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25日目‐2

 日が沈んだ。

 大蛇様は時間通り、部屋を去っていった。

 ネネは縛られたままだった。紐を弛められる事はあっても、解かれることは一切ないままだった。剃刀を持ち続ける手は汗ばんでいる。気付いているのかいないのか。いたとしても、大蛇様は特に奪うこともなく握った手のひらを開くように命じることもなかった。

 きっと今頃、ミズチの元を訪れているのだろう。

 昼間会うことが出来たその姿も、もう見ることはないはず。


 ――せっかく貰った機会を無駄にはしないわ。


 縛られたまま、指や手のひらが引きつりそうになりながらも、剃刀でどうにか紐を傷つけ、ネネはようやく身に沁みるような開放感を味わった。どんなに噛んでも千切れなかった紐も、刃には敵わない。柱からも離れ、ふらつく足取りでどうにか立ち上がってみれば、視界はぐらついた。


 ――しっかりしなきゃ。クチナが待っている。


 引き戸すら重たく感じる中、永久に向こうまで辿りつけないかのようにすら思える長い廊下を忍び足で歩んだ。

 鬼灯の者たちの姿は見えない。いつもはネネの様子を頻繁に確認しに来る下女たちも、どういうわけか姿を現さなかった。

 薄暗い鬼灯の御社を、ネネはたった一人でさまよい、あの扉を目指した。開けることの叶わなかった扉。金木犀の香りを含んだ風は、今も吹いているのだろうか。

 その答えは願い通り、ネネの前へと現れた。


 結局、道中は不気味なほど鬼灯の者たちの姿が見られなかった。住み込みながら此処へ仕えている者たちは、何処にいってしまったのだろう。皆、各々の部屋でじっとしているのだろうか。大蛇様の邪魔にならぬように控えているのだろうか。


 ――或いは、クチナのお姉さんが何かしたのかしら。


 ミズチは言っていた。扉は開くのだと。誰かが閉じてしまっても、ミズチに味方する誰かがまた開けてくれるのだとはっきりとそう言っていた。

 その言葉通り、ネネが渾身の力で引けば、ずっと気になっていた扉はゆっくりと開き、金木犀の香りを含む風がその訪れを歓迎するかのように迎えてくれた。


 ――この香りを辿れば……。


 周囲を窺いながら、ネネはその先へと足を踏み入れた。

 窓すらない薄暗く狭い通路が伸びている。所々、灯台が光を授けてはいるが、今にも消えてしまいそうなくらい頼りない。なけなしの明かりでどうにか先へと進めば、大蛇の口のようにぱっくりと開いた地下への階段がネネの前に現れた。薄暗い地下からは微かに生臭い風が吹いている。だが、金木犀の香りは此処からではなかった。階段を無視した先に続く通路の先。香りはそちらから漂っていたのだ。


 ネネは金木犀の香りへと近寄った。あれはきっと蛇斬の香り。クチナへの最大の手掛かりとなり、クチナの手元にあるべき妖刀。その傍にクチナがいるとは限らないが、何処かで囚われている彼女に渡すべきものに違いないだろう。


 ――何処にいるの、蛇斬……。


 ネネの想いに応えるように、金木犀の香りは強まっていく。

 そして、ようやくネネは一つの扉の前へと辿り着いた。階段を無視した先、真っ直ぐ進んだ突き当りに存在する小さな扉の向こう。その扉を引いてみれば、その先では、まるで魂でもあるかのように異様な殺気を放つ刀が眠っていた。


 ――あった。蛇斬。


 手を伸ばし、触れてみれば、一瞬だけ毒牙のようにネネの肌を刺激する衝撃が走っていった。だが、ネネが驚くも束の間、すぐにその感覚は消え失せ、何事もなかったかのようにネネの手の中に収まった。

 クチナは此処にはいなかった。此処にあるのは蛇斬だけだ。


 ――クチナ。何処に居るの。


 此処に来るまでに目にした扉は多かった。地下も続いているとなれば、探す場所は更に多いことだろう。片っ端から潰していくのなら、すぐに動かなければ。いつまでも大蛇様がミズチの元に留まっているわけがない。


 ――行くしかない。


 とにかく近くの扉から、そう思って歩みだしたネネに訴えるかのように、蛇斬が鞘の中で輝きはじめた。


「何……」


 驚くネネが重たい刀を見つめてみれば、鞘の隙間より刃は更に訴えを強めるかのように輝き、仄かに音を放ちはじめた。

 刀というものの産まれをネネは知っている。刀鍛冶が精魂を込めて生みだすもの。けれど、物は物であり、この世に生まれ落ちる生き物たちとは訳が違う。それでも、ネネの持つ蛇斬は、まるで生き物のようにネネに訴え続けたのだ。


 ネネは蛇斬を鞘から抜いてみた。

 鞘も重たければ刃も重い。訓練しているとはいえ、同い年の少女がこの得物と共に暴れまわることが出来るのは、きっと彼女が人間ではないせいだろう。そう思うくらい、ネネの手に蛇斬は馴染まなかった。

