2日目‐1
土の中から這い出すかのように、ネネは突如息苦しさから解放された。
何度も呼吸を確かめて、高鳴る鼓動をそっと抑え、そしてゆっくりと周囲を見渡してみて、ようやく夢を見ていたのだと認識した。
辺りはすっかり日も暮れていた。眠る前は東の山より顔を出していた日の神が、今はもう西の山へと帰っていくところだった。その狭間の最後の力として、全ての世界は炎に包まれるかのように、穏やかで美しいのに何処か空虚な朱に染まっていた。
そんな景色の中で、ネネはふと考えた。
一体、どんな夢を見ていたのだろう。全身を冷やす汗も、今もまだ高鳴り続けている鼓動も、それを教えてはくれそうにない。
ただ思い出せるのは、とても怖かったということだけ。
「やあ、おはよう」
声がかかり、そこで再びネネははっとした。状況を一瞬にして思い出させてくれたその声の主クチナは、ネネの手を放して一人突っ立っていた。見つめている先は林。ネネたちが昨日通ってきた場所を真っ赤な目で睨みつけ、刀を構えている。
「さすがにこの時間だと『おはよう』はおかしいか」
そう言って一人笑うクチナだが、目はちっとも笑っていなかった。
日が沈むにつれて次第に真っ赤に染まっていくその双眸に怯えていると、ふとネネはクチナの睨む方角より複数の視線を感じた。
「さて、呑気に挨拶を考える暇もないなんて」
そう言いつつ、クチナは刀を向ける。
「誰も彼もせっかちなものだね、全く」
またアヤカシなのだろうか。
そう不安に思って林を見やるネネだったが、その視界に映り込んだものをみて、思わず小さな声を漏らしてしまった。
――迎えだ。
林の中に居たのは狼の面をつけた剣士たちだった。
その名はイヌ。
面を被っている以外は集落に沢山いた守人によく似ているが、風貌だけではなく性質も目的も全く違う。だが、その中身はネネの良く知る守人も含まれている。間違いない。彼らは人形の里――延いては、蛇穴の重鎮の命により送られたネネの迎えである。
「みんな!」
嬉しさのあまり声をあげるネネを、クチナは横目で睨みつけた。
長い妖刀を抜いて牽制するクチナに、イヌの一人が得物を片手にじりじりと間合いを詰めてから言葉を発した。
「黒の少女様。お戯れはこの辺りになさってはいかがでしょう。鬼灯の皆様方が一人逃亡したあなた様のことを非常に心配なさっておいでです。さあさ、大蛇様の御怒りで火の山が暴れてしまうより前に」
しかし、そんなイヌの言葉をクチナは斬って捨ててしまう。
「嫌だね。説教で気が変わるなら、最初っからこんな真似しないさ。ましてやただの人間の説教なんて」
イヌたちを小馬鹿にするように笑むクチナだったが、当のイヌたちが何を思っているのか、その答えは狼の面の下に隠されたまま。どうであれ、彼らの目的はただ一つ。その任務の為だけに、彼らは恐れることもなくクチナへと迫っていく。
対するクチナは興味ありげにみるばかり。そのあまりの余裕な様子にさすがにネネも恐れだした。
「皆……無理をしないで……」
震えた小声で呟くネネの言葉等、イヌ達の耳には届かない。
ネネは怯えていた。クチナの目に宿る残酷性に。人を守る代わりに、人で出来た生贄を待ちわびる女神の血を引いているためだろう。アヤカシらしくクチナは殺戮を楽しもうとしている。そんな風にネネには見えていたのだ。
「お願い……誰も死なないで……」
しかし、やはりその声はイヌ達の耳に届くには頼りない。
「そうですか。残念です。ならば選ぶ道は一つだけ」
そう言って、イヌたちは人間離れした遠吠えのような奇妙な声をあげると、クチナを取り囲んで一斉に走り出した。
