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25日目‐1

 勝手な訪問がどのような罪になるのかは分からない。

 ただ、クチナの元を訪れていったらしき大蛇様の代わりに、またしても筆頭はネネの傍を訪れていた。

 昨日からネネは縛られたままだった。

 苦痛が高まり、緩められる事はあっても、すぐにまた同じように拘束された。ただの人形ではないと判断した大蛇様がそうさせたのだ。


 ――赤の少女なんて所詮、蛇穴の婢。


 哀れむようなミズチの表情を前に、ネネは静かにそう思った。

 この場所に居る限り、大蛇様の元に居る限り、自分に蛇穴の普通の女子のような尊厳なんてないのだと、ネネは思い知っていた。


「ネネ様」


 黙ったままのネネに対して、ミズチは囁くような声で語りかけた。


「聞こえますか?」


 薄っすらと目を開けたまま、どうにかネネは頷いた。

 一晩ずっと縛られていただけでも、苦痛と倦怠感が恐ろしく身体を蝕んでいた。まるで大蛇様の可愛がる蟲たちのように、疲れはネネの心にまで牙を剥き始める。次第に反抗心も薄れ、この場を逃れようと言う気さえ失われていく気がした。

 それでも、ミズチの不可解な訪れはネネに期待をもたらした。その期待にこたえるかのように、ミズチはそっとネネに近寄り、耳元で囁いた。


「機会が訪れました。今夜です」


 今までになくはっきりとした口調でそう言うと、ミズチは縛られたままのネネの手のひらに何かを握らせた。小さな剃刀だった。ネネの手を傷つけぬように持たせると、ミズチはまっすぐネネを見つめてから続けた。


「親しい者が教えてくれました。今宵、大蛇様が私の元に来るそうです。祝い酒など生温い。今度こそ、私の心は叩き潰されるのでしょう。ならばせめてその前に、あなた達に賭けてみたいのです」

「賭ける?」

「クチナは我が妹。けれど、その魂は大蛇様の一部。ならば、あの子の願いは大蛇様の願いでもあるのではないか。鬼灯の中にはそのように考える者も現れています。かつて、私もそんな疑問を抱いていました。それを思い出したのです」

「お姉さん……」


 ネネはミズチの顔を見つめた。

 ぼんやりとした視界のせいか、その顔はますますクチナによく似ているように見えた。もしも自分もミズチと同じくらいの年まで生き延びられたら、もっとミズチに似たクチナの顔も見られるかもしれない。


 ――わたしは、どんな大人になるのかしら。


 剃刀の刃が軽く手に当たる。血こそ出なかったものの、確かな切れ味があるようにネネは感じ取った。これを使えば、紐も切れるのだろう。その機会は今宵。大蛇様がミズチの元を訪れた時こそ、逃げ出す機会。


「けれど、この思いまでもすぐに失われるのでしょう」


 ミズチがネネの頬に触れながら呟くように言った。


「この有様は、大蛇様に盾突いた罰でもありました。クチナの扱いを巡って、私はどうしても里の家に残した母の気持ちを考えてしまった。だからつい、クチナの自由を求めてしまったのです」

「クチナの事を、本当は愛しているのですね」

「勿論です。私も、死んでしまった弟ニシキも、妹を――特に同じ父を持つあの子を愛しておりました。大蛇様になったとしても、あの子はあの子のまま。支えなければとそう信じて私も弟もこの座に就いたはずだったのです……それなのに」


 家族がいるのは羨ましい。ネネはずっとそう思ってきた。そして、その気持ちは間違っていなかった。きっと死んでしまったクチナの兄も、同じだったのだろう。それでも家族の思いさえ、蛇穴の掟の前に消えゆくしかないと、大蛇様はそう言うのだろうか。


 ――この人達だって、蛇穴の民に変わりないはずなのに。


 契約を解消する方法は、本当にないのだろうか。


「場所はお分かりですね」


 ミズチは静かに言った。


「いつか私と会った扉の前。あなたが気にしていた金木犀の香りのするあの扉です。鍵は私が開けておきましょう。誰かが閉めてしまったとしても、今の私に同調してくれる誰かが開けてくれるはず。今宵、大蛇様が行ってしまったら、まっすぐ向かってください」

「……はい」


 しっかりとした眼差しをネネは筆頭へと向けた。あんなに辛かった感覚も、疲れも、この希望を前に色あせていた。これでクチナの元へと迎えるのだと思えば、気は急いてしまうものだった。剃刀で手を傷つけぬようにしつつも、握る手には自ずと力が入ってしまう。