 そんなネネにさえ、蛇斬は怪しげな力を発揮した。


「こっち……?」


 無意識に言葉が漏れた。色形ない不確かな感覚が、その言葉を導きだしたのだ。これも蛇斬の意志だというのだろうか。ネネは蛇斬に引っ張られるように歩みだした。


「クチナの居場所が分かるの?」


 言葉で聞いたところで問いに応えてくれるわけでもない。

 それでも、蛇斬の輝きは衰えなかった。

 ネネは静かに蛇斬に託した。この妖刀は大蛇様のもの。だが、今はまだクチナの為に存在し、この逃亡劇で何度もネネとクチナの命を救ってくれた。刀にもまた心があるというのなら、蛇斬もまた自分達の味方であると信じたかった。信じたい気持ちでネネは蛇斬にその身を託した。


 蛇斬はネネに行き先を教える。

 考えるより先に足は動き、やがて、ぱっくりと口を開けた地下への階段を降りさせ始めた。段々と灯りを失っていくその場所に怯えつつも、その怯えを誤魔化してネネは先を目指し続けた。

 湿気と土の匂いを含んだ気味の悪い生臭さが、段々と強くなっていく。慎重に踏む木の床も、湿っているのか踏み心地がよくない。その不快さに耐えながら歩んでいけば、やがて階段は終わり、窓もない長い廊下へと出た。その左端。廊下の突き当たりに見えたのは閉め切られた大扉であった。

 蛇斬がしめすのはそちらだった。封じられていたらどうしよう。そう思ったのも束の間、ネネの手に込められた力は、あっさりとその扉を開けてしまった。


 クチナは何処に居るのか。

 開けた瞬間、答えはもたらされた。

 だが、ネネは一瞬、その答えの意味が分からなかった。


 扉を開けた先に広がるのは光の入らないじめじめとした大広間。端に置かれた灯台が、心細く部屋を照らしている。あるだけましなものだ。お陰で、ネネはどうにか部屋の全貌を見つめることが出来たのだから。

 出来たものの、ネネはその広間の中央を見つめたまま固まってしまった。


 部屋の中心に何かがいる。

 それは、よく知る鬼灯の者の姿をしていない。

 蠢く縄のようなそれをよく見ようと一歩近づけば、すぐにネネの存在に気付いて怯えるように離れていってしまった。だが、逃げ場なんて何処にもない。この部屋の入り口はたった一つだけだった。


 ――これは……。


 蛇斬と共に踏み込んだネネを、怯えるその何者かは大きな目で見つめていた。灯台が残酷にもその姿を照らしだす。それは明らかに人間の姿をしてはいなかった。

 大きな蛇。そうとしか呼べぬ者が、壁へと寄ってネネを警戒していた。

 近づこうとするネネを、その蛇は威嚇した。


「来ないで」


 威嚇すると同時にそんな声が何処からともなく響く。その声を聞いて、ネネは震えた。


「クチナ!」


 声はこの蛇から聞こえたのだ。それならば姿などどうでもいい。怯えていようとネネは、恐れずに、心より求めた友の声を出したその蛇に走り寄った。


「クチナでしょう? クチナなのよね?」


 必死に問いかけるネネを前に、大蛇は首を振った。


「お願い、離れて。わたしを見ないで!」


 泣き叫ぶようなその声。間違いなく、蛇がそう言っていた。


「ああ、クチナ。会いたかった」


 大きな蛇の姿をしていても、ネネは恐れずにその肌に触れ、寄り添った。

 そんなネネを見て、蛇は更に暴れようとした。


「わたしは敗れてしまった。化け物になってしまった。今はもう君を食べたくて仕方がないんだ。お願い、此処から逃げて。わたしから逃げて。君を食べたくないのに……食べたくないのに、丸のみにしたくて堪らないんだ」

「落ち着いてクチナ。あなたは化け物なんかじゃない」


 蛇の鱗に優しく触れながら、ネネは必死に語りかけた。


「あなたはわたしの友達。わたしと一緒に八花に行く友達でしょう?」

「ネネ……」


 泣きながら蛇は項垂れた。

 その顔に触れながら、ネネは密かに覚悟を決めた。

 頭を過ぎるのは大蛇様の姿。明日の朝日を拝めるかどうかというのは、つまり、この事だったのだろう。クチナの心が折れれば、自分は間違いなく丸のみにされてしまう。儀式の日まであと一年。その約束など、強まり過ぎた欲望を前に無力と化すだろう。


 ――それでも構わないわ。


 ネネはクチナに身を寄せたまま、意識を集中させた。


 ――試さないで見捨てるくらいなら、試して喰われる方がまし。


 そして、いつもやっていたように気を流し込んだのだった。


「ああ……なんで」


 与えているはずなのに、蛇は力を失うようにネネの身体にもたれかかった。ネネの身体に胴を巻きつけ、今にも呑みこもうかという鋭い眼差しをネネに送った。それでも、ネネは目を閉じたまま、その傍を離れようとはしなかった。


「なんで逃げてくれなかったの……」


 次第に巻きつく力が強くなる。息苦しさを感じつつも、それでもネネは動かなかった。巻きつく蛇の胴を自ら抱きしめ、そして小さな声で言った。


「細石であなたを迎えに行ったあの日の事、覚えている?」


 瞼を開き、恐ろしい蛇の顔を真っ直ぐ見つめながら、ネネは問いかける。


「あの時、あなたはわたしに御礼を考えていてと言ったわね」

「ネネ……ごめん……」

「わたしの願いはあなたにしか叶えられない。お願い、クチナ。わたしを八花まで――未来まで連れて行って!」


 強い叫びが響いた瞬間、ネネの持っていた蛇斬が急に輝きだした。

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