだろうとしか分からない。


「イヌの御方々はご無事かしら……」


 自分の為に斬られていったイヌの一人ひとりが頭を過ぎる。あの中に、どれだけネネの知っている顔があっただろうか。狼の面で顔を隠していても、背格好や雰囲気から名前まで予測できる者もいた。

 彼ら全てが斬り伏せられてしまうなんて。


「どうしたらいいの……」


 ネネが嘆いていると、その膝元に果実は投げられた。千鳥梨と呼ばれる梨によく似た朱色の果実。妖力が宿っているとされ、鳥や鳥のようなアヤカシが好むので、そういう名前がついたと言われているものだ。ネネは恐る恐る千鳥梨を手にし、投げた人物を見つめた。クチナだった。彼女は無言でネネの隣に座ると、そのままごろりと地べたの上に横になってしまった。空で瞬く星を見つめたまま、しばし時間を置いてから彼女はやっと口を開いた。


「食べなよ」


 落ち着いた声だった。


「君が食えるものだって知っているから、木にお願いして貰ってきたんだよ。わたしはいらないから、君だけで食べてよ」

「……ありがとう」


 ぼんやりと礼を言って齧りながら、ネネは釈然としないものを感じていた。

 こんな状況に陥れたのはクチナだ。それなのに、ありがとうだなんておかしなものかもしれない。けれど、現実を忘れるならば、まるで同い年の友達に美味しい果実をわざわざ採ってきてもらったかのようで、少し嬉しかったのだ。


 ――変なの。罪人なのに。


 もやもやとしながらネネは千鳥梨を味わった。

 本で知った印象と違って、味は素っ気ないものだった。ネネが集落の牢で食べていたどの食材よりもずっと価値は低いものなのだろう。しかし、それでも、今のネネには身体の隅々まで沁み込む恵みであり、安全な牢の中で味わったどの食事よりも有りがたく感じるものであった。

 気付けば手は伸び、ネネはあっという間にクチナが持ってきた千鳥梨の全てを食べ終わってしまっていた。


「あれ、早いね。やっぱり、お腹空いてたんだ」


 クチナに軽く笑われ、ネネはそっと視線を背ける。


「だって、あれからずっと食べてなかったもの……」


 そう言って、ふとネネはクチナを窺った。


「あなたは? あなたは何か食べたの?」


 千鳥梨はいらないとクチナは言った。だが、ネネの知る限り、クチナは出会ってから何かを食べている様子を見せた事はない。立ち去った時に食べていたとしても、そう多くのものは口にする暇もなかっただろう。

 しかし、クチナは軽く笑んだまま眼を閉じた。


「うん、まあね」


 それは曖昧な返事だった。曖昧だが、別に問題はないらしいことが伝わってくる。詳しい事は把握できないが、ネネは一先ず疑問を引っ込めることにした。この少女とは攫い、攫われた関係。対等でない以上、踏み込むのは勇気がいることだった。

 ネネはそう考え直して、話を止めた。


「さて、そろそろ行こうか。今日は出来るだけ川の上流に行くんだ。ゆくゆくは泣女山に入って、更に北を目指す」

「どうしても、わたしを八花に連れていくの?」


 不安を隠しきれずにネネが問うと、クチナは起きあがった。手を伸ばして、ネネの腕を無理矢理掴むと、美しい顔にからかうような笑みを浮かべて頷いた。


「そうだよ。その為に逃げているもの」

「わたしは行きたくない。蛇穴にいたい」

「駄目だよ。君も一緒じゃなくてはいけないんだ。君が大蛇様の手に渡れば、私が困る。だから、従ってもらうよ」


 強く言われ、ネネは無言で俯き、引っ張られる力に従うままに立ち上がった。


 どうしてそこまでして新しい土地に行きたいのか。どうしてそこまでして大蛇様から逃げたいのか。クチナの想いなど、ネネには分からない。分かりたくもなかった。黒の少女という言葉の響きは気になったけれど、深く聞くのは怖かった。ネネは信じていた。赤の少女としての定めを、当り前の者だとして受け入れ、守ろうと決めていた。それ以外の道を知らず、知ろうともしなかったネネにとって、クチナの行動や理由など恐ろしく縁遠いものでしかなかったのだ。

 だから、巻き込まれるのは嫌だ。けれど、嫌だからといって抗う術は本当にない。


 無力な自分が呪わしい。ネネはつくづく己を卑しく思った。

 そんなネネを余所に、腕を引っ張りながらクチナは歩きだす。彼女の言う北側――泣女川の上流を目指して、虫の音や夜風、夜鳥の怪しげな声に囲まれる暗い夜道を進んだ。川のほとりの石ころをじゃりじゃりと踏みしめながら、クチナは道中言った。


「北にずっと行けば、いつかは隣国細石さざれいしに辿り着く」


 北を目指して歩きながら語り続ける。


「けれど、そこも危なっかしい。大蛇様への信仰心も薄くはあっても存在するからね。更に北側にある天翔国てんしょうのくにも同じ。細石よりはましだけれど、やっぱりそこも信用できない。だから、わたしは八花を目指しているんだ」


 細石。天翔。そして、八花。

 どれもネネにとって文字でしか知らない場所だ。いつかそれぞれの町を見たと言う旅する絵師の絵画を目にしたことがあるが、それだけではどんな場所なのかなど把握しきれない。そもそもネネは蛇穴の都や町は勿論、産まれた集落の全貌ですらはっきりと知らずに過ごしてきたのだから。


「天翔の更に北。七花地方と十六夜町からなる美しい国。あそこは蛇神なんて信仰してない。鬼灯の権力も通用しないし、赤の少女なんて祀られやしない。あの場所なら、わたしも君も普通の少女として暮らせるはず」


 クチナは言った。その言葉は何処か切羽詰まっており、必死に求めて手を伸ばしているようだった。そのあまりの切実さに、ネネはやっと踏み込むことが出来た。


「……あなたは何者なの?」


 問いかける言葉に、クチナは黙ったまま歩み続ける。

 その背中に、ネネは今一度訊ねた。


「黒の少女って、何なの?」


 しかし、その答えは帰ってこなかった。

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