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11日目‐1

 木々の隙間より日の神の影が射し込む時刻。目覚めてみればそこはキツの背中であった。

 クチナの背中と違って、温かく、柔らかく、とても眩しい色をしている。赤い衣にやけに白い身体。その色合いは、ネネにとって絶望的なものでもあった。

 傍では双子熊たちが飼い犬か何かのように繋がれて歩かされている。きっと歯向かいでもして、こっぴどく負けてしまったのだろう。一山の主の子とは思えぬ待遇に、二匹ともすっかり肩を落としていた。


 ――クチナは……。


 キツの背中に負われながら、ネネは必死に辺りを見つめた。

 黒い衣に覆われた長髪の少女。それらしき姿はどこにも見当たらない。まだ戦っているのか、大鴉に引き取られたのか。


 ――ああ、クチナ……。


 どちらも嫌だった。白鬼からも逃げ、大鴉からも逃げ、どうかこの状況から救ってほしい。ネネは祈り続けていた。


「ネネ様……」


 ふと背負っているキツが声をかけてきた。


「御目覚めになられたのですね。御気分は如何です? きっとあまりよくないでしょう。ずっと魘されていましたよ」


 優しげなその声は女性のもの。雌鶏様の見せてくれた優しさにもよく似ていて、ネネの心には非常に沁みた。だがその優しさに甘える気にはなれない。この者たちは敵なのだ。ネネがクチナとの未来を望む限り、諦められない限り、彼らとは相容れない。


「クチナ……」


 嘆きの呟きに、キツがじっとネネを窺う。


「御心配なさっているのですね。我らも同じです。千代鶴を呼ぶのですが、今朝よりなかなか現れてくれぬのです。大鴉殿もどうしているのか分からずじまい。白鬼めの気配も近づいたり離れたりで定まらない。ただ唯一、鬼灯の方々がようやく細石に入ったのだと影鬼の使いが参りました。彼女たちが来れば安心です。白鬼も恐れるに足らぬ存在となるでしょう」


 そう言いつつも、キツは不穏な様子で溜め息を吐く。


「それまで、クチナ様が無事ならばいいのですが……」


 悪い予感は当たるとネネは聞いたことがある。

 起きてから数分も経たないというのに、ネネの心は真っ暗だった。これならば、無理矢理眠らされている間に見た夢の中に居た方が幸せだった。


 ――いいえ、目を逸らしては駄目。


 ネネは自分に言い聞かせた。


 ――クチナが頑張っているのだもの。


 力も与えられないまま半日以上が過ぎている。もうすぐ経てば一日だろう。そんな状況でクチナは大丈夫なのだろうか。今まで大して飲まず食わずでいられたのも、ネネがいたから。ネネの気があったから。その気を渡せないまま長時間経ってしまった今、白鬼から逃れる力は残っているのだろうか。


 ――ああ、もう誰でもいいわ。


 逃亡劇の行く手を阻む神の使いであったとしても、クチナの命を救ってくれるのならば構わない。ネネは大鴉と千代鶴に願いを託していた。


 ――クチナをどうかお助け下さい。


 祈るような気持ちと共に背負われ続けて暫く、キツの一行が突然立ち止まった。

 繋がれていた双子熊が暴れ出し、キツたちもまた警戒を強めて一方を睨みつける。その異様な雰囲気に呑まれそうになるネネとそれを背負うキツを、大将格が庇うように隠した。


「居るのは分かっておるぞ」


 大将格が吠えると、すぐに応えるように大きな物音が響いた。

 木々が無残にも倒されて地面にぶつかる音だ。地響きと共に咆哮が聞こえる。間もなく現れたのは、かの神々しい姿の巨熊であった。


 ――白鬼……!


 血走った目をキツ達に向けて、彼は牙をむき出して吠える。

 たった一匹のみ。千代鶴もいなければ大鴉もいない。共に戦っていたはずのクチナさえ何処にも見当たらなかった。


 ――そんな、じゃあ、クチナは……?


