1日目‐2
当り前な事だけれど、人形の里は人間しかいなかった。
ずっと鬼灯の里のそれも御社の中でばかり過ごしてきたクチナにとって、人間というものはいつだって物珍しい。
大蛇様を訪ねた旅の者を見る事はあっても、普通に生活している人間たちを見る機会なんて殆どなかった。
人形の里にも御社と呼べる建物があった。
格子窓が目立ち、複数ある入り口も人間の兵である面を被らぬイヌらしき者達が厳重に見張っている。里の者が時折礼拝するらしき痕跡はあるが、少なくとも今は許されていない。
礼拝する先は、不思議な歌声で里に恵みをもたらす雌鶏という呪術師か、彼女が大事に抱えるネネという赤の少女であるのだろう。
――いい香りがする。
物影に隠れながらクチナはじっとネネが匿われているはずのその御社を見つめた。
あの中にクチナが絶対に無視出来ないだろう何かが隠されている。分からないはずもなかった。それこそが、ネネと呼ばれる少女の香りなのだろう。
今すぐにでも侵入したいところだったが、いかに人間とは言ってもまだ日の照りつける時刻にあって、イヌ達を甘く見る事は出来ない。
アヤカシはアヤカシ向きの時間があるもの。
身体は女神の子孫であり、女神そのものの魂を持っているのだと言い聞かされて育ったクチナだったが、蛇神信仰などなければ鬼灯などアヤカシに過ぎないとも彼女は思っていた。その証拠に、今だって日の光は煩わしい。
「なあ、知ってるか」
ふとイヌの一人が隣で共に見張る仲間に話しかけた。
「雌鶏様の元に大蛇様から好ましくない言伝があったのだとか」
「勿論知ってるさ、相棒。その事でさっきから里が騒がしい。都へ急いで伝令を送ったそうだが、はたしてどうなるのかね」
「まさか鬼灯様の中でそのようなごたごたが起こるとは思いもしなかった。……ネネ様はこの事は?」
「御存じのわけがないだろう。雌鶏様が厳しく監視されているのだ。下手に不安を植え付けるようなことをすれば、職どころか里を追われてしまう。そもそもネネ様は黒の少女という存在すら知らないのだと聞いている」
「なんと……だが、その方がいいのかもしれないな。何もかも知ると言う事が幸せなことではない。雌鶏様もそうお考えの事だろう」
「何にせよ、俺ら下っ端には本来遠い世界の御話。俺らが出来る事はただ、時間いっぱいこの門を守る事くらいのものさ」
「ああ、もうすぐ交代の者が来るはず。あ、そうだ、終わったら一杯どうだい。物珍しい都の酒をいただいたのだがね」
「気が向いたらね」
――人間か……。
クチナは二人のイヌ達の様子を眺めながらぼんやりと思った。
――あんまり鬼灯のおじさん達と変わらないんだね。
大蛇様のいる御社を訪れる人間たちは、大蛇様の御前であるせいか堅苦しい者ばかりだた。心は鋼で出来ており、忠実で真面目であることしか知らないのだろうかとクチナは思ったものだったが、仕事で遠征する兄や姉からは、人間とはもっと鬼灯の下男下女のように自由に生きているものなのだと聞かされていた。
――なるほど、確かに自由そう。
しかし、彼ら二人が守る入口の向こうでは、その自由さすら許されていない少女が守られているのだ。
赤の少女。いつか自分が食べなくてはならないという生贄。
鼠や蛙、小鳥など小動物ならともかく、人間を食べるなんてクチナは想像が出来なかった。しかし、これまでの黒の少女たちは皆、赤の少女を食べて、その身に大蛇様を迎え入れたのだと聞かされてきたし、大人達がそうするように強要しなくとも、黒の少女とは赤の少女を喜んで食べるものなのだと聞いてきた。
今は想像もつかないが、御社から漂ってくるいい香りを嗅いでいれば、ただならぬものがそこにあるのだとクチナにも分かった。
――会ってすぐに食べてしまえば、もっと楽に逃げられるかもしれない。
クチナはふと思った。
人間を守るべしと教育されてきた彼女にとって、それは残酷な思い付きではあったが、どちらにせよ来年の夏には食べなくてはならない生贄なのだ。ならば、先に食べてしまったとしても、同じ事だろう。
――でも、それはあんまりかなあ。
考え込んでいる内に、交代の者は現れた。
日が沈み始め、暗がりが多くなっていく。御社の傍では松明がともされ、頼りない灯りが人間たちの目の頼りとなっているようだった。獣には夜目が利く者もいるが、人間たちは少なくともそういう生き物ではないらしい。クチナはそう聞いていた。
――じゃあ、この暗がりに紛れてしまえば……。
思い切って試してみれば、あっさりとイヌ達の監視は掻い潜れてしまった。
――よし、後は香りを頼りに……。
灯りは所々にあるのみで、後は暗くて不吉な廊下ばかりが続いている。香りを頼りに進んでいけば、その貴重な灯りすらも次第に少なくなっていき、香りが強まる頃には更に人の声も遠ざかってしまった。
――随分寂しい所に来てしまった。
香りに導かれるままに階段を降りれば、半地下という少し変わった階層に辿り着いた。廊下に出てすぐに、クチナは息を飲んだ。そこは冷たい石壁の狭い廊下と少数の牢だけがある寂しい場所だった。
――此処だ。
月光が微かに差し込むその場所には、殆ど人の気配はしない。それでも、たった一人だけの声が聞こえてきたのだった。
「これは尊い事なのよ……」
不安げな少女の声だった。
一番奥の寂しい牢の中より聞こえてくる。
そっと近寄ってみれば、かなり広い牢の中にて、頭上高くの格子窓を見上げながら蹲っている、真っ赤な衣を着せられた小さな少女の姿があった。
――珍しい色の髪。
赤毛が薄い月明かりに照らされている。しかし、それよりもクチナはその姿そのものから感じる並々ならぬ気配に引き寄せられていた。
「いいえ、寂しいなんて思っては駄目」
少女は痛々しいほどに震えながらそう言った。
「わたしの犠牲は尊いもの。大蛇様にこの身を御捧げするだけで、皆が救われる」
――あの子が……。
「わたしは赤の少女」
自分に言い聞かせるように、彼女はそう呟いた。
「だから、もっとしっかりしなくては」
――この子が、ネネ。
クチナもまた震えていた。そう認識した時のこの感動は何だろう。大蛇様が餌にすれば黒の少女は見逃せない。そう言っていた事が納得できるくらい、クチナはネネという存在に惹かれていた。
彼女がネネ。来年の夏に、食べなくてはならない生贄。
だが、それだけではないものがクチナの心に灯っていた。
まるで産まれる前からネネの事を知っていたかのようだった。前から知っていて、長い間会いたかった者のような懐かしさを抱いていた。
沸き起こる感動を抑えながら、クチナは意を決し、牢の中へと声をかけた。
「そっか。君が赤の少女なんだね」
その声に振り返るネネと目が合った時、クチナの心は更に縛られた。
円らな瞳は子鼠のよう。赤い衣に隠した身体は柔らかそう。けれど、クチナの心に宿るのは、決して食欲だけではなく、ずっと忘れていた大切な記憶の断片を拾ったような気付きであった。
――食べるなんてとんでもない。
クチナは強くそう思った。
――この子と共に、八花に行こう。
その決意を強く抱き、クチナはネネに怪しく笑んだ。




