22日目‐2
大蛇様が部屋に戻れば、紐はすぐに解かれた。
けれど、これまでのように自由に部屋を出る事は禁じられ、目の届く場所で大人しくしていることしか許されなかった。そう命じる大蛇様の様子は、決して感情的ではなく、血の通わぬ人形のように冷たい印象を受ける表情であった。
ネネはそれが怖かった。怒っているわけでもなければ、憐れんでいるわけでもない大蛇様の様子が不穏だった。しかし、怖いからといっていつまでも怯えているわけにもいかない。勇気を持ってネネは大蛇様に訊ねたのだった。
「今日は決闘があったのだと聞きました」
恐る恐るその顔を見つめ、ネネは慎重に大蛇様の反応を見る。
「戦うのはクチナのお兄さんだったのだとか。どうなったのでしょう」
「お前が知るべき事ではないよ、ネネ」
やけに低い声で大蛇様はそう言った。
「だが知りたいと言うのなら教えてやろう。八番目は代が変わった。それが全てだ。クチナの兄として生まれたあの青年は、今や旧八番目。ナバリ――引退した筆頭やオニと同等の身分となった」
「血はどのくらい流れたのですか? ひょっとして、命を脅かすくらい?」
「さて、どのくらいだろうね。お前は何故それを知りたいのだ、ネネ」
鋭い眼差しで正面から見つめられ、ネネは竦んでしまった。
震えが生じ、言葉も出ない。黙っている内に、大蛇様はゆっくりとネネに近づき、その震える唇に手を当てた。それは、いつかクチナがした行動によく似ているものだった。
「お前が気になっているのは、その決闘でどのくらいクチナの心が傷ついたのか、ということだろうね」
「わたしは……」
「誤魔化しても無駄じゃ。妾にはお前の考えていることくらい分かる。お前の考える事はいつだって同じ。黒の少女がかつて口にしてきた赤の少女たちと一つも変わらない。お前はいつの時代も同じ心を持つ人形でしかないのだよ」
「……違います。わたしは、人形なんかじゃ――」
「黙れ。妾は疲れておる。どうか妾を苛立たせないで欲しいものだ。この力を蛇穴に――人間たちに捧げている分だけ、心が干からびていくのじゃ。かつて口にした先代の赤の少女の力も次第に尽きていく。そうなれば、妾に残されるのは蛇神として生まれ持ったなけなしの力のみ。これだけで今までのように蛇穴を守ろうとすれば、妾はきっと残忍な怪蛇へと変じることだろう」
「大蛇様……」
唇に触れるその指を、ネネはそっと触れてみた。
疲れていると言った通り、やつれているのは確かだった。クチナの言うように、身を呈して蛇穴を守り続けているのだろう。女神であるはずの大蛇様の心より余裕を奪うくらい、この役目はきついものなのかもしれない。
そんな女神さえも哀れに思って、ネネはその指にそっと気を送ったのだった。
「ネネ」
すぐに大蛇様の反応はあった。驚いた様子でネネの顔を見つめたが、深く溜め息を吐くと素早くネネより指を離し、目を背けたのだった。
「無駄使いはいけない。お前のその力はすべてクチナに渡すもの。大事になさい」
「でも、大蛇様。だいぶお疲れのようです。放っておいてもわたしの気は回復するのです。無駄遣いなんかではありません。どうか、わたしの力を御使いください」
「ネネ……お前と言う子は……」
裏のない純粋な気持ちでもあった。
大蛇様は自分の願いを阻む存在。クチナを何処かに隠している存在。それでも、面と向かって接していれば、昼間に感じたような疑いは何処へともなく消え、ただ憐れみのようなものばかりが沸き起こって来るのだ。
黒の少女の心が大蛇様の魂より産まれたのなら、大蛇様もまたかつて黒の少女だったもの。そう思うと、大蛇様もまたクチナのようにすら思えて、ネネは憎めなくなってしまうのだ。これまでのような信仰心ではないけれど、それ以上に根強いものとなりそうだった。
そんなネネの心を見透かしてか、大蛇様は目を逸らしたまま合わそうともせずに、ついにはそっぽを向いてしまった。
「ネネ。お前は恐ろしい子じゃ」
顔も見ずに大蛇様はそう言った。
「妾の一部に過ぎないクチナよりも厄介な心を持っておる。ああ、どうしてお前はそのように妾を見るのだ。妾を憎めばいいものを……」
疲れ切った様子で大蛇様はそう言った。
ネネは思い出していた。クチナがいつか言っていたことを。
大蛇様は実在する女神様。絶対的な神様などではなく、過ちも犯すことだってあるのだと。そういった時に咎められるものはいない。そしてネネは感じていた。そしてまた、辛い時に支えてくれる者もいないのだろう、と。
「あなたを憎んだって仕方ありません」
ネネは大蛇様を真っ直ぐ見つめてそう言った。
百年使い古したというその身体は、見た目こそは衰えていないけれども、中に宿る大蛇様という存在は、蛇穴という広大な土地を守るにはあまりにか細い。
人間の全てを守るため、蛇穴を富ますため、大蛇様は生贄を必要とし、新たな器を必要とする。その犠牲が赤と黒の少女達であるのだと、ネネも頭では分かっていた。分かっていたけれど、その現実を分かってはいなかった。