 ネネの頭の中が真っ白になる。


「キツネ共。誰の許しを得てこの地に足をつけておるのだ」


 白鬼が荒々しくキツ達に言った。


「此処はもはや俺の土地。通るのならば相応の対価を頂くぞ。そうだな、そこに背負われている薄汚い紅衣の娘を頂こう」


 自分の事だとすぐに分かり、ネネは怯えた。

 クチナはどうしてしまったのだろう。その疑問が頭に引っかかりつつも、恐ろしさで顔をあげることすら出来ない。自分を背負うキツの身体に身を寄せる事しか出来なかった。

 怖がるネネを取り囲み、キツ達が果敢にも行く手を阻む。


「威勢のいい化け熊じゃ。悪鬼に過ぎぬ輩に高貴な姫児を渡せるはずもなかろう。天狐様の血を引く我ら、細石の御神の為にもその美しい首を頂こう」


 大将格の声と共に、キツ達の数名が鬼火と共に動きだす。無謀な斬り込みだとネネですらも理解出来た。狙っているのは白鬼の命ではなく、安全にこの場を切り抜ける事だけなのだろう。その為ならば、仲間の一人二人の犠牲もやむなしと思っているのかもしれない。

 しかし、そんな事は白鬼もお見通しであるようだった。

 彼もまた迷いなく飛び掛かると、行く手を阻むキツ達の相手は疎かに、真っ直ぐネネを背負うキツめがけて走り出したのだ。


「いかん、逃げろ!」


 大将格が吠え、ネネを背負うキツが従う。


「そうは行くか」


 獰猛な白鬼の声が響いたかと思えば、すぐ傍からキツ達の悲鳴があがる。木々をなぎ倒した時と同じく傍で行く手を阻もうとするキツを次から次に薙ぎ払いながら、白鬼の目はただ真っ直ぐネネを捉えていた。


「その小娘を寄越せ」


 追いかけながらも確実に動けるキツの数を減らしていく。

 鬼火もキツも白鬼を止めるほどの力はどうやらないらしい。いつの間にか動けるキツはネネを背負う者と大将格を含め、ほんの三、四人となっていた。

 いつの間にか解放されていた双子熊たちが、逃げまどいながらもネネを背負うキツを誘導しようとする。


「こっち」

「狭い所を知っているよ」


 しかし、その誘導をすぐに白鬼は見逃さなかった。


「目障りだ」


 短い一言と共に、双子熊の内の一匹――少年熊が白鬼に殴り飛ばされる。それに釣られた少女熊を捕まえると、同じく強い力で放り投げてしまった。その一撃で、幼い二匹はもはや動けなくなってしまった。


 ――なんてこと……。


 血泡を吹く二匹の身を案じるも束の間、白鬼にまっすぐ見つめられ、ネネは怯えた。残るキツ達が恐怖を堪えて立ち向かう。だが、自ら殺されに行くようなもの。ただの熊でもなければ、低級なアヤカシなどでもない白鬼の力を前に、いよいよ喰われるのを待つしかないのだろうかと怯える中、ついにキツの大将格が鬼火と刀の怪しげな力で、一矢報いてみせたのだった。


「ぐうっ、貴様――」


 真っ白な体毛が赤く染まる。

 鮮やかな動きは他のキツ達と比べられぬほどのもので、白鬼を完全に翻弄しつつ、新たな赤を生みだし続けていた。その勇姿に勇気づけられるように、残るキツ達も共に戦う。ネネを背負うキツだけが離れた場所より見つめ、逃げる機会を窺っていた。


「その首貰った!」


 やがて大将格が怒声を上げて白鬼を斬りつけたとほぼ同時に、ネネを背負うキツは走り出した。たった一人で向かうのは、南の方角なのだろう。その先はネネの望まぬ故郷に続いている。複雑な思いの中、それでも白鬼の恐怖から解放される安堵を感じていたその時だった。


「俺を舐めおって」


 その一言と共に、キツ達の悲鳴が響いたのだった。

 大将格も他のキツも、皆、たった一撃でやられてしまった。振り返る先にいるのは、己とキツ達の血で真っ赤になった白鬼の姿。傷を負い、動けない大将格が、それでもどうにかネネを背負う仲間へと訴える。


「……逃げろ、逃げるんだ、早く!」


 だが、もう遅かった。

 白鬼は手を抜かなかった。動けぬキツ達には目もくれず、ネネを背負うキツのみをめがけて飛び掛かり、そしてあっさりとその身体を捻り潰してしまったのだ。そしてキツがただ動けぬことだけを確認すると、相手が死んだかどうかも気にせずに、彼はすぐさまネネの身体を掴みあげた。


