20日目‐1
不快な感覚と共にクチナは目を覚ました。身体はとても重く、とても固い。動くのがやっとという状況が、更に赤い紐で縛られてしまっている。
気付いてすぐに、クチナは暴れた。
だが、紐の拘束は少しも解けず、ただ身体が苦しくなっただけだった。
傍には誰もいない。光の当たらない広い部屋に、たった一人で吊るされているだけだった。それでも、クチナは此処が何処なのか分かっていた。此処が、見覚えのある部屋だったからだ。
――ネネ……ネネ、何処?
必死に辺りを見渡したが、やはり自分以外は誰もいなかった。
夢などではない。目覚めるより前、確かに自分はネネと旅をしていたはずだった。必死に記憶を辿り続け、クチナはようやく思い出した。
――わたしは負けたんだ。
蛇斬に全てを託して挑んだ相手は筆頭ミズチ。
父を同じくする実姉は、一切手を抜かずにクチナの相手をし、そして全てを斬り捨ててしまった。クチナは覚えている。もう動けない身体でどうにか勝利をもぎ取ろうと動く自分を虫けらのように見下し、大蛇様より授けられた黒霧の刀で斬りつけてくる姉の姿を。
――ああ、そんな……。
負けてしまい、細石のあの場所から此処まで一切眼も覚まさずに来てしまったということだ。
――ネネ……ネネは何処に居るの……。
動こうとするクチナの腕を、紐は厳しく制御する。その痛みはクチナの意思をそぎ落とし、抵抗の心を確実に奪っていった。
ネネは人形の里に戻されてしまったのだろうか。このまま儀式の日まで会う事は出来ないのだろうか。
――そんなの嫌だ。
泣きだしたいほど辛くなってきた頃、部屋の扉が急に開かれた。
「クチナ。目を覚ましたようじゃな」
下女でもなければ、オニでもない。現れたのは大蛇様であった。
見つめるクチナに迷いなく近寄り、大蛇様はその指で唇に触れてくる。その途端、クチナの身体は震えだし、今までにない程の恐怖が生まれた。
「ミズチの奴も随分と勇ましいものよ。まさか儀式の日まで眠ったままなのではと恐れていた頃だった。無事に戻ってきて嬉しいぞ、クチナ」
「わたし……わたしは……」
大蛇様の目を見るにつれ、クチナは恐怖した。大蛇様の表情は微笑みを留めたままあまり変わらない。しかし、その裏側に見え隠れするのが、怒りに思えたのだ。
「言い訳など良い。お前は外を見たかっただけ。そう思う事にした。どんなに罰当りなことを考えていたとしても、お前は所詮、妾の一部。戻ってくればいつかは気も変わろう」
「……ネネは」
その名を口にした途端、クチナの心は少しだけ軽くなった。
「ネネは何処に居るのですか。人形の里に戻してしまったの?」
「いや、妾が預かっておる。心配せずとも、あれはお前のための生贄。妾が手を出す事はない。可愛い雌鶏ともちゃんと別れの時を作ってやったのじゃ。これから儀式の時まで、あの子は妾の膝元で守られ、穏やかに過ごす事となるだろう」
――御社の中に、ネネが……。
意識した途端、クチナの心に再び炎が灯った。
まだ諦めてはいけない。そんな思いが確かに沸き起こったのだ。だが、大蛇様はそんなクチナの目を見つめ、笑みを深めた。
「お前は妾の一部。考えている事は手に取るように分かるぞ。もう諦めなさい。八花に行ったって何にもならないよ。契約は強固なもの。お前ひとりの抵抗で妾を好きにするなど出来るはずもない」
「何故ですか、大蛇様。何故、そこまでして契約を守らねばならないのですか」
寂しげなその声を聞き、クチナは必死に訊ねた。しかし、大蛇様は表情を変えぬまま答えたのだった。
「赤は約束の色。これまでもう数え切れないほど、人間たちは赤の少女を妾に捧げてきた。そして、黒は再生の色。赤と黒は混ざりあい、不滅の力となって蛇穴を守っているのだ。契約を無視すると言う事は、蛇穴を見捨てるという事。お前は蛇穴がどうなってもいいというのか?」
「違います。蛇穴も鬼灯も滅ぼしたいわけじゃない。でも、大蛇様、あなたは人間を甘くみています。あなたが此処までしなくても、人間たちは繁栄できます。ネネの力を受け取る方法は、何も食べてしまう事じゃない。八花の神様は人柱を傍に置くだけでその力を得るのでしょう? ならば、あなただって同じ事が出来るのではないの?」
