24日目‐1
大広間にて、大蛇様の隣で人形のように座りながら、ネネは平伏する鬼灯の女を眺めていた。
縛られるのが嫌だと申せば、常に隣に居なくてはならなくなった。
それでも連れ出せぬ場所に大蛇様が行く時は、結局また縛られてしまう。だからネネはせめて縛られずに済む時間があることにほっとした。たった二日でネネの心はそれだけ不自由によって制御されてしまっていた。
この状況を作りだしたのは、元はと言えば筆頭のミズチだ。
大蛇様と自分に向かって平伏するその女。クチナの姉であり、この里に戻るきっかけともなってしまったミズチの姿を見ながら、ネネは複雑な想いを抱いていた。
呼びだしたのは大蛇様だ。傍には八人衆の内の数名や老人たちもいた。厳しい目で見張られながら、ミズチは大蛇様の言葉を待っている。
「呼びだした訳を言おう」
大蛇様は頭を下げたままのミズチに向かってやや強い口調で言った。
「我が子らの中にお前の様子がおかしいと申す者がいるのだ」
ミズチは平伏したまま。彼女の反応をじっくりと眺めながら大蛇様は続けて言った。
「何、多少おかしくても不思議なことではない。お前の心身も疲れておるはずじゃ。クチナを連れ戻すと言う大仕事が終わったと思えば、身内――それも愛する弟ニシキの決闘とあの結末。そしてお前を取り巻く状況も一気に変わってしまったのだからね。だが、お前がもしもはっきりとした不満を抱えているのなら話は変わる。我が娘ミズチよ、何か妾に求めていることがあるのではないか?」
「いいえ」
ミズチは即答した。
「何もありません、大蛇様。私はただあなたの命令に従うだけ。筆頭の座を譲る相手が御決まりになり次第、すぐにでも地下に閉じこもりましょう」
「そう卑屈になるな。今の筆頭代理はどれも実力が拮抗しておる。しばらくはお前がこれまで通り指揮をとれ。遠征となれば全て筆頭代理に任せればいい。次なる筆頭を選ぶ決め手も見つかるだろうからね」
「……はい」
力無くミズチは頷いた。
その顔色の悪さをネネは気にした。
クチナにはまだ会えていない。そうなると、クチナに何処となく似ているミズチの姿がクチナの状態をも表しているようにすら感じられたのだ。ミズチが辛そうな表情を見せれば、クチナもまた辛そうにしているように思える。奇妙な妄想のような気もしたが、それがネネの心を苛んでいた。
「妾が気にしておるのは、ミズチ、お前の心だ」
大蛇様はミズチの姿を見つめながら言った。
「お前がクチナに関して感じている事を包み隠さず言え。クチナの様子を見て、本当はどう思っているのか。どんな思いであれを連れ戻したのか」
深く突き刺すようなその問いに、ミズチの目が揺らいだ。
ネネですら分かったその動揺を、大蛇様が見逃すはずもないだろう。
「あの子を連れ戻した時は、一族の名誉のことばかりを考えておりました」
しかし、一瞬見せた動揺が嘘のようにミズチの口調はしっかりとしたものだった。
「他ならぬ私が取り戻せたとあって、安心いたしております」
「お前はクチナを追い詰めた時、自分の首を賭けたな。妾は見ておったぞ」
「勝てると確信してのことです。あの子の魂は大蛇様のもの。けれど、身体は私の妹なのです。十五の少女に負けるほど、私も落ちぶれてはおりません」
「それにしても、だいぶ煽り、手を抜いていたような気がしたな。怒りに狂うクチナの目を覚えておるか? もしや本当にお前の首が飛ぶのではないかと冷や冷やしたものだぞ。クチナの持つ刀は蛇斬。首を取られずとも、もし直接身体を斬られればどうなるか分かっていただろうに」
「申し訳ございません」
淡々と返す筆頭を、大蛇様はじっと眺めた。
「どういうつもりであったにせよ、これ以上お前を筆頭の座につかせておくのも不穏なものだ。何のためにお前やお前の弟をその座に置いたか思い出せ。それでもまだ自惚れるようなら、我が黒霧の力も返してもらうぞ。お前の命と共にね」
攻撃的なものすら感じる女神の視線がミズチに注がれている。ネネは息が詰まりそうな思いでその場にいた。人間には優しい女神も己の子孫には妙に厳しい。ネネはこの数日間で、そんな事を度々感じてきた。
「まあよい。結果、斬られることもなく勝てたのだからな。弟の分までナバリとして、妾を傍で支えてくれることを期待しておるぞ。分かっておるだろうが、クチナの姿をしているからと言って、今までのように気安く接するんじゃない」
小さく返事をして頷くミズチに、大蛇様は命じる。
「話はこれまでじゃ。下がれ」
素直に従い立ち去っていくミズチ。その後ろ姿を存分に見送ってから、大蛇様はその場に居合わせていた数名の八人衆や長老たちに向かって囁いた。
「お前たち、あれをどう思うか」