「さあ、覚悟するんだ」


 緊張するネネの顔を覗きこみ、白鬼は牙を剥いて嗤う。


「ここ数日溜まった欲を存分に晴らさせてもらうぞ。来い」

「い、嫌……」


 逃げようとするも、乱暴に抱えられネネは悲鳴を上げた。

 白鬼の力は強過ぎて、自分の力では逃げられない。しかし、キツは残らず倒され、双子熊さえも動けない今、助けてくれる者なんて何処にもいなかった。

 それでも、願うしかない。


 ――誰か助けて。


 地面を踏みしめて歩む白鬼。傷つき倒れるキツ達の姿が少しずつ遠ざかっていく。何処へ連れられて行くのだろう。何処であったとしても、そこはネネにとっての墓場となる場所なのだろう。そう思うとますます恐怖が込み上げてきた。


 ――誰か、誰か……。


「クチナ……」


 その名を呟くと、白鬼が笑みを漏らした。


「ほう、蛇姫が恋しいか? ならば約束してやろう。貴様らは俺の腹の中で再会できる。まずは貴様を喰ってその力を得てからだ。貴様の血で誘き出された娘子を今度こそ辱め、腹を掻っ捌いて喰ってやる」


 その言葉に、ネネははっとした。


「じゃあ、クチナはまだ……」


 まだ無事なのだ。

 そう思った途端、ネネは更に気付いた。

 香り。金木犀の香り。それだけではなく、あの香りがする。嗅ぐだけで心の落ち着く愛おしい香りだ。その香りが鼻に届いたかという所で、急に白鬼の身体が揺らいだのだった。


「貴様、いつの間に――」


 白鬼が身を翻したのは咄嗟の事だろう。しかし、既に彼は斬られた後だった。キツ達との戦いでの疲労と痛みがあったのかもしれない。その弱りは、更なる痛みへと繋がった。

 白鬼を斬ったのはただの刃物ではない。


 蛇斬。


 高位のアヤカシどころか神に匹敵する者をも切れるというその妖刀は、白鬼の肩をごっそりと斬りつけていた。色の濃い血が噴き出す中、その赤がネネの身体を汚す前に、彼女は素早くネネの身体を奪い取って白鬼から距離を離した。

 その冷やりとした感触。そして、やや憔悴した横顔。


「クチナ……」


 泣きだしそうな思いで、ネネはその身に身体を寄せた。

 この一晩でだいぶ疲労を溜めているようだった。傷や汚れが彼女の身体を汚している。それでも美しい顔は変わらず。ネネの心を恐れさせる真っ赤な目も変わっていない。


「ネネ」


 クチナは白鬼から目を離さないまま、ネネに言った。


「遅くなって御免。怖かったでしょう」


 そして、蛇斬を大きく振って、傷に苦しむ白鬼を牽制した。


「キツと双子熊の痛みはこんなもんじゃない。彼らに変わって、わたしがお前のしるしを頂こう」


 震えるようなその声。

 立っているのも本当は辛いのだろうとネネは察した。その背よりクチナの身体を抱きしめ、半日以上ぶりに力を託す。小さな傷が治っていくのが見えたところで、クチナはネネを振り払った。


「離れていて。巻き込まれないように」


 そう言ったか言わないかで、クチナは白鬼に向かって飛び掛かった。

 相手は手負い。キツを残らず倒してしまったとはいえ、そのキツに傷を負わされ、クチナからも深手を負わされている。対して、クチナは目立った傷もなく、今しがたネネより力を得たばかり。

 それでも、ネネはクチナが心配だった。


 白鬼。相手は神すらも翻弄する化け物なのだ。細石国中の主を追い払い、或いは殺し、神鳥を悩ませ続けた悪鬼なのだ。巨熊の外見に違わぬ力で他を圧倒する彼と、妖刀こそ持たされてはいるが、見た目は人間の少女と変わらぬクチナでは違い過ぎる。