「大蛇様。わたしには恐れ多くもあなたが可哀そうな女神様に見えます」
ネネは正直にそう言った。
「クチナはあなたに分かってもらうために逃げたのです。あなたが此処まで苦しみながら守らなくてはならないほど、わたし達人間はか弱い存在なのでしょうか」
「黙れ。黙るのじゃ、ネネ。クチナの話は止すがいい。あれは妾の一部。妾から抜け出した魂が、我が一族の女の胎を借りて出てきただけの存在。あれの言葉等信じるな」
「……では、クチナの考えは、あなたの葛藤なのではないでしょうか。わたしにはそう思えてなりません」
ネネは恐れずにそう言った。
大蛇様は恐ろしい化け物ではない。蛇穴の人間たちは、困った時はいつだって大蛇様に縋る。その縋った先で、大蛇様がこうも苦しんでいるとは誰も想像しないだろう。
けれど、ネネは知ってしまった。知ってしまった以上、あれほど感じていた怯えは段々と消え失せてしまった。怖いのは大蛇様そのものではなく、これから先に待ちうけている運命の方。その恐怖に打ち勝つには、震えていては駄目なのだ。
「ネネ」
震えた声で大蛇様は言った。
「お前がどう思ったところで、契約は取り消せぬ。儀式さえ取り行えば、妾の心身も癒され、これからもまたこれまでと同じように蛇穴を守っていける。そんな妾を哀れむとは、本当に恐ろしい子」
「どうしても、どうしても契約を取り消す方法はないのですか?」
縋るネネに対し、大蛇様は今度こそまっすぐ見つめ返し、唸るように言った。
「あったとしてもお前が知る事ではない。言ったであろう。契約を守るのもまた妾の役目。もう果てしなく遠くなってしまった過去に人間と交わした約束。その証がお前の存在。いかに女神と名乗っていても、妾一人の考えで取り消していいものではないのだよ」
「でも……でも、わたしは……」
説得は無駄なのだ。だから、クチナは逃げだしたのだ。
ネネは何度も思い知り、自分の無力さに嘆いた。
このままここでクチナが抗えなくなるのを待つしかないのだろうか。かつてのネネならそれでもよかっただろう。攫われたばかりの頃のまま戻ってきていれば、はっきりとしないものを感じながらも、蛇穴の為にとクチナが諦めるのを大蛇様と共に待てただろう。
しかし、もうネネは気付いてしまったのだ。
こんな方法で死ぬのは嫌だ。あれほど共に未来を誓ってきたクチナに殺されるのなんて尚更のこと。嫌がるクチナが苦しみながら心を壊す未来等望むはずもない。
それならば、どうしたらいいのか。
――どうしたら、どうしたらいいの……。
分からず、ネネは泣きだしてしまった。
これからもきっと大蛇様の居ない時は縛られてしまうのだろう。大蛇様の居る時は、抜け出す事なんて不可能だ。それではもうクチナを探す事すら出来ない。
「ああ、ネネ」
大蛇様はネネを労わるように抱きしめ、背中を撫でた。
「存分に泣くがいい。お前の辛さは妾の責任。この蛇穴の為に生まれてきたお前は、いかなる生き物よりも尊いものよ」
「尊くなくたって……いいのです。わたしはただ……ただ、この先もクチナと生きていきたい……それだけなのです……」
「それだけのことが、なんと贅沢な願いなのだろう」
大蛇様はそう言って、ネネを見つめた。
「よいか、ネネ。クチナは少しずつお前へ抱く欲望を高めてきておる。恋しがっていた時とは違う。そろそろお前に対して抗えぬ食欲を覚えている頃だ。妾が何もせずとも同じだ。全ては時が運んでくるのだ。あのまま逃げていたって、旅先でお前はある日、クチナに襲われ丸のみにされていたことだろう」
「そんなの、信じられません。だってクチナは嫌がっていたもの」
「この欲望は絶大なもの。どんなにお前との間に情を抱いていたとしても、今までの少女と同じだっただろう。お前たちの関係など特別でも何でもない。これまでの少女たちの中にも、短い間にいつの間にか絆を結んでしまった少女たちは居たのだ。居たのだけれど、必ず同じ結末だった」
「そんなこと信じない。信じられません」
「はあ、ネネ。お前は頑固な子じゃ。もう話は終わりだ。このまま続けたって意味はない」
「いいえ、大蛇様。あなたが分かって下さるまで、わたしはやめません。どうか――」
と、ネネが喰い下がろうとしたその時、大蛇様の手のひらがネネの額を覆った。その途端、ネネの視界がぐらついた。
――苦……しい……。
目眩と吐き気と共に異様な眠気が込み上げてきた。クチナに大量の気を吸い取られた時の感覚に似ているが、それよりも何か抑えつけられているような拘束感をネネは覚えた。
「眠れ。次に起きた時は、もう少し物分かりのいい子で居て欲しいものだ」
大蛇様の声が近いはずなのに遠く感じる。
そのままネネの視界は急速に暗くなっていき、身体の力がぐらりと抜けていく。大蛇様の腕にその身の全てを委ね、屈するしかなかった。




