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22日目‐1

 どのくらいの時が経っているのか、クチナには分からなかった。

 紐で吊るされる時間は少なくなっている。下女が現れ、身体を拭くなり食事をもたらすなりしてくれる時が、時計となるだけ。しかしそれでは正確な時間が分からない。地下に日は射し込まず、仄かな明りはいつの時刻も変わらない。

 今が昼なのか、夜なのかさえもクチナは分からなかった。


 兄と姉が来てくれた時からは相当な時間が経っているのではないか。しかしあれから、兄も姉も姿を見せてくれなかった。

 来るのは何故だか大蛇様ばかり。

 禁じられてしまったのだろうか。忙しいだけなのだろうか。

 分からないままクチナは、再び紐に吊るされていた。目の前に居るのは、今日も大蛇様だけ。彼女が来ている時は下女は絶対に訪れず、誰ひとりとしてこの場に介入する者はいなかった。


「やつれたようじゃな、クチナ」


 大蛇様は言った。


「吊るされているのがそんなに辛いか? そうであっても、出された物は残さず喰え。お前の為に命を散らしたケダモノや草花共に悪いだろう?」

「……それでは、食事の量を減らしてください」

「そうは行かぬ。あの量はお前が食えるはずのもの。お前の身体をきちんと整える為に必要な量だ。次は躊躇わずに口を付けてみよ」


 黙るクチナに一歩近づき、大蛇様はその肌に触れた。


「お前は喰えぬわけではない。妾を恐れるあまり、受け付けなくなっているのだろう。だが、クチナ。お前のやっている事は無意味な事。妾を思いやる心があるのなら、どうかいい子に振る舞っておくれ。妾をこれ以上残酷にさせないで欲しいのだ」


 そう言いながらも、大蛇様の手には今日も簪が握られていた。

 目を覚ましてから、痛みは常に傍にあった。紐で縛られて吊るされているだけでも苦痛は生じる。それだけではなく、動けず、逃げられないクチナに対し、大蛇様は好んで血を流させたのだ。

 簪を手に傷の塞がった肌をなぞっていく。

 そんな大蛇様の動きに、クチナの恐怖心は煽られる一方だった。


「……やめて」


 力無くクチナは言った。


「大蛇様、どうかやめてください。蛇穴の女神様が血の穢れを好むなんて……あってはならないことのはずです」

「黙れ。誰の所為だと思っておる。お前が従順ならば、こうはならなかった」


 そう言って、大蛇様は塞がったばかりの傷口付近で簪をさまよわせた。


「それにな、クチナ。お前の流す血が生み出すのは穢れなどではない。蛇穴の土壌を潤す尊い血じゃ。知っておるか、クチナ。古の時代、蛇穴にて生贄とされるのは赤の少女ではなかった。妾の血を継ぐ鬼灯こそが、蛇穴の土壌を守るためにその血を流して犠牲となってきた。赤の少女を頂くのは、妾の可愛い鬼灯たちを守るために必要なことなのじゃ」

「……そんなの」


 言いかけたクチナはそのまま悲鳴を上げた。

 何か言うのを待たずして、大蛇様がとうとう簪を突き刺してしまったのだ。右手から右肩にかけてはとうに傷だらけだ。その為、新たに無傷であった左手が犠牲となった。刺された辺りが熱を帯び、血が少しずつ流れていく。その感触が痛みの余韻となってクチナを苦しめた。


 ――痛い……痛い。


 黒の少女は丈夫な存在。痛みにはなれていたと自負していたクチナでも、涙を流してしまうほどのものだった。こんな思いを毎日繰り返している。それでも、クチナは諦めきれなかった。どうしても、譲れないものがクチナを苦しめていた。


「泣きたければ泣くがいい。だが、妾が聞きたいのはお前の可愛い悲鳴ではない。赦しを乞え、クチナ。たった一言でいいのだ。愛らしい歌鳥たちのように妾へと誓いを捧げるだけでいいのだ」


 ――そうしたら……わたしは……。


(赤の少女を食べてしまう)


 クチナの頭の中で声が響いた。


(でもそれが、なんだっていうの?)


 大蛇様に似た幼い声。あの少女の声だ。面で素顔を隠し、時折クチナの夢にて囁く先代の黒の少女の残り粕。


(あなたは心の底からネネを食べたいはず。美味しい血肉を持った子。あなたの為だけに生まれてきた生贄。命と共に心も体も奪ってしまえば味わったことのない幸福があなたにももたらされるわ)

「だから君は孤独なんだね」


 その言葉が口から漏れだした時には、辺りは既に意識の狭間でいつも見る水面と暗闇で囲まれた静寂の間となっていた。

 面の少女はクチナの目の前に立ち、窺うように首を傾げる。


「孤独? いいえ、孤独ではないわ。わたしの頭にはこれまでの全ての黒の少女がいる。わたしの心にはこれまでの全ての赤の少女がいる。どうして孤独なんて言えるのかしら。あなたもすぐに分かることよ」