「それを人間たちが望んでいないから、こうしているのだよ。妾が力を抜いて、火の小島が暴れたらどうする。その怒りが他の火の山にまで影響したらどうする。八花と此処は状況が違う。本当は分かっておるのだろう、クチナ」
「わたしの魂があなたの一部だと言うのなら、わたしの心も本来あなたが持っていた疑問なのではないのですか? 大蛇様、どうかもう少しお考えください。わたしは、ネネを食べたくないのです」
「いつまでそんな事が言えるのか楽しみじゃな、クチナ」
大蛇様は笑う。その姿にクチナは絶句した。
目の前に居るのはかつて神秘的な眼差しで鬼灯全体を我が子として愛してきた女神に違いない。だが、クチナがこの場所を逃げる前よりも、今の大蛇様の姿には陰りが強くなってきたような気がしたのだ。
――拘束されているわたしの姿がそんなに面白いの……。
不穏はクチナの心身を震わせた。
何故、大蛇様はずっと美しい金木犀柄の簪を頭に付けずに持っているのだろうか。何故、その簪は必要以上に鋭いのだろう。
怯えを露わにし始めるクチナに対し、大蛇様は言った。
「前にも言った事があったかねえ、クチナ」
簪を持ちあげ、妖しく頬ずりをする。仄かに金木犀の香りがした。蛇斬のものによく似た香りだった。
「沖を越えた先に大陸がある。そこに住まう住人共は、近隣国の者によく似た姿をしておるが、言葉が通じぬ異世界の者たち。だが、それでもこの火山大島の神々を敬愛し、わけあって訪れる際は自国の品を奉納するものなのじゃ。遥か昔、その国より贈られた雄株には不思議な力があってなあ、その気を蛇斬の鞘にうつせば、その邪悪なほどの妖力を制御するのにとても役立った。だが、金木犀の力はそれだけじゃない」
そう言いながら、大蛇様は簪の先端でクチナの頬をなぞりだした。
「この簪も妾の為となるように、願いを込めて気を移した。そうなるとね、簪に仕込んだ可愛い蟲たちが喜んで働くのじゃ。口より含ませるよりずっと強力な妖力を発揮し、宿主を支配していく。どれ、クチナ、試してみようではないか」
大蛇様は言い終わるや否や、クチナの手のひらを簪で突き刺した。場所は利き手である右手。血と熱と鼓動が手のひらを支配し、遅れてようやくクチナは痛みを感じる事が出来た。どくどくとした血は流れていっているはずなのに、同じようにどろどろとしたものが傷口から入る気持ち悪い感触がクチナを襲った。
「いや……やめて……大蛇様っ!」
「怯えるな、クチナ。悪いものではない。こやつらはお前の苦しみを蝕んでくれるだけ。お前の身体に害はなさぬ」
「でも……わたしの、心は……」
いつか姉のミズチに仕込まれた際は、ネネがいたお陰で打ち勝つことが出来た。しかし、あれは特殊な事。黒の少女として生まれたクチナだが、蛇斬の他にはほぼ当り前の鬼灯の妖力しか自覚出来ていなかった。この蟲は強大な鬼灯を操るためのもの。一人でいつまでも抗えるようなものではないのだ。
このままでは自分もまた大蛇様の人形となってしまうだろう。ネネへの友情も忘れ、共に八花へ行きたいと言う希望も忘れて。
――嫌だ。そんなの嫌だ。わたしはネネと一緒に、八花に……。
手のひらに突き刺さった簪がぐるりと回される。その激しい痛みにクチナはついに悲鳴を上げた。
「痛いか、クチナ。心など捨ててしまうがいい。眠っておれば全てはよくなる。お前の心もいつかは妾の元へ返るだけのもの。八花など幻想じゃ。お前が望む理想郷は妾の中にのみある。ネネと二人、安らかに過ごせるのだよ」
――そんなの……信じない。
言葉は口より出て行かなかった。
手のひらよりもたらされた感触が少しずつ体内を巡っていく。来てはならない場所を目指して、蟲たちは進んでいっている。それが信じられないほど恐ろしかった。圧倒的な強さを見せつけた細石の白鬼などよりも何百倍も怖かった。
――大蛇様……どうして……。
分かってほしいだけだった。
大蛇様のやり方は間違っていると訴えたかった。
しかし、クチナは負けてしまったのだ。
(敗者とは悲しいものね)
閉じかける瞼の裏に広がる闇を見つめていると、誰かがクチナにそう囁いた。大蛇様に似ているが、とても幼い声。悲しげに、切なげに囁きながら、クチナの意識を更に引っ張っていこうとする。
――やめて……。
(おいで、クチナ。これ以上抵抗しても苦しいだけよ)
――君は、誰なの?
