10日目‐2
双子熊たちの様子に異変が起こったのは、待ちくたびれたネネの意識が半分ほど睡魔に攫われかけていた頃だった。
クチナがやっと到着したのかと期待したのも束の間、双子熊たちの見せる表情を見て、すぐにネネもまた警戒を強めた。
外で何かよからぬ者が現れた。
千代鶴の飛ぶ音はしない。ただ、聞こえてくる雑音の中には、聞き覚えのある音が混じっていた。からころと音のなる下駄と、聞き心地のいい鈴の音。清めの力を持つのであろうそれら複数の音を聞いて、ネネは息を飲んだ。
以前にそれを聞いたのは、狐尾町の中でのことだ。岩生の森林でも聞いたかもしれないが、ここまで音に浸れたのは町の中以来のこと。あの時も、裏通りからそっと覗くように彼らの姿を見たのだった。
――キツ……。
面を被って周囲を窺う彼ら。クチナが斬ってしまった者たちとは別者だろう。だが、姿はよく似ている。妖怪のような色提灯溢れる夜の町で見かけた時と比べれば、命溢れる厳かな夜の森林に佇む彼らの美しさはまた違ったものを感じる。
美しい神の使い。
だが、会いたくない追手でもある。
――あの時は見つかってしまったのだった。
見つけたのは司と呼ばれていた男。クチナが斬ってしまった彼の姿は何処にもない。そこにいるキツ達は、皆、似通った恰好をしているだけだ。
それでも、侮れなさはすぐに伝わってきた。
「怪しい風が吹いておるのう」
キツの一人がそう呟いた。
「細石だからというわけではあるまい。この辺り、何かただならぬ気配が隠れているような気がする」
するとそれに賛同するように仲間のキツたちも頷き合うのだった。
「それにしても、黒の少女もご勝手が過ぎる。母君をそうも苦しめて、何になるというのだろう。童と言うものは何をしでかすか分かったものじゃない」
「これ、失礼を……と言いたいところじゃが、全くだ。それもこれも、蛇斬なんぞを易々と使わせる大蛇様の溺愛の所為。儀式までは竹刀でいいものを」
「どうやら蛇斬を早々に持たせなくてはならぬ都合もあるらしい。ああ、それにしても、厄介な事だ。鬼灯の御方々の中には、黒の少女が自ら役目の放棄を望んだと知って心を痛めた者もいるそうな。生贄に恐怖という気持ちがあるのだと知って、辛いと申す者もいるそうよ」
そう言って、キツの一人は俯いた。
「……実を言えば、わたしも気持ちは分かるのよ。クチナ様だけではなく、ネネ様まで御逃げになったと言う事は、ご自身の立場を嘆いておいでだからなのだと」
「ええい、何を言うか!」
キツの一人が地を踏みならして叱咤する。
「邪を払えばこれまで通り、あの方々も崇高な姫君に戻るはず。赤の少女も黒の少女も既に神に等しき存在。そのように疑うなど恐れ多い事よ」
厳しげなその言葉が、岩場で息を潜めるネネの心にも突き刺さる。
「とにかく御捜しなさい。この辺りを隈なく探すのです」
大将格のキツが叫ぶと、仲間のキツも慌てたように頭を下げた。
岩場で身を潜めながら、ネネは震えながらも重たい心を抱え続けた。
自分達を憐れみ始めている人たちもいる。キツだって、鬼灯だって同じこと。それでも、追手はやまないだろう。大蛇様が生贄を欲している限り、追いかける事はやめないだろう。それが怖くてたまらなかった。
――説得など、きっと通じないのね。
どんなに憐れむ者がいても、今日明日で変化が起こる事はないだろう。
可哀そうに思いながらも、生贄の儀が終われば忘れるだけ。自分でなくてよかったと心の何処かで思うだけなのかもしれない。
かつてはそれでもよかった。それでも、蛇穴が救われるのなら、雌鶏様の役に立てるならと思うことが出来た。しかし、今は違う。一度抱いてしまった夢は覚めそうにない。クチナに誘われ、思い描いた未来絵図はどうにかして手を伸ばし掴み取りたいほどの代物へと変わっていた。