「いいや、孤独だよ。こんな場所に囚われ続けて、幸せなわけないじゃない」

「……酷い子。わたしはもうずっとこうして此処に住んでいるのよ。あなたはわたし。わたしはあなた。納得してこの運命を受け入れるのがわたし達の正しい姿」

「君は納得していないんだ。納得していたふりをして、大蛇様に連れて行かれてしまったんだ。閉じ込められてしまったんだ。わたしは君のようになりたくない」

「……酷い、酷いわ。わたしはずっと赤の少女を守ってきたのに」


 面の少女はそう言って両手で顔を覆う。

 その途端、クチナの周囲の風景は一変した。朝焼け――或いは、夕暮れのような赤い空間が広がり、足元の水面もまたその色を映して輝きだした。

 少女がゆっくりと手を外すと、そこにあったのは面などない素顔。ただし、そこにいたのはもはや先程までの少女などではなく、何処かネネによく似た赤毛の少女であった。


「……わたしはずっと黒の少女を支えてきたのに」

「――ネネ?」

「いいえ、わたしはネネになる前の赤の少女。過去世のあなたが喜んで食べた生贄の残り粕。黒の少女と一緒に、朽ち果てるまで大蛇様に全てを捧げている者よ」

「先代の……赤の少女」


 離れようとするクチナの手を、赤の少女は透かさず掴む。


「わたしを見て、クチナ。わたしを見て。心に浮かんだ感情を無視しては駄目。赤の少女が生まれてきた意味を、あなたは知っているはず。赤の少女にとっての最高の幸せは、あなたに食べられる事なの。ネネはわたし。わたしはネネ。わたしはあなたに食べられたい。全てを捧げてあなたに尽くしたい。あなたの優しさは、わたしを傷つけるだけ。わたしを食べて。クチナ」

「……嘘だ」


 力ずくでその手を逃れ、クチナは後退りをした。

 赤の少女の笑みが怖かった。そして、その笑みを見つめている内に、自分の胸に沸き起こってくる感情が怖かった。喜んでいる。自分は喜んでいる。食べて欲しいと訴える赤の少女の姿に、悦びを感じている。


「嘘だ。ネネがそんな事、望んでいるはずがない」


 クチナは必死に言葉で否定した。


「一緒に未来を生きるって約束したんだ……死にたくないってネネは言っていたんだ……」


 ――そうだ、ネネは死にたくないって言っていた。


 辛うじて思い出したその光景を逃さないように、クチナは何度も想起した。


「此処は偽り。偽りの世界。君はネネじゃない。わたしでもない。君たちの言う事なんて信じない。わたしとネネの幸せは、わたしとネネで決めることのはず!」


 欲望を必死に抑え、クチナは叫んだ。

 その瞬間、赤い空間が共鳴し合い、鼓膜を揺るがすような高音を出した。その音は悲鳴のように広がり続け、やがて空間全体が血のように溶けだしていった。

 ふと気付けば、クチナは大蛇様と向き合っていた。

 冷たい眼差しで見つめたまま、大蛇様はクチナの頬に手を当てていた。


「御見事。お前の心のほりも中々深いものじゃ。妾を拒み続けるというのなら、それでもよい。だが、クチナ。もっとよく考えよ。妾の見せた光景は幻影などではないのだぞ。偽りではない。確かなもの。お前も分かるはずじゃ」

「……だとしても、ネネが食べられたがっているわけない」


 クチナは力なくそう言った。

 幻想の中のネネは言った。わたしを食べてと言った。その言葉がもし、真実のものであったなら、クチナにとってどんなに素晴らしいことだろう。だが、クチナは葛藤を抑えていた。素晴らしいと思う事自体が怖かった。


 ――ネネはわたしの友達……。


 震えが生まれ、体内にいる蟲たちがさざめく。


 ――ネネは死にたくないって言っていた……。


「クチナ」


 その耳元で大蛇様は囁いた。


「お前が見たのは偽りではない。赤の少女の残影は、今いるネネの前世の姿。これまでの黒の少女がお前とそう変わらなかったように、これまでの赤の少女もネネとそう変わらない。あの子は生き延びたいと言っているが、心の何処かでお前を欲しているに違いない。それが分からぬのは時が来ていないから。生贄も熟せば分かる。お前たちは家族にもなれなければ、友にもなれぬ」


 ――そう……なのかな……。


 ぼやけつつある視界の中で、クチナは血の流れを感じた。

 身体に突き刺さっていた簪が抜かれる痛みすら、今のクチナには遠い世界のことだった。彼女の視界に入るのは大蛇様の姿と、そして、幻影の中で悩ましげにクチナを誘う赤の少女の亡霊だけ。


 ――身体の中で、何かが蠢いている。


 蟲の動きと血の流れ。その二つを鼓動と共に感じながら、クチナは静かに俯いた。抵抗すらしなくなったクチナの姿を見つめながら、大蛇様は深く息を吐いた。


「今日は此処までにしておこう。あまり過ぎれば妾も怪蛇となってしまう。クチナ、早い方が助かる。妾とて、怪蛇になるのは避けたいからね」


 紐が解かれたところで、逃げ出す力なんて何処にもない。息をするのもやっとの中、クチナは大蛇様に身を預けるしかなかった。先程までの鬼のような形相はすっかり消え、大蛇様は赤子をそっと寝かすように、クチナの身体を床に寝かした。

 それは、幼い頃に見た大蛇様の姿と変わらなかった。本物の母親の代わりのようにクチナに接してくれた、ひたすら優しい女神の姿によく似ていた。


 ――大蛇様……どうして分かってくれないのですか。


(このままでは大蛇様も潰えてしまう)


 頭の中で面の少女の声が響いた。


(蛇穴の危機に繋がる)


 ――だからといって、ネネを食べてしまっては……。


(……こんなに食べたがっているのに?)


 食べたいという気持ちと傷つけたくないという気持ちの狭間で、クチナは感情で出来た長い胴を絡ませてしまっていた。

 いつまでこんな日が続くのだろう。光は本当に見えてくるのだろうか。

 冷たい床に寝かされたまま、クチナの心は真っ暗闇に包まれていた。希望を信じる心さえも、もうすっかり枯れて果ててしまっているかのようだった。

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