クチナの知っているどの鬼灯とも違う声。ネネのものでもなく、クチナ自身のものでもないその少女の声に、ついにクチナの意識は落ちていった。
――此処は……?
紐で縛られ、血を流していたはずの世界は溶けるように変わっていき、暗闇と一面に張られた水面がクチナを取り囲んでいた。
一人。いや、違う。クチナのすぐ背後には、いつの間にかオニたちのつけるような面で顔を隠した同じような年頃の少女が立っていた。
「君は誰? 此処は?」
彼女に近寄ろうとして、クチナは気付いた。
手のひらの傷が無い。先程までよりもずっと身体は軽く、ネネから気を貰ったばかりの時のように呼吸が楽だった。
「此処はわたし達の場所。黒の少女だけの場所。あなたがいつか、あなただけの生贄と一緒に留まる世界よ」
「……わたしだけの為の場所?」
――いつか、ネネと共に留まる場所?
クチナはふと気付き、面の少女を窺った。
「じゃあ、君は誰なの? 君は……もしかして……」
「此処は黒の少女の場所。わたしは黒の少女だった者の残り粕。わたしだけの生贄と一緒に、百年近くこの場所で過ごしてきたの」
「先代……」
「此処は大蛇様が作りあげた籠の中。誰もわたし達を害しはしない。わたしはただ、過ごしていただけ。大蛇様に身体を捧げて、生贄の子の意識と一緒に過ごしてきた」
淡々と語りながら、面の少女は手のひらを翳した。
「わたしの姿は未来のあなた。あなたが大蛇様になれば、わたしの全てはあなたのものになる。古い子は新しい子に呑みこまれ、永遠に少女のままで此処にいるの」
「……そんなの、寂しいよ」
クチナは面の少女を見つめて言った。
素顔は面の所為で分からない。だが、クチナは悲しかった。楽しさも、嬉しさも、何もかも忘れてしまっているかのような少女の姿が目の前にあることが苦しかった。
「わたしは大人になりたい。ネネと一緒にこの先も生きて行きたいんだ」
「存在し続ける事は出来るわ。あなたも、あなたの生贄も、大蛇様に全てを任せていれば、此処で幸せに過ごすことができる」
「そうじゃない。そんなの、求めている未来じゃない。わたしはネネと一緒に、他の子たちみたいに自分の意思で暮らしたいだけなんだ!」
感情のままにクチナが叫ぶと足元の水面が共鳴するように揺らぎだした。
その動きは強い抵抗を表しているというよりもは、クチナ自身の動揺を表しているようであった。口では抵抗していながら、心の何処かでこの面の少女の囁きに耳を傾けようとしている。その事にクチナは気付き、警戒を深めた。
――駄目……諦めない。
強く自分に言い聞かせ、クチナは面の少女を睨んだ。
「既に大蛇様になってしまった君には分からないでしょう。でも、思い出して。君は本当に納得していたの? 赤の少女をその目で見た時、命を奪う事に疑問は持たなかったの?」
「疑問を持つ方がおかしいのよ、クチナ。躊躇いこそ気の迷い。あなただってそうだったはず。生贄の傍にずっといて、今すぐ食べてしまいたいという欲望を抱かない黒の少女なんていないの」
「それは……」
初めて出会った時は、食べるなんてとんでもないと思ったはずだった。
しかしクチナは八花に向かうにつれ、ネネの隣でよからぬ思いを深めていった。
毎夜のように怪蛇へと変じた自分が恐れるネネを呑みこんでしまう夢を見ては、それが夢であった事にほっとしていたのだ。
大蛇様に強制されずとも、いつかはネネを食べてしまうかもしれない。その恐怖は日に日に現実味を増していき、言葉にならぬ不安となってクチナの心を揺るがした。
それでも、クチナは強く信じた。
大蛇様の力の及ばない場所へ行けば、こんな欲望に囚われることなどないのだと。八花に行けば、自分は黒の少女ではなくなるはずだと。
だが、面の少女は残酷にもクチナに告げたのだった。
