1日目‐1
浮かんでいる小舟から見える光景は、思っていた以上に揺れ動き、あまり落ち着きのないものだ。生まれ育った火の小島が段々と背後に遠ざかっていくのを感じながら、クチナはぼんやりとそんな事を考えていた。
――それにしても長い。
揺れる小舟の中で座り込みながら、クチナは思った。
――早く陸につかないかなあ。
必死に小舟を漕ぐのは鬼灯の少年。ついこの間まで、若人の一人として稽古を積み、クチナともそこそこ仲の良かったわけだが、ついに稽古の為の木刀を折って、下男として生きる事を決めてしまった。今は立派な船乗である。技術は勿論、肝も座っているだろう。何故ならこれより大罪人となるクチナに脅されることなく、自ら協力してくれたのだから。
「クチナ様、あともうちょっとで対岸です。陸につけば人形の里もすぐそこですよ。あ、でも、キツの奴らには気をつけてくださいね。あいつら本当、何処にでもいるから」
「う……うん、ありがとう……」
小舟で湾へと出たのはそんなに前ではない。
鬼灯の里のある小島から対岸まで、どんなに遠くても幾時もかかるというわけではない。それでも、クチナにとってこの小舟の時間は、果てしなく長いものに思えてしまった。
「あれ、クチナ様?」
ふと、小舟を漕いでいた少年がクチナの様子を窺う。
「もしかして、酔っちゃいました? ボクもこの仕事始めたばかりの頃、さっそく転職しようかなってくらい酔ったんですよねえ」
「うん……そうなんだ……うん……そりゃ大変だ」
「そういうときは我慢せずに海に吐いちゃった方が楽ですよ。あ、何ならボク、他所を見ていますね。下男となっても八人衆の兄様方に負けないくらい弁えてますよ、ボクだって」
――親切なのは分かったから、もうちょっと黙っていてくれないかなあ。
クチナはついに俯きながら、蛇斬にそっと触れた。
少年の善意がなければ、此処まで来られなかったのだ。そう思えば、余計な不満をぶつけるなんてとても出来ない。
軽い葛藤を覚えながら、クチナは蛇斬に顔を近づけた。
金木犀の香りが今日もきつい。しかし、吐き気を酷くさせるなんてことはなく、苦しさを誤魔化してくれるものでもあった。
――蛇斬。君はどう思っているんだい?
特に返答を期待するわけでもなく、クチナは心の中でそう訊ねた。
「それにしても、クチナ様。随分、思い切ったことしますね。大蛇様は千里眼を持っているのでしょう? この光景ももしかして、見ているのかなあ?」
「見ていたらどうする?」
「うーん、どうしよう。痛くない罰だといいなあ」
「もしこの事が知られて裁かれることになったら……わたしの所為にすればいいんじゃないかな。蛇斬で脅されたって言えば、誰だって同情するよ」
「えっ、そんな! そんなの悪いです! 未来の大蛇様を困らせるような事なんて出来ません!」
「別に悪くはないし、困りもしないよ。わたしは異国に行くんだから」
さすがに八花とまでは言わなかった。
この船乗を心底疑っているというわけではないが、万が一ということもある。これから行われる長い逃亡に向けて、不安な要素は作りたくなかった。
「やっぱり遠くへ行っちゃうんですか? 寂しくなるなあ」
「大蛇様が分かって下さるまでの間さ」
「それって具体的にいつまでなんでしょうねえ……」
クチナとしては此方が聞きたいくらいのものだった。
それでも、もやもやとしたものを抱えたまま何もせずにその時を迎えるのは嫌だった。せっかく無事に里を抜けだしたのだ。気を強く持ってこの先も進まなければ。
酔いを誤魔化しつつ覚悟を決めている内に、小舟は岸へと着いた。さっそく陸へと降りるクチナに向かって、少年はやや小声で言った。
「人形の里では赤の少女様も厳重に守られていると聞いていますよ」
「うん……わたしも聞いた」
「本当に行くつもりですか? 不安だなあ。鬼灯の血を持たない人間達だって手強い奴は手強いって聞きますよ? 御怪我をなされないか心配です」
「心配なら船を出すべきじゃなかったね。安心しなよ。わたしには蛇斬がついている。この魂が大蛇様の一部だと言うのが本当なら、そう簡単にやられないはずさ」
「それは……そうですが」
「ともかく、君は脅されて船を漕いだ。そういうことにして真っ直ぐ帰りなよ」