数ではイヌ達の方が有利。だが、クチナはそんな状況など笑い飛ばすばかりだった。彼女の持つ妖刀の煌めきもまた同じ。その光景があまりに不気味で、ネネはただ怖かった。
「だ、駄目、やめて!」
悲鳴のようにネネは叫んだ。
慈悲を希う先はクチナの方。鬼灯の者であるならば、蛇穴に住む人間たちへの愛着が多少なりともあるはず。そう信じてきたネネは、いかに歯向かおうとしている猛犬であっても、命までは奪わぬようにと願いを込めたのだ。
「お願い、やめて!」
ネネは分かっていた。
イヌは決して無能ではない。蛇穴の人間たちをまとめあげる御上が信用するくらいの実力者たちだ。こうした緊急時に解き放たれるのはいつだってイヌ達である。仮に、他国の人間たちが蛇穴に攻め入るようなことがあったとしても、イヌ達の活躍でそれは防がれるだろう。そのくらい信用されている。
イヌは確かに強い。
だがそれは、人間が相手の場合での話しに過ぎない。
クチナは鬼灯。大蛇様の血を継ぐ者の一人。少女とはいえ、アヤカシ、それも蛇神の血筋の者が人間などに負けるはずもないのだ。
「御免よ」
ちっとも悪びれる様子もなくそう言いながら、クチナはイヌ達を斬っていく。次々にイヌ達の短い悲鳴が上がるその光景に、ネネは凍りついてしまっていた。雌鶏様の元へ帰る機会が失われていくその様子は、ネネにとって、そしてこの蛇穴という国にとって、まさに絶望の光景だった。
――どうして。
血が流れる度に、ネネは嘆いた。
――どうしてこんな事を……。
クチナは鬼灯の少女だと名乗った。つまり、大蛇様の血を引く女神の子孫。ネネには想像もつかないほど古くよりこの蛇穴に恵みをもたらしてきた一族の出の者。そんな血を継ぐ者が、どうして蛇穴の人間たちの生活を脅かすような真似をするのか。
ネネは理解出来なかった。
どうしてクチナは此処までして己の始祖神であるはずの大蛇様を困らせようとしているのか。どんなに考えても答えらしきものは思いつかない中、ネネはただ途方に暮れるしかなかった。
しかしその時、ネネは一筋の希望の光を見つけた。
鮮やかにイヌたちを襲うクチナ。だが、そんな少女の目を掻い潜って、一人の小柄なイヌがこっそりネネに接近してきたのだ。音もなく速やかに近づいて来ると、彼はネネの手をそっと握って小声で言った。
「ネネ様、御怪我はありませんか?」
それは非常に年若い少年の声だった。年の頃はネネと同じか、更に下だろう。下手をすればやっと大人たちと同じように動けるようになってくるほどの年齢かもしれない。そんな彼の手を握り返し、ネネは黙ったまま頷いた。
共に立ち上がり、クチナに気付かれないように歩み出すネネ。既に斬られているイヌたちが心配だが、助けに行く力なんてない。ただただ少年に従って、その場を逃れることくらいしか出来ないだろう。
そう思って、ネネは音もなく少年と共に走り出した。
イヌたちがクチナを惹きつけている間に、出来るだけ遠くへ。集落からはまだ幾らでもイヌが送られてくるはずだ。それに、時間を存分に稼いだイヌ達も引き返してくるはず。それまで自分に出来る事は、ただただ少年と逃げること。
ネネは十分わかっていた。
だから、必死に走った。
けれど、ネネは状況を甘く見ていた事に気付かされた。いや、状況ではない。クチナという少女の存在を、甘く見ていたのだ。気付かされたのは、逃げだしてすぐのこと。自分の手を引っ張って誘導してくれていた少年が、一瞬にして斬り伏せられてしまってからのことだった。
――いつの間に。
いつの間にか、ネネの手を握っているのは少年ではなくクチナになっていた。さっきまで引っ張ってくれていた少年は、今や地べたに苦しそうに蹲っている。流れる血は少年のもの。決して浅くはないのだろう。悶えながら、恨めしそうにクチナを見つめていた。だが、クチナの双眸は少年には向いていなかった。今なお、少年に突き刺さる妖刀をあっさり抜きとる彼女の真っ赤な目は、無感情のままネネを見つめていた。
