22日目‐1
日の光が窓より射し込んでいる。
それなのに、ネネの表情は暗いままだった。
ミズチは昨夜言っていた。今日はあまり外に出ない方がいいのだと。赤という色が美しいのならば、そうした方がいいのだと。
その忠告を守る気があったかはともかく、強制的にネネは守らされていた。赤が美しい色であり、特別な色であることは変わらない。変わらないが、ネネにとってその色は、残酷な色としてもすっかり定着していた。
赤の少女として生まれてしまったからこんな目に遭うのだという事実。そして、今こうしてネネの両手を縛り、その自由を奪っている紐の色もまた赤いため、そう思わずにはいられなかった。
――縛られるなんて……。
ネネが勝手にうろついたことは筆頭ミズチの口で大蛇様に伝えられた。
夜にうろつく事を禁じられていたわけではない。夜は危険であるといっても、大蛇様は言葉で分かるネネを紐で繋いだりするような神様ではなかった。そんな女神がどうしてこのような事をしているのか。
ネネは考えていた。
筆頭の報告の中に、大蛇様に此処までさせたような原因が含まれている。その最大の理由をネネは一つだけ予想していたのだ。
金木犀の香りに混じった血の臭い。
開いていたあの扉の向こうへと行こうとしていたこともまた、ミズチはきちんと大蛇様に伝えていたのだ。目の前で聞いていたからネネは知っている。筆頭の報告を聞きながら次第に顔色が変わっていく大蛇様の姿もはっきりと思い出せた。
――だからって、縛らなくたって……。
両手はネネの正面で縛られている。けれど、解こうとしても解けない。噛みついて紐を解こうと何度も試したが、大蛇様のその手で結ばれた紐は、不思議なくらい固いものだった。歩こうにも、紐は柱へと繋がっており、哀れにもうろつくことさえ出来ない。
時折、顔を覗かせる鬼灯の下女たちに身を任せなければ、何一つ出来ない不自由さにネネは心底苦痛を覚えた。
「お願いです」
下女が顔を覗かせた何度目かに、やっとネネは口を開いた。
「この紐を解いてください。もう十分です。十分、反省しました」
嘘を並べてでも、ネネはこの紐から逃れたかった。
しかし、その嘘をきっと大蛇様は見抜いていることだろう。それに、女神の命令を聞いて守っているだけの下女たちに、ネネを救える力があるはずもない。
「申し訳ございません、ネネ様」
下女が困った顔で返答するこの光景など、ネネの予想済みのものだった。
それなのに、なんて残念な事だろう。泣きだしそうな思いで、ネネは詫びを入れる下女のその姿を視線から外した。
「大蛇様が御帰りになられるまでは、なるべくこのままにしておくようにと言われております。大蛇様の命令は絶対のもの。現筆頭のミズチ様は勿論、八人衆の殿方さえも、破れぬものと決まっているのです」
分かっていることだった。
訴えても仕方がないことなのだ。
今日は大人しく反省したふりでもして、時を待つことしか出来ないだろう。ネネは静かに自分を納得させ、不穏に囚われる自分の心を守ろうとしていた。
――いつまでこんな日々が。
それでも焦りは消えなかった。
時間が経てば経つほど取り返しはつかなくなっていく。自分の知らない場所でクチナが何をされているのか考えれば、ネネの焦りは強まる一方だった。
大蛇様は言っていたのだ。どんな手を使ってでも儀式をさせるのだと。クチナは嫌がっていたというのに、無理矢理にでもネネを殺させ、食べさせるのだとはっきり言っていたのだ。それは一体、どんな手だと言うのだろう。
――クチナ……一体何をされているの……。
誰も教えてはくれない。
大蛇様は勿論、他にもクチナに直接会っていると思われるミズチもまた教えてはくれない。気になるのは、クチナのこと。そして、クチナの心に影響を及ぼしそうなミズチと、そして兄であるという八番目のこと。
考えている間に、下女はそそくさと入室し、ネネの様子を窺った。紐の様子に、衣服の様子。逃げださぬようにという厳重な確かめでもあったが、ネネの身体が辛くならぬようにとの、大蛇様の言いつけでもあるらしい。
「特に御変りがないようなら、わたしはそろそろ」
確かめを終えた下女がそう言って背中を向ける。
「待って」
立ち去ろうとしたその背中を、ネネは呼びとめた。
訝しげに振り向く名も知らぬ下女に向かって、ネネは必死に訊ねた。
「八番目様……クチナのお兄さんだという御方についてお聞きしたいことがあります」
「はあ……私はただの下女です。お答え出来るかどうか」
「それでもいいのです。もしも知っていたら、教えて欲しいの」
そうして、下女が戸惑いつつも促す様子を見てから、ネネは続けたのだった。
「昨日の昼、彼が別の青年から赤い布を受け取るところを見ました。あれはどういう意味なのでしょう。決闘という言葉も聞きました。何故、決闘するの?」
