18日目‐2
大蛇様の私室とされる場所は、限られた鬼灯の下女やナバリと呼ばれている一部の女、そして筆頭などの立場あるオニといった者しか入れない扉の向こうにあった。
入り組んだ御社の奥の間。
寝台の他は机と灯りと座布団ぐらいのものしかないが、かなり広い空間であった。入ってすぐ、その端の座布団の上に座らされている人物。悲しげに笑むその人物を目にした途端、ネネは息を飲んでしまった。
「御久しぶりですね、ネネ」
それは人形の里に残してきたはずの雌鶏様であったのだ。
手を差し伸べる彼女の元に、ネネは恐る恐る近づいて行く。大蛇様はその様子を見つめてから、告げた。
「時間はたっぷりある。好きなだけ話すがいい」
そう言うと、扉を閉めて何処かへ行ってしまった。
二人きりにされて、ネネは緊張した。
母親のような存在の雌鶏様。けれど、きっと彼女も知っているはずなのだ。イヌの迎えを拒む形でクチナに力を貸してしまった事実を。攫われて始まった旅が、いつの間にか共に歩む逃亡へと変わってしまったことを。
だが、雌鶏様は穏やかな様子のままネネを抱きしめた。
「御無事でよかった……本当によかった。心配していたのよ。イヌ達は這這の体で戻って来る上、キツ様や鬼灯様は手古摺られておいでだと聞いて……」
「……御免なさい」
思わずネネは謝った。
それだけ雌鶏様の心配する様子に嘘が無かった為だろう。
「許して欲しければ、もう二度となさらないで。この場所――大蛇様の御膝元で大人しく過ごし、立派に御役目を果たすのです」
「わたしは……」
答えられずに口ごもるネネを、雌鶏様はぎゅっと抱きしめた。
「ネネ」
感嘆の声と共に、雌鶏様は溜め息を吐く。
「やはりあなたは変わってしまったのね。どんなに幼い頃から育み教えてきても、やっぱりあの御方には敵わない。クチナ様。大蛇様の分身。あなたは生まれながらあの御方のものなのです。御役目を果たす前から同じ。共に生きようと、共に死のうと、あなた方の間に割って入れる者はいない」
「雌鶏様……わたしは……」
弁解しようとしても、ネネには言葉が思いつかなかった。
ただ抱きしめてくる雌鶏様の温もりは、凍えるようなネネの心身を卵のように温めてくれるもので、何もかも忘れて幼い頃のように甘えてしまいたいという思いに駆られるものだった。
ネネはクチナに出会うまでずっといい子でいた。それは、蛇穴のためだという責任感のせいでもあったし、母のように愛してくれる雌鶏様を困らせたくないという思いのせいでもあった。
しかし、クチナに連れ去られてからすべては変わった。
ネネにとって雌鶏様は母のようなもの。それは変わらない。これからもずっと変わらないままだろう。だが、だからといって、一度抱いてしまった夢を簡単に諦めるなどということが出来そうになかったのだ。
「わたしは……」
この気持ちをどうしたらいいのか分からず、ネネはただ泣くしかなかった。何も知らなかった時はまだよかった。自分の気持ちを誤魔化して、気づかないふりをして牢の中でおとなしく過ごしていた頃はまだ怖くなかった。
――けれど今はとても怖い。
生贄とされる日が、近づいてくる事実が恐ろしくて仕方なかった。
「ああ、ネネ……」
そんなネネの耳元で、雌鶏様は言ったのだった。
「あなたのことは実の娘のように愛しています。けれど、ネネ。どんなに愛していても、ただの呪術師に過ぎない私では、あなたの役目を代わってあげることが出来ないの」
「雌鶏様……」
囁くような小さな声で雌鶏様は詫びるのだった。
「これはあなたにしか出来ないお役目。大蛇様に一生に一度の誓いを捧げた私には、あなたをお救いする力がない。私に出来るのは、せめてあなたの心が安らかにいられるように唄を歌うことだけ。どうか許して、ネネ」
涙ぐむその姿を前に、どうして責めることが出来るだろうか。
ネネはじっとその抱擁を受け入れ、昔と大して変わらぬ雌鶏様の手に触れて、甘えるような声で言った。
「ねえ、雌鶏様」
数え五つの頃よりずっと、彼女はネネの傍にいた。