あまり響かぬ声で訊ねた先で、長老の一人が頭を下げつつ即座に応えた。
「どうも腑に落ちませぬ。昨日は新入り――八番目との間にひと悶着あったそう。今朝がたもクチナ様と面会していた際、様子がおかしかったと下女が申しておりました。もしや、蟲の働きが鈍っているのでは?」
賛同するように八人衆の内の一人も口を開く。
「私もそう思います。口調はしっかりしていましたが、何か気になる。蟲を感じはしますが、長老の言う通り、働きが鈍っているのかもしれません」
「一応はクチナ様の姉ということで鬼灯の中には奴を慕う者もいます。暫くは気を抜かずに目の届く場所に置いていた方がよろしいかと」
側近の言葉に、大蛇様もまた考え込んだ。
「ああその通り、気は抜けぬ。それに、蟲の働きが落ちているのは確かなよう。だが、いつからだろう。あの様子。ニシキの事だけではないように思えるな」
ふと大蛇様の目が自分に向いたのを見て、ネネはびくりと震えた。
蟲、と言っただろうか。ネネは思い出していた。いつか、ミズチと刃を交えたクチナが深手を負った際、蟲の侵入に苦しんでいた。しかし、それを救うことが出来たのはネネだった。気を流して癒しを願った時、蟲が傷口から逃れていったからだ。
――蟲はわたしの気を嫌っていた。
ミズチに触れた時、気を流し込んだのは何となくのことだった。疲れているのか、苦しんでいるのか分からなかったが、ただ憐れみを感じてそうしたのだ。
――もしかしてあれが……。
「ともあれ、弱ったものは足さねばならぬ。お前たち、まだミズチの元に通うでないぞ。まずは妾が新たな蟲を仕込んでからにせよ。一度は蟲に馴染ませた身体だ。今度は存分に浸らせてやろうかね。もう二度と妾に逆らえぬ程度に」
大蛇様の言葉に深く頭を下げる鬼灯たちを見ながら、ネネは考えていた。
ミズチにも蟲が仕込まれていたのなら、その蟲を全て取りはらったとき彼女はどうなるのだろう。本当の彼女を味方にすることは出来ないだろうか。妹として生まれたクチナを助けてくれるような人にはならないだろうか。
しかし、ネネはその妄想を振り払った。
ミズチに宿された蟲を祓う力があったとしても、蟲を追い払うことで味方になってくれたとしても、その前に彼女に触れなくてはならない。そんな事を大蛇様が許してくれるはずもない。大蛇様の目を欺いて会いに行くなんてことも出来ないだろう。
――あの時、もっと一杯気を送ってしまえばよかったのに。
後悔しても遅すぎる。
そうは思っても後悔せずにはいられなかった。
「ネネや」
隣に座る大蛇様が急にネネの手を掴んで話しかけた。
「何を企んでおるのかな。お前は人形。見たものに対していちいち深く考える必要はないぞ。また悪い事を考えているようなら、赤い紐で封じてやろうかね」
「……何も考えておりません」
「嘘付きな子だ。さてはあれに触れた時、気を渡したな? だとしたら少しは合点がいく」
「い、いえ……わたしは……」
必死に言葉を探してみるも、大蛇様の目は誤魔化せない。きっとその目をもってしても、ネネの気の流れまでは見通せないのだろう。それでも相手が真実を述べているか、虚実を述べているかくらいは分かるだろう。
ネネは俯いて女神の視線を逃れた。そんな彼女の怯えた様子を前に、大蛇様は軽く息を吐くと、八人衆と思われる男たちに向かって告げた。
「この状況下で面倒事が増えるのは妾とて避けたい。新たな八番目マムシの教育はお前たちに任せるぞ。旧八番目ニシキはクチナの全兄。優秀な血を持つその命を奪った罪は重いが、決闘中の事故は許さねばならぬ掟。腹立たしいものだが、掟は掟。妾とて破れぬものであるし、マムシもニシキと同じく妾の可愛い息子に違いない。祝い酒をマムシに渡せ。あの猛々しさを蛇穴と鬼灯の未来の為のものにするのだ」
その言葉に男たちが一斉に返事をする。
その様子を眺めながら、ネネは静かに感じていた。やはりクチナの兄は殺されてしまったのだ。大蛇様の導きかどうかは分からずとも、今も何処かで囚われているクチナの心には多大な打撃となるだろう。
――旧八番目ニシキという御方の死を嘆いているのは、あのお姉さんも同じはず。
ネネは思った。自分には無い力を持つ鬼灯の女。それも、高い位を与えられるほどの者。彼女を味方に出来れば、一度は諦めかけていた未来も近づいて来るのではないだろうか。
――ああ、でもどうやって。どうやって味方にすれば……。
傍には常に大蛇様がいる。
こうして悩んでいることもきっと見通しているのだろう。どう工夫を凝らしたところでネネの方から機会を得る事なんて出来ないのではないだろうか。
一人暗い気持ちに囚われるネネの手を、大蛇様はそっと掴んだ。
特に何も言葉はなかったが、その威圧的な雰囲気にネネは更に震えた。