「ああ、ネネ様もご覧になったのですね。今日はその決闘のある日です。鬼灯の男は決闘によって身分を決めるのです。八人衆となった御方々との決闘に勝利すれば、その者は新たな八人衆となります。八人衆は筆頭よりも格上の方々。鬼灯の男にとってこの上ない出世で御座いますので、若人たちは決闘を目指して稽古を積むのです。争い事が嫌いな者は若人にもならずに剣を捨て、下男となりますけれども」
「クチナのお兄さんはその八人衆の一人なのね」
「はい……今の八番目様はいずれ大蛇様を宿されるクチナ様をお守りする為に八人衆入りを果たしました。その為、若人たちはこれまで彼に遠慮して決闘を申し込むようなことはなかったのですが……」
――それをあのマムシという青年は……。
奇妙な事なのだろう。ネネは思った。
決闘という響き。その実際を見た事はないけれど、力で解決するものなのだということくらいはネネも知っていた。
「その……決闘で、死人が出る事はあるのでしょうか……」
クチナは自分の兄の事をどのように語っていただろう。
姉も兄もよく土産話や土産物をくれたと言っていたのを覚えている。そう語っていた時の顔は、自ら逃げだしたと言うのに何処か懐かしげで、それだけでも彼女にとって姉と兄が好ましい存在であったのだとネネにも分かった。
だからこそ、嫌な予感がした。頑なに強くあろうとするクチナを、そして強くあろうとするクチナを、大蛇様がどんな方法で屈服させようと言うのか。
――まさか、そんなわけ……ないわよね。
しかし、その予感をさらに強めるように、下女もまた憂い顔で答えたのだった。
「あります。そうならぬようにと鬼灯の女たちは願います。けれど、戦う男たちは互いに必死。殺さずに勝敗をつけようと考える暇もありません。今回も、そうならないなどと誰も考えてはいないでしょう。せめて怪我で済めばいいと願うばかりです」
――ああ……。
ネネは分かった。
だから、ミズチの顔が青ざめていたのだと。
この事をクチナが聞いたらどう思うのか。クチナはどんな想いでいるのか。何故、大蛇様は止めて下さらないのだろう。様々な想いが交差して、ネネは一気に悲しくなった。
「赤い布を渡すということは、己の血をかけて勝負を挑むということ。それを受け取る事もまた、己の血をかけてそれを阻むということだと聞いております。これは誰にも介入出来ぬ約束の証なのです。大蛇様であっても、こればかりは御止になれない」
「約束……」
――赤は約束の色。
筆頭ミズチは言っていた。赤が美しい色であるのなら、今日明日は外に出ない方がいいと。地位を巡って戦う者たちの決闘は、彼女から見てきっと美しいものではないのだろう。ましてやその暴力の矛先に居るのが実弟とあっては尚更なのかもしれない。ネネは心細さと共に、想いを抱いた。
これもまた大蛇様の導いた事なのだろうか。
クチナを苦しめて、逃げる気力をそぐために、この決闘は行われるのだろうか。
――そうだとしたら、なんて残酷なのかしら。
これまでネネは大蛇様という女神を純粋に信じていた。
実際に会って、触れてみて、労わるような彼女の温もりを感じて、その慈愛を信じていたのだ。大蛇様でも出来ない事はある。救えない事はある。きっと根本にあるのは、蛇穴という国に住まう多くの人間たちの事だろう。その為に何を優先し、何を犠牲にしなくてはならないのか、女神として確固たる心構えでいるのだろう。
これがこの国の守護神。
その意味をネネはようやく知った。
クチナが全力で訴えようとしたのも、その手段が多くの人を困らせるようなものだったのも、そうしなければ本当に大蛇様に伝わらないと分かっていたからなのだろう。
「もうお聞きしたい事はありませんか?」
下女に問われ、ネネは静かに頷いた。
クチナは落ち込んでいないだろうか。そもそも、この事を知っているだろうか。教えられないと言う事はないだろう。けれど、勝てばいい。勝てばいいのだ。クチナの兄が勝利すれば、ネネの不安は解消される。
――ああ、早く。早くこの紐を何とかしないと。
立ち去っていく下女を見送りながら、ネネは思っていた。
大蛇様がどんな方法を使ったとしても、クチナの心が変わってしまう前に囚われている場所を見つけて触れることが出来たら、きっとクチナを助けることが出来る筈だと。
その魂が大蛇様の一部であったと言っても、今はクチナのもの。大蛇様の考え通りに動きたがらないクチナこそ、本物なのだと信じていた。
――だから、傍で彼女の心を守らなくてはならないのに……。
赤い紐はネネの腕を放してくれない。
まるで生まれてからずっと不自由さと寂しさを自分に与えてきた赤の少女という肩書そのもののように、ネネの心を苛み続けていた。
そうしている内に、時間だけが過ぎて行く。
結局、紐を解く事は叶わぬまま、日は暮れていったのだった。