――見つかっては駄目。
逃げ場のない中、ネネは必死に息を殺した。
しかし、キツたちは感じている。ネネの放つただならぬ気配を嗅ぎ取り、探しているのだ。双子熊たちが焦りを見せ始める。やがて、キツの数名が岩場の隙間へ目をつけるかというとき、ついに二匹は自らその姿を見せたのだった。
「おやま、熊の子じゃ」
キツの一人がそう言うと、少年熊が真っ先にお辞儀をしてみせた。
「脅かしてすみません、御使いキツネ様方。ボク達は月山の双子熊。こう見えて、山の主の血を引いている者です」
「ただならぬ気配と仰いましたが、それはきっとわたし達のこと。父母より受け継いだこの霊力が感じられましょうか」
そう言って二匹は両手を広げてキツ達を見上げる。
キツ達は面の下よりじっと二匹の双子熊を見つめると、互いに顔を見合わせた。その視線で何やら会話をすると、やがて、その場を牛耳る大将格が二匹に目線を合わせ、丁寧に訊ねたのだった。
「細石国の現状はよく存じているよ。つい今日も酷い有様となった里で人間たちを弔ったところ。月山と言ったね。お前たちの名乗りが真のものなら、聞き捨てならない。白鬼めに荒らされ、踏みつぶされている御山じゃないか」
今度は双子熊が顔を見合わせる番だった。二匹で何やら意思を交わし、示し合わせてのちキツの大将格へと向き直る。その間、岩影にてネネは祈るような思いと共にその状況を見守っていた。
「そうです。だから、此処で身を隠しているの」
「ボク達の身体が大きくなったら戦える。それまでじっと待って、白鬼から隠れて暮らしているんです」
そう言って、二匹は平伏した。
「御使いキツネ様方、誠に恐れながら、あなた方が此処に留まれば、白鬼はきっと此処を怪しむでしょう。どうか、早々に別の場所へと移動してはくれませんか?」
「無礼は承知です。けれど、あたし達も怖いのです。いつ白鬼に見つかるかと思うと、情けなくも母上の殺された時を思い出してしまうから……」
そう言って涙を浮かべる双子熊。なんという名芝居だろうとネネは感心してしまった。キツ達もすっかり二匹を信じた様子で気を抜いている。すっかり捜索する気をなくしたキツの仲間に囲まれながら、大将格のキツは面の下からじっと双子熊を見つめていた。
「そうかい、健気な心がけよの」
大将格はそう言うと、立ち上がる。二匹の子熊を見下ろしながら、しかしその視線がゆらりと岩場の隙間へと向いた。
ネネの息が止まりかける。
その目は間違いなく、ネネの潜んでいる場所を探っていたのだ。
「じゃあ、そこに隠しているのは、さながら、お前たちが成長するための御馳走といったところかの」
面をゆっくりと外し、素顔をさらして大将格はネネを見つめる。
司と同じく、その顔もまたケモノのキツネと同じ。真っ白なその顔に見つめられて、ネネもまた視線を釘づけにされてしまった。
双子熊たちが慌てて大将格の足元にすり寄るも、仲間のキツたちに呆気なく阻まれた。子供にしては逞しい幼熊であったとしても、狐神の子孫には敵わないらしい。あっさりと首根っこを掴まれて取り押さえられる二匹の姿に、ネネは絶望を深めた。
「あまり手荒に扱うでないぞ。その童どもが月山の正当な主の子であるのは間違いないのじゃからな」
大将格が仲間に告げる。
「大鴉殿に御返しするまでに怪我なぞさせてはならぬ。この御方――赤の少女に至ってはなおの事よ」
そう言いながら、大将格はゆっくりと岩場の隙間をくぐり、手を伸ばしてネネを見つめた。その目が細められ、真っ白なキツネの顔で大将格は微笑みを浮かべる。
「御捜ししましたよ、ネネ様。我らと帰りましょう」
穏やかでいられるのは、相応の妖力を宿しているからなのだろう。