「言ったよね、ネネ」
冷めた声でクチナは言う。
「君は、わたしのものだって」
そして、風を刻むように妖刀を横に振ると、接近していた複数のイヌたちがあっという間に斬られていった。
赤い目。赤い飛沫。呻き声に錆びた臭い。己の着ている赤い衣にはない毒々しい光景を前に、ネネは逃げ出したい気持ちで一杯になった。しかし、クチナは手を離さない。その力に逆らえない。
「さあ行こうか。どうせ誰も立ち上がれない」
微笑むクチナの言葉に、ネネは慌てて周囲を窺った。
周りで立っているイヌは一人もいなかった。誰もが血を流し、誰もが呻いている。死んでいるらしき者はいない。だが、立ち上がれる者もいなかった。ネネを取り返しに、と都より寄越された有能なはずのイヌ達が、全て斬られてしまっていた。
「……そんな……こんなことって」
「君もこうなりたい? 自由に立って歩くことも出来ないように、足をすっぱり斬り落としてあげてもいいんだよ。その方が、ずっと楽だ」
冗談でも何でもない流し目に、ネネは冷やりとした。
クチナというこの少女に、赤の少女を敬う気持ちなんて何処にもない。それは、これまでネネが出会ってきた数少ない鬼灯の者たちとは全く異なる性質だった。彼女は大蛇様の敵。それはつまり、蛇穴の敵。反逆者に説得など通じないだろう。ましてや、これほどまでに罪を重ねてしまっては。
――ああ……そんな……。
引っ張られるままに、ネネは歩んだ。
――どうして……どうして……。
「おいで。痛いのが嫌なら従うんだ」
抗う手段など知らなかった。足を斬られてしまえば、もう逃げることは出来ない。それならば、斬られないように従うしかない。痛みへの恐怖は周りで呻くイヌ達の悲痛な姿によって増大していく。屈強なはずのイヌ達の悲鳴を聞けば聞くほど、ネネは委縮した。
クチナ。この傲慢で罪深い蛇の少女を、誰が止めてくれるだろうか。
――大蛇様、どうかお助け下さい。
遠き地で我が子クチナを睨んでいるだろう女神に向かって、ネネは懇願し続けた。しかし、その効果は今すぐに訪れそうにもない。
「今の内に出来るだけ北に向かおう。これからしばらく歩き通しになるけれど、疲れたら負ぶってあげるから安心しなよ」
歩きながら、冷たく言い捨てるようにクチナは言った。
片手で易々とネネを支配するクチナ。片手にはイヌ達を斬ったばかりの妖刀が非常に怪しく輝いている。あんなに血を吸ったというのに、穢れなき白の輝きを放っていて、ネネはそれが逆に恐ろしく感じた。
「そうだな。泣女川を沿って歩くのがいいかな。川の主は血の流れる争いが嫌いな竜神様だ。怒らせれば川が氾濫するというし、人間共も恐れて襲って来なくなるかもしれないね」
それは、ネネにとって安心する事でもあり、不安になる事でもあった。
クチナは強い。一筋縄ではいかない。彼女に勝つにはイヌ達であっても血を流さねばならないだろう。そこまでしなければ、ネネを連れ帰るという任務は果たせないだろう。だが、血を流すと言う事は、先程の光景をまた見なくてはならないということ。それはネネにとって背筋も凍るくらい恐ろしいこととなっていた。
「襲って来ない……」
それは、あのように苦しむイヌ達を見なくて済むということ。狼の面で素顔を隠していようと、彼らが負傷しもがき苦しむさまなど見たくはない。
複雑な思いの中、ネネはクチナに従った。
その心境を知ってか知らずか、クチナは大人しく従うネネを引っ張り、堂々と夜の山林を歩み続けた。