「遠い地に行ったところであなたはあなた。何も変わらないのよ」
大蛇様に何処か似た声で、そう言った。
「あなたの不安はあなたが目を逸らしてきた現実。どう足掻いても、現実は変えられない。あなたはただ嫌な事から逃げていただけ。けれど、それでもいいの。考え方を変えてみなさいな。あなたもネネも死ぬのではない。此処で二人きりで幸せに暮らすのよ」
「……二人きり」
「ええ。二人きり。誰にも邪魔されないで、わたし達は赤の少女を独占する。赤の少女はいつだってわたし達に逆らえない。あなたの場所で、あなたの好きに出来るの。素晴らしいじゃない。ネネをあなただけのものに出来るのよ」
面の少女が手を伸ばす。その指が唇に当たり、クチナは動揺を深めた。
少女の言葉は戯れなどではない。クチナは思い当たるものがあった。彼女が言っているのは、確かに自分が抱いたことのある願望だったのだ。
――ネネを取られたくない。
言う事を聞かず、反抗するネネに苛立ちを覚えたことだってあった。
――あの子はわたしのもの。
好きに出来るということは、なんと魅力的な事だろう。
――でも駄目だ。
「ネネはモノじゃない。わたし達は友達になりに行くんだ。君たちとは違う」
「友達?」
嘲笑うような面の少女の声が響く。
「そんなものじゃない。赤の少女と黒の少女は友達なんかよりもずっと深いものなのよ。それを友達ですって? ああ、クチナ、どうしてなの。あなたがなりたいのは、本当は友達なんかではないはず。そうでしょう、クチナ。わたしが今しているように、あなたもネネを手に入れたいはず」
自身の胸に手を当てながら、面の少女はそう言った。
「この子はもうわたしから逃げられない。一心同体。好きな時に抱きしめて、好きな時に味わえる。友達なんかよりもずっと深いもの。家族よりもずっと深いもの」
「……違う。それは、わたしの求めているものじゃない!」
――八花に行けば、友達になれるの?
いつかそう言ったネネの声がクチナの頭の中に響き渡った。
なれると答えた。仲間にでも、家族にでもなれるのだとクチナは約束した。今だってその約束を破るつもりなんてさらさらない。そのくらい、あの言葉は、あの表情は、クチナにとって嬉しいものだった。
――ネネはわたしを選んでくれた。
生まれながらに刷り込まれたはずの大蛇様への信仰ではなく、クチナの誘いを信じ、力を貸して来てくれたのだ。
――そんなネネを裏切るなんて。
「わたしには出来ない。ネネを悲しませる事なんて、出来ないんだ!」
強く主張して見れば、水面は更に揺れ動き、やがては暗闇の空間自体をぼやけさせていった。面の少女の姿も霞み、クチナがはっと気付いた頃には、そこはもう夢幻の中のものではなく、大蛇様が真正面から見つめている現実の場所へと戻っていた。
紐に縛られる窮屈さが再び目覚めたクチナを迎えた。
血の滴りがじわじわと腕を伝い、床へと流れている。しかし、その痛みと気色悪さよりも、クチナの意識は大蛇様へと引っ張られていた。
「本当に、頑固な子じゃ」
大蛇様はそう言って、クチナの頬をそっと撫でた。
「無茶をすればそれだけ苦しむと言うのに」
憐れむようなその眼差しを、クチナは再び睨みつけた。痛みは強い。頭はぼんやりとする。身体の中に仕込まれた蟲は、まだ心に牙を剥いていることだろう。それでも、クチナは抗った。意識ある限り、諦めるつもりなんて全くなかった。
そんなクチナの心を見抜いてか、大蛇様は大きく溜め息を吐いたのだった。
「何、手がかかる子ほど可愛いものよ、なあクチナ。お前が何処まで同じ態度でいられるのか、とくと見せてもらおうぞ」
妖しげにそう言った後、大蛇様はようやく立ち上がり、クチナに背を向けて部屋を出て行ってしまった。
一人残されたクチナは吊るされたまま、焦燥感と苦痛に身悶えするしかなかった。