生まれた時にネネを赤の少女だと見抜いたという雌鶏様は人形の里のどこかに隠居してもう長い。ネネにとって身近なのは目の前にいる彼女でしかなかった。
ずっとずっと彼女と離れる日を恐れてきた。
御役目の重大さを理解し、恐れを堪えて行く末を受け入れ、時が来るのを待っていた頃からずっと雌鶏様と別れることに関しては、はっきりとした寂しさを感じてきたのだ。
その思いがネネの心の中で溢れだした。
「そのお唄をどうか歌って。昔のように、またわたしに聞かせて」
大蛇様の言う通りの運命に囚われたとしても、クチナがその運命から救い出してくれたとしても、雌鶏様とこのように触れ合えることももうないだろう。
こうして鬼灯の里に来ているのもきっと特別なこと。
本当ならば、今すぐにでも人形の里に戻り、大蛇様の力を唄に乗せて大地へ伝えなければならない身であるのだから。
ネネは知っていた。
それでも雌鶏様がここに呼ばれているのは、大蛇様の計らいでもあるのだと。生贄になるしかない。蛇穴全体を守るためには、何があっても命を捧げよということなのだろう。
――でも、そんなのは嫌。
どんなに労わられても、どんなに優しくされても、意味がない。クチナと共に願った未来を諦められるわけがない。そう簡単に気持ちを抑えることが出来るわけがない。
ネネは嘆きながら、せめてもの癒しをと、雌鶏様の唄に縋った。
そんな小さな少女の背中を撫でながら、雌鶏様は黙って頷いた。どうしようもない葛藤を分かっているのかもしれない。
咎めることもせず、ただ慰めながら、雌鶏様は歌い始める。
ネネが幼い頃、言葉にならぬ不安や暗闇に泣いていた夜によく歌って慰めてくれた子守歌。大昔に先祖が大蛇様に授けられたという特別な目の輝きは、幼い頃から何も変わっていない。そしてこの旋律もまた、幼い頃より何も変わらずネネの心を支えてくれた。
――この唄ともお別れね。
雌鶏様の温かな胸に身を寄せながら、ネネは静かにそう思った。思ったきり、もう何も考えることなくただじっと大好きな音の波に包まれていった。
妖術を孕んだ不思議な唄。大蛇様の力を受け取らずとも、生まれつき不思議な力を持っていたという歌鳥という一族の唄。今までどのくらいの少女たちが蛇穴の為に死ぬまでに、この唄に慰められてきたのだろう。
ネネは赤の少女たち全ての生まれ変わりだと聞かされてきた。
だとすればきっと、今、ネネが感じている温もりと同じものを、これまでの少女たちも感じ取ってきたことだろう。
――大蛇様は悪い御方ではないのだわ……。
雌鶏様の唄に酔いしれながら、ネネは黙ったままそう思った。
――ただ、あの御方にこのまま大人しく従うわけにもいかないの。
それは、牢の中で大人しく育ってきたネネにとって、初めてかつ最大の反抗心であり、今までになくはっきりとした願望であった。
――雌鶏様との御別れは、きっと別の形のもの。
囚われたクチナがどうしているかも分からない状況にありながら、ネネは信じ続けていた。クチナはネネにとって初めてできた友。喰う者と喰われる者という関係ではない、対等な友として未来を歩めるのだという夢を守り続けたい。
唄に慰められているうちに、願いはどんどん強まっていく。
どうしてだろうとネネはそっと歌う雌鶏様を窺った。大昔、大蛇様に授けられたという人間離れしたその目は、今までになく憂いを帯びて輝いている。大蛇様に絶対服従の誓いを捧げていながら、ネネの願いが叶うように祈っているかのようだった。
唄を聞けば聞くほど、もはやネネには迷いもなければ恐れもなくなっていった。
クチナと共に八花へ。その願いを叶える為にはどうしたらいいのか。自分には何が出来るのか。考え始めていたのだった。
そんなネネをその想いごと包みこむように、雌鶏様は歌い続け、歌鳥としてのいっぱいの力を注ぎ続けた。邪魔する者は誰もいない。鬼灯も、そして大蛇様すらも、当分の間、ネネと雌鶏様の時間を妨げようとはしなかった。
雌鶏様の唄が終わった後も、ネネは時間が許す限り甘えた。
これが最後。これで最後。
クチナによって奪われ、そして、大蛇様によって再び与えられたこの別れの機会を、ネネは存分に味わった。