 そのネネの不安通り、戦いはほぼ互角であった。

 手負いの化け熊相手にクチナは辛勝を狙っている。決して気を抜かず、少しずつ隙を窺って、その急所のいずれかに妖刀を食らわせようと狙っているのだ。


 戦いは続き、互いに焦りも見え始める。

 しかし先に隙を見せたのは白鬼の方だった。大振りを空振り、血の混じる汗と涎と共によろけた所をクチナは見逃さなかった。


「貰った!」


 力を溜めて、一瞬で斬り捨てようと蛇斬を振るう。白鬼の悲鳴が上がり、容赦のないクチナの追撃が加わる。その剣戟の様子に、ネネはクチナの勝利を確信した。

 だが――。


「甘いな……小娘が……」


 痛みをこらえつつ、白鬼は片腕をクチナに伸ばした。

 妖刀は弾き飛ばされ、地面へと刺さる。取りに逃げようとするも、既にその手がクチナの胴を握りしめていた。


「ついに捕まえたぞ……蛇姫」


 牙を見せ、涎を垂らし、白鬼はクチナへと吠える。


「女神の雛形。その尊い味を今ここで味わわせてもらうぞ」


 大口を開けて齧りつこうとするその姿に、ネネは思わず走り出した。向かうのは蛇斬の元。地面に突き刺さるそれをどうにか抜いて、ネネは白鬼を睨みつけた。

 その気配を察知して、白鬼がネネへと向き直る。


「ネネ……」


 クチナが不安げに見つめている中、ネネは蛇斬を必死に構えた。


 ――重たい……。


 両手で握りしめ、白鬼を睨み続ける。


「クチナを……放して!」

「ほう……人間ごときがこの俺と戦うつもりか?」

「駄目だよ、ネネ。逃げて……」


 ――クチナ。


 ネネは蛇斬を構えたまま、一歩、二歩と白鬼へと迫った。

 煽るように白鬼はクチナを握りしめる。苦痛に顔を歪ませながらも、クチナはなおもネネに訴え続けた。


「お願い……君だけでも逃げて……」


 しかし、ネネの歩みは止まらない。


「出来ない」


 震えながら、泣きながら、ネネは蛇斬と共に白鬼へと迫り続けた。


「あなたを置いてなんていけない!」


 殺されてもいい。

 そんな思いでネネは走り出した。刀を扱う術なんて知らない。持っているだけで精一杯の中、巨熊など倒せるなんて自分でも思わないだろう。それでも、ネネはクチナを見捨てられなかった。苦しむクチナを置いて、自分だけ逃げる等出来なかったのだ。


「ネネ……」


 それがたとえ、クチナを悲しませる事となっても。


 ――御免、クチナ。


 共に死ぬ思いでネネが立ち向かったその最中、周囲の雰囲気が一変した。

 いつの間にか雑音が響き、空が何かに覆い尽くされる。見れば、そこには無数の千代鶴がいた。そして木々の間には複数の何者かの気配。


「大鴉どもか」


 白鬼が周囲に気を取られたその一瞬。何者かが目にもとまらぬ速さで迫り、その手よりクチナを奪い取っていった。呆気にとられるネネもまた、何者かに捕まえられて白鬼から放されていく。


 ――何事?


 白鬼が言った通り、大鴉の姿がネネの目にも見えた。だが、大鴉だけではなかった。我に返った白鬼と戦っているのは黒い衣の女達。面を被っているのは大鴉と一緒だが、大鴉のような鳥の面ではない。見覚えがある姿だが、以前見た時とは全く違う雰囲気を醸している。それは、今、ネネを捕まえている者も、そして、ぐったりとしたクチナを大事そうに抱いている者も同じだった。


「貴様らは……」


 白鬼が絶句する。

 血を流しながら、牙を剥き、周囲を取り囲む高位のアヤカシを見つめていた。


 ――オニだ。


「無事でよかった」


 背後から聞こえたその声には聞き覚えがあった。

 筆頭とクチナが呼んでいた声。振り返れば確かに、黄金の面の者がそこにいた。オニの仲間がクチナを運んでくる。ぐったりとしつつも、青ざめた顔で周囲を見つめていた。その頭を、筆頭は片手で強く掴み、言った。


「せっかくだからよく見ておけ。これが任務の様子。オニ達の仕事ぶりだ。お前やキツ達が苦戦したあの下郎も、幾時も持たないだろう」

「……姉さん」


 クチナが絶句する中、ネネはそっとその身体に触れ、蛇斬を返した。しかし筆頭に抗うことは出来ないまま、その言葉通り、ほんの少しで決着はついてしまったのだった。

 オニ達が慈悲もない目で白鬼の命を奪っていく。その光景を見つめながら、ネネは少しずつ別の恐怖を覚えていった。


 日が暮れていく。日の神は去り、夜が訪れようとしている。

 それでも、筆頭を始めとしたオニ達の姿は泥人形となって溶けてはいかない。紛れもなく、彼女たちはそこに居た。

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