キツを取りまとめるその大将格からは、かつて見た司に匹敵するほどの雰囲気を感じられた。この場の全てを支配している者の目。クチナのものよりも鋭い色をしたその目に見つめられて、ネネは凍りついた。その傍へ、大将格のキツはあっという間に辿り着く。
腕を掴むその手を拒み、逃れる勇気がネネにはもう残っていなかった。
「千代鶴を呼べ」
ネネの片手を掴みあげ、大将格のキツは吠えるように仲間に言った。
「大鴉殿と、そして鬼灯の方々に告げるのだ」
ぶら下がる形で無理矢理立たされ、血のめぐりと窮屈さをひしひしと感じながら、段々とネネは現実を受け止め始めていた。
キツの一人が不可思議な声で夜空に叫ぶ。すると、間を置かずして聞きなれた雑音が響き、千代鶴たちが何処からともなく現れ始めた。言葉なくして意は伝えられ、千代鶴たちはすぐにまた飛び去っていく。
「白鬼めがすぐ近くをうろついているそうです」
千代鶴とやり取りをしたキツがそう言った。
「黒の少女とおぼしき鬼灯一名と戦っているのだとか」
「クチナ様が白鬼と?」
驚く大将格が窺うようにネネへと視線をやる。つられて、他のキツ達もじっとネネを見つめた。その視線に耐えきれず、ネネは泣きだしそうになった。
――ああ、クチナ。
力は抜けていく。
――まだ戦っているのね。
心配でたまらなかった。怖くてたまらなかった。その想いが溢れ、ネネはようやくキツたちに向かって言ったのだった。
「お願い……お願いします。クチナを助けて……」
ネネの切羽詰まった様子に、キツ達の顔色が変わった。
「ああ、なんてこと。黒の少女が白鬼とたった一人で?」
「鬼灯の方々は今、何処におるのじゃ」
「彼女たちならば一日二日もあれば辿りつけましょう。しかし、それで間に合うのか」
「やい、双子熊。お前たち熊の仲間なら白鬼めの弱点も分かるのではないか?」
「よせ、童に当たっても意味がないぞ」
慌てざわめくキツ達の声が、更にネネを追い詰める。聞けば聞くほど一人で残していくのではなかったという後悔が強まり、どうしようもなく苦しめていた。
――どうか無事でいて、クチナ。
捕まった苦しみよりもずっと、その願いばかりが頭を過ぎる。もう一度、無事なクチナの姿を見るまでは、心が晴れることもないだろう。
ざわつくキツ達の囁きの中で、ネネはただただ祈り続けた。
「ええい、黙れ黙れ黙れ!」
大将格のキツが吠える。
一同が黙るのを待ってから、大将格は千代鶴とやりとりをしていた仲間へと訊ねた。
「大鴉殿は何と?」
「――はい。白鬼めの動きを封じるべくまずはそちらに向かうそう。戦っているのがクチナ様ならば、捕まえて鬼灯の方々か我々に引き渡すとの事でした」
「なるほど、ならば、そちらは任せるしかない」
大将格は言った。
「よいか、兄弟姉妹。この先はネネ様をお守りする事が最優先じゃ。鬼灯と合流するまでの間、そして蛇穴の地を踏むまで、一睡も出来ぬものと思え」
厳しい口調で仲間に告げてから、大将格はネネを見つめた。
「ネネ様、御安心を。いかに白鬼とは言え、大蛇様の秘宝を手にする資格などありますまい。我らを、大鴉殿を、そして鬼灯の方々を信じて――」
と、大将格がネネの額へと触れる。
「今はただ眠りなさい」
はっとしたのも束の間、ネネの意識は呆気なくキツの妖術へと絡め取られていく。
――いや。
沼地に足を取られるように、泥の眠りへと誘われながらも、ネネは懸命に抗おうと瞼を開けた。
――眠りたくない。起きていなくては。
心に宿るのはクチナの事。
恐ろしい白鬼と戦っているはずのクチナの安否だけだ。それが分かるまでは、呑気に眠ってなんかいられない。そんな強い拒否の心がネネに抗う力を与えようとしていた。しかし、強い妖術を直に受け、いつまでも囚われずにいられるほど甘くはない。
もがき苦しみ悔しみながら、ネネの心は段々とキツの望んだ眠りの世界へと堕ちていってしまったのだった。