「うーん……まあ、いざとなったら、そうさせて貰いますね」
気乗りしない様子ながら答えた少年を背に、クチナはほっとして陸路を見渡した。人形の里までの道のりは頭に入れてきた。だが、その通りに辿りつけるか不安もないわけではなかった。
――でもまあ、行くしかない。
「クチナ様」
歩み出そうとするクチナを少年は呼びとめた。振り返ってみれば、少年はもじもじとした様子を見せつつ、屈託のない表情で言った。
「上手くいったら、またお会いしましょう」
「うん、そうだね。ここまで本当にありがとう」
それっきり、クチナはもう振り返らずに人形の里を目指して歩み始めた。
やがて、少年が小舟をこぎ出す音が生まれ、クチナの背後の向こうで遠ざかっていくのを感じた。退路はもうない。前進するだけ。
――ネネか。
いつか聞かされた赤の少女の名前を思い出しながら、クチナは歩み続けた。
懐かしいような、愛らしいようなその名前。初めて聞いた時から、クチナはネネという存在が気になって仕方なかった。
――いつかわたしが食べなくてはならない人間の子。
人形の里で牢に入れられ、逃げられない状況でその時を待っているらしい。
人間のもとで大事に育てられ、数え十六となったら迎えを寄越して鬼灯の里で引き取る彼女。ここ蛇穴を守るための御社は、ネネにとっての墓場となる。その時が来たならば、黒の少女が丸のみにすることになっているからだ。
「同い年の人間の子を丸のみだなんて、想像も出来ないなあ」
だが、大蛇様がそう言うのならそうなるのだろう。
いや、そうさせるのだとクチナは思っていた。
大蛇様の言う事が当たるのは、当たるように人を動かしているからだとクチナは知っていた。女神の力はたしかに蛇穴を守護してはいるが、万能というわけではなく、蛇穴の者たちが期待しているすべてのことを出来るわけではない。
――これは大蛇様を助けるためでもあるんだよ、蛇斬。
かつて大蛇様に怪蛇退治をさせたという妖刀に対して、クチナは心の中で語りかけた。これを持つことが出来るのは、黒の少女と大蛇様だけ。幼い頃から常に共に過ごしてきたこの刀は、クチナにとって無口な友人のようであった。
歩みながら、人形の里に至るという林道へと足を踏み入れ、クチナはひとり呟いた。
「ネネという子を助ける事にもなるかもしれないね」
今も牢の中で囚われているという少女。
生贄である自分の身をどのように感じているだろう。教育という名で誤魔化された洗脳は、どのくらいネネの心を縛っているだろうか。
「それとも、恨まれるのかな」
ひょっとしたら、これから行う事は、ネネにとって非常に残酷なこととなるかもしれない。もしも、雌鶏とかいう大蛇様の愛妾が大変上手い教育を施していれば、ネネは始終クチナを恨みながら過ごす事となるだろう。
しかし、だからといって、クチナは遠慮する気などなかった。
もしも抵抗されたなら、その場で斬って大人しくしてから連れて行こう。慈悲のないことだけれど、そのくらいしなければ大蛇様からは逃れられないとクチナは分かっていた。
赤の少女を餌にされれば、罠と分かっていても黒の少女は無視できない。
いつか大蛇様が言っていた事でもあった。
不確かな事ではあるが、もしもそれが本当ならば、この逃亡劇はすぐに終わってしまう。半信半疑ながらも、クチナはネネを誘拐しながら逃亡する事で、それを免れることにしていたのだ。
ネネさえ手に入れれば、逃げられるはず。
「それにしても、どんな子なんだろう」
無視出来ないほど魅力的な人間なのだろうか。
いつの時代の黒の少女も、赤の少女として生まれた人間の子を喜んで食べたのだとクチナは聞いていた。そのくらい美味しそうな子であるのなら、逃げている途中で食べてしまうかもしれない。人間を食べるのは想像が出来ないほど残酷に思えるけれど、その常識すら変わってしまう魅力があるのかもしれない。クチナはそう感じながら、好奇心のようなものを胸に秘めていた。
赤の少女ネネ。
彼女を想い浮かべながら歩いて居れば、クチナの中からはいつの間にか船酔いの不快な感覚も消え失せてしまった。
「どんな子か知らないけれど、必ず君を手に入れる」
そうしてクチナは人形の里へと足を踏み入れたのだった。