 まずはこの剃刀の存在に気付かれないようにしなければ。


 ――大蛇様がこの場を見ていませんように。


「次に会った時、きっと私の心は蟲に喰い尽されて変わっているでしょう」


 ミズチは言った。


「手加減も出来ず、大蛇様の命令通りにあなた達の行く手を阻むはず。だから、私の姿を見たら逃げてください。クチナが戦おうとしても、あなたの力で止めてください。あなたの助言なら、クチナも素直に聞きましょう。忘れないで、ネネ様。今宵が機会。今宵を過ぎればきっと、手遅れになってしまうでしょう」


 やや早口でそう告げると、ミズチは立ち上がり周囲を窺った。


「大蛇様もそろそろ御戻りになられる頃。私はもう行きます。どうかあなたの力で、あの子を救ってやってください」


 名残も惜しまず背を向けるミズチに向かって、ネネもまた小声で言った。


「――有難う」


 掴んだきっかけの大きさが、有難かった。

 次に会った時はもう、味方じゃないのかもしれない。

 それでも、今目の前に居るミズチは間違いなく、クチナの姉であった。

 彼女が立ち去ってしまった後も、その余韻はネネの頭に残り続けた。今宵が最大の機会である。クチナの囚われた場所を探れると思うと、クチナに会えるはずだと思うと、嬉しさは自然に生じた。


 ――大蛇様が来るまでに、何とか平常心を保たないと。


 ネネは自分に強く言い聞かせた。

 ミズチの言った通り、大蛇様はそう経たずに戻ってきた。戻って来るなり、ミズチのいた場所まで真っ直ぐと歩み、ネネの瞳をじっと覗きこんだ。何も言わぬまま鋭い視線で見つめてくる大蛇様に、ネネは息を飲んだ。


「またしても下女ではない誰かが来たようだね」


 ミズチがしたようにネネの頬に触れ、大蛇様は目を細めた。


「ミズチがお前たちに何を期待しているかまでは分からぬ。だが、無駄な事じゃ。たとえ今宵、お前が此処から逃げ出したとしても、明日にはきっと何事もなかったように治まることだろう。今、各々の理由でお前たちに同調する者がおるが、力ある者から順に蟲を与え、妾の味方にしてやろう。その状況下で、お前たちがどれだけ抗うのか見せてもらうよ」

「大蛇様。あなたには慈悲はないのですか」

「慈悲など知らぬ。妾は蛇神。蛇穴に住まう人間共の為に存在しておるだけ。この身が滅ばぬよう己を騙しながら、お前たちから得た神力の全てを蛇穴に捧げる。その目的の為だけに生きよと見えぬ鎖で縛られているのだよ」


 では、この厳しさも契約の所為なのだろうか。

 クチナとネネが願いを果たせば大蛇様はこれまで通りに振る舞えない。残った神力でどうにか蛇穴を守るしかなくなるだろう。それでも、大蛇様がこの国の守護神であるのは変わらないはず。変わるとすれば、心の方だろう。

 そしてそれはクチナも同じ。大蛇様に負けてしまえば、クチナはネネを殺し、大蛇様の器となって蛇穴を守る女神と成り果てるだろう。そうなれば、今の大蛇様のような方法で生きていくことになるのだ。それを、クチナは拒んでいた。


 クチナに殺される。

 未来への希望を捨て切れず、死ぬのは嫌だという思いで一杯となったネネであっても、避けられぬというのなら、せめてクチナの手に委ねてしまいたいという気持ちは実を言えばあったりもする。


 ――でも、クチナは嫌がっているのよ。


 嫌がっている心こそが本物のクチナであるのなら、助けにいきたい。

 強い思いを抱きながら、黙って緊張に耐えているネネに対して、大蛇様はくすりと笑みをこぼして頭をそっと撫でていった。


「ネネ、一応、お前に言っておこう」


 何故だか愉しそうに、大蛇様は言ったのだった。


「儀式は来年の夏と決まっておる。だが、黒の少女の欲望が溢れるのは、何もその時と決まっているわけではない。それを忘れるな、ネネ。お前が明日の朝日を拝めるかどうか、一つ賭けてみようではないか」


 ネネはじっと大蛇様を見上げた。

 だが、その歪んだ笑みが何を含んでいるのか、分からないままであった。

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